最近訪問した塔婆・ご提供画像(2008/10/21〜2009/05/24)

過去の訪問塔婆履歴

     
2009/05/24
「X」氏ご提供画像
遠江岩室廃寺心礎
敷地口灯明台心礎
敷地奥灯明台心礎
「X」氏ご提供画像:2009/05/24撮影
磐田郡敷地に岩室廃寺心礎、口灯明台心礎、奥灯明台心礎の3心礎がある。
 岩室廃寺塔跡1     岩村廃寺塔心礎1:法量は「X」氏情報から転載、
                大きさは96×81cm(一部欠ける)で、
                上面は削平される。中央に径37×13cmの円孔を穿つ。
 敷地口灯明台跡1     敷地口灯明台心礎1
 敷地奥灯明台跡1     敷地奥灯明台心礎1
「豊岡村史」(※通史編<1996>と思われるも不明) より
 岩室廃寺塔心礎2
 敷地口灯明台心礎2:「磐田郡誌」には金井戸の谷に灯明台があると記され、磐田海渡船の伝承が記される(未見)と云う。地元ではこれを口灯明あるいは口金燈籠と呼ぶ。宝物埋蔵伝説から深い盗掘穴が開き、心礎はその中に陥没する。心礎大きさは径約80cn、厚さ約21cmで、中央に径約17cm、深さ約21cm(心礎の厚さが21cmならば、 この深さは何かの間違いであろう、写真からはもっと浅いと思われる)の臍(ママ)が彫られている。周囲の調査では瓦などの採取はないと云う。
 敷地奥灯明台心礎2:心礎の大きさは径約80cm、厚さ約35cmで、中央に径約21cm深さ約15cmの臍が彫られている。他に礎石らしい石も見られる。西側にはかなりの量の瓦が採取できる。南西側斜面に平坦地(堂跡か)がある。
「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」静岡県教育委員会、2003 より
現観音堂付近には塔心礎を初めいくつかの遺物があり、付近から建物跡や平坦地が見られ、ここに伽藍中心地があったと推定される。
口灯明台及び奥灯明台はいずれも見通しの良い鞍部に立地する。なお3塔とも大楽寺瓦窯で焼かれた瓦が出土するため、さらに心礎の形式から平安中期以降の建立と考えられる。
各遺跡の所在は以下の通り(但し、現地は未見)
 岩室廃寺位置図
岩室寺についての文献史料は多くはないが、「吾妻鏡 第六巻」では、以下の記事がある。
文治二年(1186)・・・。遠江守義定朝臣自彼國參上。日來於當國湖岩室已下山寺。雖搜求豫州。不獲之由被申之。(文治二年(1186)・・。 遠江守義定朝臣 彼國自り參上す。日來當國の湖、岩室已下の山寺に於て、豫州を搜し求めると雖も、獲不之由之を申被る。 )
 ※遠江守義定朝臣は遠江守安田三郎義定、豫州は九郎判官義経。
また文治4年安田義定、巌室寺(岩室寺)の血極谷において大般若波羅蜜多経を書写と云う。(近江柳瀬在地講所蔵大般若経)
 なお、口灯明台・奥灯明台の心礎とされる石は、現時点では心礎であることの確証は無いと思われる。即ち心礎ではなくて、伝承の通り「灯明台」に関わる何等かの施設に関する石である可能性もあると思われる。
即ちこの地が塔跡というより、この地が灯明台と伝承される、あるいは見通しの良い鞍部に立地する、あるいは磐田海渡船の伝承があるとかは、この地が灯明台で あったことを強く示唆する。さらに広い遠州灘の位置確認として灯明台2基がセットで設置されたなどの可能性もあるであろう。しかしながら、尤も、灯明台の設置は近世のことであり、元々平安期の塔跡に近世になって灯明台が設置されたと考えることも可能では あろう。
 ところで、灯明台とは以下のように理解される。
近世には沿海航路が発達し、「かがり屋」とか「灯明台」と呼ぱれる「燈台」が多く作られたと云う。その形式の多くは石積の台を造りその上に小屋を載せ、その中で木を燃焼させるあるいは菜種油を燈す仕組みのものであったと云う。これ等の篝屋・灯明台は 幕末には100基余を数えたと云われる。
一方これとは別に海岸近くの社寺の石灯籠は常夜灯の役目を兼用したものも多く奉納され、今でも全国各地に残る。
灯明台で現在に残る最も著名なものに讃岐金毘羅大権現の高燈籠がある。攝津住吉社の高燈籠も全国に知られるも、これは近年の再興である。
