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●文久3年(1863)
●元治元年(1864)
新庄藩士永井直哉(なおちか)、陣屋を葛上郡倶尸羅(くじら)村に移し、櫛羅(くじら)村と改称し、櫛羅藩とした。
五條村の医師乾十郎ら吉野川の分水計画を立案する。
8月17日−中山忠光ら天誅組浪士、五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺し、新政府の樹立を宣言。
9月24日−天誅組は、紀州、津、彦根の討伐軍に追われ、十津川・北山郷・川上郷を敗走、主力は吉野郡鷲家(わしか)・鷲家口
村で壊滅、中山忠光ら数名は脱出。
旧五條代官所支配下8ケ村の領民、五條代官所再建に反対する。
吉野郡十津川郷に文武館設置(儒臣中沼了三)の沙汰が出される。