朝日炭鉱 巨大水没通洞 探検: 北の細道 水没通洞

朝日炭鉱の水没通洞に入坑する




北海道岩見沢市

 産業革命期(明治中期〜後期)の石炭産業はそれまでの輸出中心の状況から、
エネルギー源としての国内需要が大幅に増加した。
同時期の明治23年(1892)、鉱業を近代産業として発達させるための鉱業条例が制定された。

明治末期〜大正期にかけては第一次大戦終了と共に石炭産業がアジア各国で発達したため、
国内石炭産業は海外市場に席巻されることとなる。
そのため事態打開のために、業界自らの自治統制機関である『石炭鉱業連合会』を結成し、
送炭調整による単価維持を行い、国内需要の景気好転に結び付き、低迷期を乗り越える。

その後、軍需増強時代である第二次大戦まで出炭量はピークを迎える。
ところが昭和20年、出炭量も敗戦後はその半分となり、
緊急の非常調達対策、労働者充足要綱などが発布され、
翌年には石炭危機突破対策要綱による厚温対策の実施が行われたが、あまり功を奏さなかった。

昭和21年から施行された『傾斜生産方式』は、石炭・鉄鋼・肥料の三大基礎物資の生産能力の拡大に、
重点を置くもので、中でも石炭は他産業の原料やエネルギー源として需要だったことから、
特に集中的、本格的な増産政策が講じられた。


政府は石炭増産の抜本策の実施と共に 「GHQ」連合国軍最高司令官総司令部=戦後の日本を統制するために設置 との覚書にもある石炭の需要統制を行う。
しかし昭和23年頃からは需給バランスが好転し、国家統制の必要性がなくなった。


朝日炭鉱の鉱業権が個人から法人に移行したのはこの時期で、
やがて再び個人の所有となった以降、労使紛争から昭和29年には一時休山となる。

その後新経営体制となり、「自立自営」「責務整理への責任協力」「硝子張りの責任経営」を掲げ
月産3,000tの出炭体制を目標とした。
保安や坑内環境の整備も進め、処理能力ともども最盛期を迎える。

しかし、石油輸入自由化の余波により、合理化の波はさらに高くなり、
石炭政策開始時の炭鉱数122から21に減少した昭和49年をもって、
朝日炭鉱は閉山を迎える。

廃線の鄙びた小駅とその裏手の選炭施設、そしてそこに続く坑口、
6度に及ぶ探索で到達した最奥の扇風機室、
ほぼ網羅した朝日炭鉱の現状を見ていただこう。



坑口・巻上機・扇風機室・・・



火薬庫
( ̄u ̄;)火薬庫



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