 毘羅大権現高燈籠:2007/01/20撮影:安政6年(1860)完成、石積基壇に木造三階建の高層建築を載せる。屋根宝形造・本瓦葺・宝珠を架す。総高15間1尺(27.58m) 、石積基壇は 5間3尺(10m)、下端一辺51尺、上端28尺 。この位置は海抜約80mと云う。大権現常夜燈と標識燈を兼ねると云う。
 殆ど関係ないと思われるも、塔と灯明台がセットであった場所として、陸奥應仏寺五重塔と灯明台がある。 (五重塔<陸奥應仏寺五重塔1陸奥應物寺五重塔3>は大正2年退転するも、常燈明 堂及び木製角行灯2は残存する。)
2009/05/23 周防一の滝寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7

昭和54年建立 。総高約10m。正規の木造塔。(この地方の大工の手になると云う。近隣の桜地蔵院多宝塔・・昭和58年落慶・・も同一の大工の手になると云う。)軸部は基本的に和様を用いるも、尾垂木は唐様の鎬を入れる。 屋根銅板葺。本尊大日如来、大日如来の扁額を掲げる。
真言宗醍醐派鳥越山一の滝寺(当山派修験)と号する。大正10年富島真海、岩国町錦見に錦見教会を開設、昭和6年現在地に移転、昭和46年不動堂建立、一の滝寺と改号する。
三重塔本尊大日如来
一の滝寺本堂      一の滝寺不動堂
一の滝?:境内に小滝があるが、これが一の滝であるのかどうかは分からない。

周防桜地蔵院多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
昭和58年落慶、一辺3.2m、総高15.5m、屋根銅板葺。正規の木造多宝塔建築。 基本的には和様であるが、頭貫・台輪の木鼻は唐様の造りで極端に大きな木鼻を用いる。また初重実肘木や上重の紅梁鼻もかなり装飾性のあるものを用いる。屋根銅板葺。塔は花崗岩製の基壇に建つ。本尊大日如来。 (この地方の大工の手になると云う。近隣の一の滝寺三重塔・・昭和54年建立・・も同一の大工の手になると云う。この多宝塔の立ち姿は一級品であろう。)
真言宗醍醐派。創建は江戸末期で、一人の行き倒れた六部を桜の木の下に懇ろに葬り、そこに地蔵菩薩を祀り、その後一宇を建立したのが始まりと云う。 現在も地区民の篤い信仰があると思われ、本堂・多宝塔・鐘楼など本格的な木造建築が建てられ、境内はきれいに清掃される。
六部:六十六部のこと。 六十六部廻国聖のことを云う。基本的には法華経を66部書写し、全国66カ国を巡り、1国1カ所の霊場(固定されてはいない)に法華経1部を納める修行僧を云う。少なくとも中世には存在し、近世にはかなり の数の廻国があったとされる。
安芸清住寺二重塔1
  同        2
  同        3
建築年代不詳(近年と思われる)。二層塔(二重塔)であり、多宝塔形式ではない。一辺及び総高など不詳(小形の塔)。軸部はRC 造、組物・垂木などもRC造、相輪は青銅製。屋根本瓦葺。吉岡建設施工。延命地蔵尊の扁額を掲げるため、本尊は地蔵菩薩と思われる。
智水山と号す。浄土宗。天正18年(1590)毛利輝元の広島築城の時、高田郡吉田から広島に移転と云う。爆心地に近く、昭和20年の原爆投下で全滅。広島市中区本川町2丁目
安芸徳應寺五層塔1
  同        2
  同        3
昭和30年完工。本堂屋上に五層塔婆を置く。RC製。(この用途は不明、仏舎利塔かどうかも不明)
徳應寺は立蔵坊と号し、仏護寺龍原12坊の一つ。
長録3年(1459)武田義信は、甲斐の僧正信(武田一族)招聘を迎え龍原(現祇園8丁目・武田山下)に天台宗龍原山仏護寺を創建する。仏護寺は甲斐6坊(甲斐から移転)及び地6坊と称する12坊を配置する。明応5年(1496)浄土真宗に改宗。天正18年(1590)毛利輝元の広島築城により現西区打越町移転。慶長14年(1615)福島正則により、現在地の寺町に移転。寺町には仏護寺とその10坊が今も現存する。(龍原12坊は後14坊となり、原地近隣に4坊・寺町に10坊が残る。)
現在は本願寺広島別院と称する。昭和20年爆心地に近く、壊滅する。
