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●寛永6年(1629)
●寛永11年(1634)
●寛永13年(1634)
●寛永14年(1637)
●寛永15年(1638)
●寛永16年(1639)
●寛永17年(1640)
当麻寺縁起絵巻が狩野派・土佐派などの合作で完成する。
大阪、堺、奈良の地子銀が免除される。
8月14日−幕府が大目付柳生宗矩に4000石加増し,大名に取り立てる。そのため大目付を
辞任する。宗矩、柳生藩主となり、三代将軍家光の兵法師範となる。
高取藩主・本多政武病死、跡継ぎなく家は断絶、幕府は城番を置く。
このころ南都に晒(さらし)商人360人を数える。
松江重頼、『毛吹草(けふきぐさ)』を刊行。大和の名産として法論味噌・郡山繰綿(くりわた)
・三輪素麺・陀羅尼助(だらにすけ=漢方薬)などをあげる。
松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)、『吉野道記よしのみちき』を著す。
岡野松壽(おかのしようじゆ)、奈良人形を完成する。
本多政勝、播磨国姫路十五万石から大和国郡山十五万石に移封。
松平忠明、大和国郡山十二万石から姫路十八万石に入る。
植村家政(幕府大番頭)、高取藩主となる。