高根炭坑跡 探検: 北の細道 高根炭礦

高根炭鉱跡、境界の行方





北海道芦別市

  都道府県や市町村の境界線は、もともと川や山の尾根など地形の区切りで分割されてきた。
しかし一方で調停や話し合いにより、住む人の意向をもって決められることもある。

過去には集落から離れて墓地や炭焼き場所、水源などが確保されていたため、
『飛地』と呼ばれる同じ行政区に属すものの、他に飛び離れて存在する土地も未だ残る。
森林の生産地と消費地が共存共栄のために飛地になった場合や、
仲悪く合併を拒否した結果であるとか、単純に登録の手違いなどという飛地もある。

このように境界線は単純に地形によらず、宗教的な経緯や合併の繰り返しにより、
大きく変化し、また逆にいつまでも変化しない土地もある。
自治体にとっては固定資産税という財源の確保の利点があるが、
学校、消防、警察などの管轄の問題もあり、他県に囲まれても飛地として合併しない場所や、
合併後の分離運動も実際にはある。


赤平村の高根炭鉱は芦別炭礦(株)高根礦業所の一部として、
昭和13年(1938)12月、熊ノ沢坑として開坑した。
その際、芦別炭礦(株)は 上芦別礦業所を高根第二炭鉱、 高根地区を高根第一炭鉱として総括した。
昭和16年(1941)には熊ノ沢坑とは別の炭層が発見され、芦別市街への架空索道の建設、
昭和19年(1944)には高根第二炭鉱を三井鉱山(株)に譲渡し、
芦別高根炭鉱(株)と改称して操業区域の拡張に臨んだ。

その後繁栄をたどり、近隣の雄別炭鉱(株)、北菱産業(株)の鉱区の譲渡をも受け、
三井芦別三菱明治油谷(ゆや)炭鉱とともに「芦別五山」と呼ばれることとなる。

昭和38年頃に生産のピークを迎えたものの、
昭和40年(1965)には鉱区の一部を閉山、 高根第一炭鉱の名称は消え高根炭鉱となる。
その後、昭和42年(1967)9月、29年間の歴史に終止符を打ち閉山と相成る。

お気づきかもしれないが、『赤平』村の高根礦業所は『芦別』高根炭鉱として閉山している。
このあたりの面妖も紐解きながら 雪の残る炭鉱跡へのアタックを敢行したいと思う。




原炭ポケット・架空索道・馬橇・・・




索道基点
索道基点



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