龍原12坊は塔頭とはいえ、各寺とも今なお広大な境内を有する。
原地近隣の4坊:蓮光寺(松陰坊)、正伝寺(相田坊)、品窮寺(正明坊)、光禅寺(坊号なし)
寺町10坊:報専坊、善正寺(慶蔵坊、圓龍寺、正善坊、元成寺(香林坊)、超専寺、光福寺、徳應寺(立蔵坊)、光圓寺(東林坊)、真行寺(東前坊)を云う。
安芸毘沙門天三層塔1
  同         2
  同         3
  同         4
昭和59年、原爆犠牲者慰霊のため建立、本尊大日如来(三階)・四天王(ニ階)を安置。
多宝塔と称するも、RC造の三層塔。岩谷権現山毘沙門天堂に属する。
治暦年中(1065-)教尊が毘沙門天を安置し開山と云う。中世には安芸武田氏の崇敬を受け、正安元年(1299)願成寺(元成寺とも?)ほか7ケ寺の建立を見る。後毛利氏の広島築城で、願成寺は広島に移転し、毘沙門堂・仁王門・東ま明寺・西明寺が当地に残ると云う。但し今の堂宇は近年の建築と思われる。
安芸毘沙門天三層塔内部:2階に毘沙門天他四天王、3階に本尊大日如来を安置
毘沙門天三層塔大日如来     毘沙門天三層塔毘沙門天像
安芸三瀧寺多宝塔 再訪 紀伊広八幡宮多宝塔
安芸萬年寺多宝塔1
  同        2
  同        3
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  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
昭和41年落慶、一辺3.5m、総高12m、正規の木造多宝塔建築。基本的に和様の意匠から成る。屋根銅板葺。本尊大日如来。二階建RC造納骨堂の上に建立される。平和塔の扁額を掲げる。
萬年寺は元亀元年(1570)伊予喜多郡長浜に建立され、僧智園の開基と伝える、寛政年中に火災焼失と云う、明治33年安芸の現在地に移り再興される。真言宗醍醐派、本尊不動明王、湯舟山と号する。
図1:萬年寺境内俯瞰
安芸萬願寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
平成13年頃竣工と思われる。総高14m、正規の木造多宝塔建築。基本的に和様を用いる。屋根銅板葺。聖観音菩薩を安置。千光院木食上人菩提のため建立 と云う。(千光院木食上人とは不詳、この塔は開山堂とも称すると思われる、おそらく満願寺開山か中興上人であろう。)
萬願寺は真言宗無本寺、慶長元年(1596)水野重政の建立と伝える。その後衰微し廃寺、文化年中(1804-)には廃寺跡に宮の原観音堂一宇があったと云う。
明治になり再興され、昭和45年以降伽藍を整備、本堂・講堂・経蔵・鐘楼・山門・五重塔・多宝塔が建立される。本尊十一面観世音菩薩。三登山観音院と号する。
安芸萬願寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
平成4年竣工。RC造。総高24m。但しかなり簡略化された塔である。
満願寺は山塊が海に落ちる狭い接点の丘陵地に入口を設け、入口を入ると急斜面の山塊に入る。境内は集斜面を無理に拓き、諸堂塔は山塊に貼り付くように展開する。
五重塔は多宝塔のさらに上に建つ。
満願寺境内:五重塔の場所から境内を望む、眼下は呉軍港。
2009/05/02 近江己高山 再訪 近江己高山及び一山諸廃寺
2009/04/07 越前劔大明神
 (越前劔御子寺)
越前劔大明神
越前野々宮廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同      跡

(野々宮廃寺心礎)
在越前小丸城跡心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
越前小丸城跡

○「福井県史」:遺跡は小丸城域を含む広大な範囲と推定されているが、昭和34年からの発掘調査では、伽藍遺構は確認されず、また、平成3年の調査でも版築遺構は検出されたが、建造物の遺構は発見されなかったという。
礎石も塔心礎と断定できるものは存在しない。
