登川炭鉱跡  探検: 北の細道 登川炭鉱

登川炭鉱の消えたコニカル貯炭槽




北海道夕張市


 奔別唐松は住友、 砂川美唄は三井、 大夕張美唄第二は三菱と
石狩炭田の財閥進出は活発なものだった。

財閥とは巨大な財力をもって、一族や系列で様々な分野の企業を独占的に経営する集団のことだ。
第二次大戦後に財閥は解体されたものの、
実質的には現在も自動車や電機、鉄鋼関連などの分野で存続している。

明治40年代以降、鉄道網の整備により地理的弊害や輸送手段の障害が取り除かれたことにより、
未開発の道内炭鉱は財閥資本にとって、格好の投資対象となった。
上記三大財閥の他に大倉鉱業・山下汽船、そして北海道炭鉱汽船などによって、
石狩炭田の中小炭鉱が買収され石炭業界は支配されていくこととなる。

そのため道内炭鉱は九州のような地場資本による大規模化が進むことなく、
財閥という国家事業家の競り合いの中、北炭の圧倒的優位性さえ崩れていくこととなる。

石狩炭田に最も早くに進出したのは、三池炭鉱の払い下げから筑豊炭田を開坑した三井鉱山である。
三井が北海道進出を意図したのは筑豊進出の直後である明治30年頃のことであり、
北炭の株の18.2%を買い占め、明治44年(1911)には登川炭鉱を買収、
その後、釧路・天塩に進出した。

三井に一歩で遅れた形で石狩炭田に進出してきたのは三菱財閥であった。
三菱の本業は海運業であり、その船舶用燃料の確保のために、
九州の 高島炭鉱 を買収した後、明治44年頃から北海道に本格進出してきた。
夕張・芦別などでの試掘を行い、大夕張・美唄と各炭鉱の買収が進む。
住友は大正5年(1916)に道内進出、歌志内・奈井江等の中小炭鉱を経営している。

財閥資本の石狩炭田進出状況

 
  財閥名   年次   炭鉱   状況
 三井鉱山  M44(1911)  登川  買収
 T4(1915)  砂川  開坑
 T11(1922)  文殊  買収
 S3(1928)  美唄  買収
 S14(1939)  芦別  開坑
 三菱鉱業  T4(1915)  美唄  買収
 T5(1916)  大夕張  買収
 T5(1916)  芦別  開坑
 住友鉱業  T5(1916)  唐松  買収
 T13(1924)  上歌志内  共同経営
 S3(1928)  歌志内  買収
 S3(1928)  新歌志内  買収
 S3(1928)  奈井江  買収
 S3(1928)  奔別  買収
 S11(1936)  赤平  開坑
 S12(1937)  上赤平  開坑
 大倉鉱業  T7(1918)  茂尻  開坑→雄別
 山下汽船  T5(1916)  歌志内  買収→住友
 T5(1916)  新歌志内  買収→住友
 T5(1916)  奈井江  買収→住友
 T5(1916)  奔別  買収→住友
 雄別炭鉱鉄道  S10(1935)  茂尻  買収



財閥系資本の進出は中小零細炭鉱の買収や新鉱区の設定、開坑という形で進められたが、
その過程で明治30年代後半から発展の兆しを見せていた各地場炭鉱の自主的発展は、
極めて困難な形となり、労働力不足や地理的不利性など固有の問題が弊害となり、
発展を阻止したのは紛れもない事実だ。

登川炭鉱は明治37年頃に発見、明治43年(1910)から採炭に着手、
露頭から開坑、水平坑道を設けた。
隣り合う楓坑と共に三井系列の中で開発が進んだものの、
昭和28年(1953)閉山、楓坑は 真谷地炭鉱の傘下に入り、
昭和62年(1987)に閉山を迎える。

夕張管内で唯一の三井系列の炭鉱。
バイパス道に押しやられる形で、かつての遺構は少なくなっている。
幹線道路から外れていった、かつての産業遺産を訪ねてみる。

ホッパー・坑口・蜂の巣・・・



炭住
( ̄u ̄;)炭住街





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