砂川炭鉱跡  探検: 北の細道 砂川炭鉱跡

砂川炭鉱跡で火工所に迷い込む




北海道上砂川町

  火薬は花火やダイナマイトなどに代表される、燃焼化学反応による発熱量の高い物質で、 
大きな音や光を発生しロケットの推進、岩石などの破壊などに利用される。

燃焼速度が速く、高温・高圧のガスを瞬時に放出する。
音速以上(9,000m/sec)の燃焼速度を持ち、瞬間的に40万気圧、4,000℃という高圧高温を発するものもある。

火薬は酸化剤(塩素酸カリウム等)と可燃剤(硫黄・ストロンチウム等)からなり、
火薬取締法により規制されている。
黒色火薬や花火などを「火薬」と呼び、ニトロ化合物を3基以上持つ破壊威力の大きいものを「爆薬」、
「火薬」や「爆薬」を利用した物品を「火工品」として分類している。


明治後半から開拓の進んだ、面積が道内最小の街、上砂川が発展したのは、
大正2年(1913)の財閥による石炭採掘のための土地買収に端を発する。

大正6年(1917)、財閥と鉄道院が今でいう 「JV」複数の異なる企業体が共同で事業を行う 組織 形式で敷設工事に着手した上砂川支線は、
難工事であったのにもかかわらず、7.3kmをわずか2年で完成させる。

開通後石炭輸送は飛躍的に伸び、大正7年(1918)7万数千tだったものが、
4年後には23万tを超えることとなり、太平洋戦争開始直前の昭和15年(1940)には161万tに達する。
更に当時の上砂川駅の運賃収入実績は@函館 A札幌 B夕張に次ぐ、全道第4位となる。


同線の旅客扱いが開始されたのは大正15年(1926)からで、
昭和24年(1949)の上砂川町の誕生を超え、世帯数6,118戸、人口31,406人を記録する。

しかしながら、昭和35年(1960)以降のエネルギー革命の余波を受け、
太平洋戦争前の従業員数8,000名から合理化による従業員数の削減は1,500名を下回る。

その後、石炭産業斜陽化と共に人口流出が続き、
昭和55年(1980)には辛うじて町人口1万人台を維持するに至る。
その後、68年間続いた石炭輸送線に終止符が打たれ、
昭和62年(1987)7月14日、第8次石炭政策の方針を受け閉山を迎える。


石炭滓によるズリ山を含め、各坑口と衛星写真で発見した火薬庫らしき構造物へ、
今は無人の廃坑跡を探索する。







ズリ山・坑口・火工所・・・


ズリ山
( ̄u ̄;)ズリ山





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