ちなみに小丸城に残る穴の石は礎石とは考えられず、神社の石鳥居の基礎石との見方もできる。
(小丸城本丸跡は約50m四方の円墳状の丘で、南面に野面積石垣があり、野々宮廃寺の礎石と思われる穴のあいた石も組み込まれている。)
多くの出土遺物があり、創建は白鳳期とされる。
○「日本の木造塔跡」:小丸城城門の石垣に心礎が嵌めこまれている。大きさは100×93cm、中央に径17/14×7cmの円孔を持つ。
さらにもう一つ城跡南の野々宮廃寺跡に110×100cm、径15×4cmの孔を持つ心礎がある。
両者は良く似ていて、小型である。しかし大和龍門寺心礎よりは大きく、心礎であろう。しかも東西両塔の心礎であろうと思われる。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、心礎の大きさは170×100cm、径21×19cmの円孔を彫る。小丸城跡にある。
○2個の心礎を残す。但し、福井県史では心礎であることを疑問視する。
・野々宮廃寺跡の現状は良く分からない。土塁?で囲まれた?田畑跡状の地に心礎が1個残存する。この残存状況も良く分からない。 (廃寺跡写真の奥の石柱の所に心礎はある。)
 さらに廃寺跡で塔と推定される基壇なども未確認であり、廃寺跡心礎はその形状から心礎である可能性は極めて高いと思われるも、断定は出来ないであろう。
 ・北方約300m付近に小丸城(佐々成政築城)本丸跡があり、本丸跡石垣に心礎が組み込まれている。この礎石は小丸城築城の折、野々宮廃寺から運ばれたと推測される。なお、心礎以外の枘孔のある礎石(1個か2個)があると云うも、未見。
 この「心礎」については、写真4で見られるように、円孔が枘孔とすると、その周囲が多少盛上がり、心柱を据えつけるような削平がなされていない。ましてやその出所が推定の域を出ないとすれば、この「心礎」は心礎でない可能性が高いであろう。ましてや野々宮廃寺が双塔を持つと証明されない限り、心礎とすることは無理であろう。
●附録:越前毫摂寺(真宗出雲路派本山、五分市本山)が付近南方にある。
※出雲路とは、当寺は天福元年(1233)親鸞が山城国愛宕郡出雲路の地に創建したことに由来する。その後、暦応元年(1338)山元の庄(越前水落付近・現鯖江市神明町・現山元派本山証誠寺がある)に移転。慶長年中、さらに現在地(味真野清水頭)に移転する。
越前深草廃寺伝心礎1
  同         2
  同         3
○「福井県史」:「・・現在・・塔・金堂跡などの伽藍は確認されてはいない。だが、沓脱石に利用されている石には、残欠ながら径43cm内外の円形彫出しがみられ、心礎石であったと思われる。竜泉寺は応安元年(1368)創建と伝えられ、 武生藩本田家菩提寺であった。南北250m、東西170mの広い寺域をもつ。深草廃寺はこれに重なっている可能性が高い。遺構は明らかでないが、礎石残欠や出土瓦などによって、県内最古の成立寺院との見方ができる。」「瓦は・・白鳳期前半に比定されている」
以上の記載を単純に理解すれば(断定は出来ないが)、靴脱石は心礎というよりは、単に礎石と思われる。
○礎石は霊光殿(昭和48年再建)傍らに置かれている。(現在は沓脱石ではない。)
礎石は相当程度割られている。大きさは径およそ70cmの柱座が残る。礎石は割られているので少なくとも径70cm以上の柱座を持つものと推定される。更に、出枘があったものとも推定され、今は削平されているが、中央にある平滑な円形部分は出枘が削平された痕跡とも思われる。「福井県史」では沓脱石として利用と云い、であるならば、沓脱石として転用された際に度枘が削平されたとも推測される。 (見方によっては径43cm内外の円形彫出と見えないこともない。)
以上、この石は円形造出柱座の痕跡や出枘の痕跡を持つと思われ、礎石である可能性は高いが、心礎であるかどうかは不明(可能性は低い)。
 なお当廃寺を越前国分寺跡とする見解もある。(創建は奈良期以前であるが、当寺が国分寺として転用された可能性が高いと云う見解がある。)
越前現国分寺:市中に一宇がある。おそらく近世に名跡を継いで建立されたものであろう。
越前大虫廃寺塔跡1
  同        2
  同      心礎1
  同         2
  同         3
○「福井県史」:心礎が現存する。1.9×1.3m×0.9mで、中央に径15cmの孔を穿つ。
昭和41年の発掘調査で一辺12mの玉石乱積み基壇が確認され、基壇上に上記心礎があった。出土瓦から白鳳期創建とされる。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、心礎の大きさは140×140cm、経21×16cmの円孔を穿つ。
○現在は基壇が復原され、心礎以外の復原礎石も置かれる。 但し、この地は古代平地寺院建立には絶好の適地と思われるも、付近が開発され、あたかも自然・環境破壊の免罪符のような取って付けた整備であろう。
なお大虫廃寺は推定越前国分寺跡として福井県史跡に指定される。
しかし、この廃寺が国分寺であるという見解は、当廃寺の規模から判断して否定的な見解も多い。
あるいは、平安前期に国分寺が当寺に移された可能性が高いという説もある。
越前武生法華宗諸寺 武生法華宗諸寺
2009/03/29
「X」氏ご提供画像
肥前高野寺多宝塔1
  同        2
2008年完工。信者の写経「般若心経」を納める「心経宝塔」と称する。詳細は不詳、外観は正規の多宝塔の様式を採ると思われる。 高さ約12m、屋根銅板葺。本尊大日如来。
肥前高野寺空撮:高野寺HPから転載
肥前常在寺宝塔1
  同       2
平成13年建立、佐賀県嬉野市塩田町、設計施工:匠社寺建築社、詳細不詳、屋根銅板葺。
構造は不明ながら、外観は正式の宝塔建築と思われる。
御厨前田免三重塔1
  同        2
長崎県松浦市御厨町前田免
建築年代不詳、詳細不詳、建造主は山口法雲師。(光明院と云う寺院が付近にある?)
木造本瓦葺と思われる。軸部・軒廻も正規の塔建築と思われるも不明。
2009/04/10「X」氏情報:組物は出組、両脇間は塗壁・板壁にするなど多少簡略化されている。寺院境内ではなく、ほぼ単独で塔は建つ。ここには「願掛霊場」と称する石碑が建つ。
2009/03/28
「X」氏ご提供画像
筑前竈門山(宝満山・天台筑前宝塔院)推定宝塔跡 九州諸国の塔跡:「筑前竈門山」(宝満山宝塔跡)
2009/04/02 山城智積院多宝小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同       金堂
「小塔巡拝の記(六)」吉田実〔「史迹と美術」60(6) 所収〕より:
初重一辺40cm、総高約140cm。初重平面1間の変則な多宝塔。
多宝小塔は根来伝来とも伝えるが、根来伝来の舎利塔とはこの多宝小塔のことではなくて、多宝小塔内に奉安する舎利容器小塔と推測される。
全体の作風・印象から江戸後期頃の造作と推定されるが製作年代は不明。
「史迹と美術」60(6)より:
 智積院舎利塔     智積院舎利塔初重
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あるいは根来伝来とは、「この小塔は根来塗(真偽は不明)の工芸品である<寺院関係者の説明>」と云う意味合いとも推測される。
智積院略歴:天正13年(1585)豊臣秀吉、根来山を攻略、根来山は灰燼す。学頭智積院玄宥は、京都に逃れる。
慶長6年(1601)徳川家康、玄宥に豊国大明神境内の坊舎と土地を下賜、智積院(五百佛山根来寺智積院と号す)が再興される。元和元年(1615)更に祥雲禅寺 が施入され、境内伽藍が拡充さる。
(根来小池坊専誉は高野山に逃れ、その後豊臣秀長の要請で豐山長谷寺に小池坊を再興する。)
現在、智積院は智山派総本山、大本山は成田山新勝寺・川崎大師平間寺 ・高尾山薬王院、別格本山は高幡山金剛寺・大須観音寶生院、末寺3000余 、特に東国に数多くの末寺があり、また塔婆を有する寺院も多い。末寺数は埼玉県が最大と云う。
金堂:昭和50年の新造(RC)、弘法大師降誕1200年紀念事業にて建立。
山城教王護国寺(東寺) 山城教王護国寺(東寺) 東寺五重塔、東寺宣陽門院施入五重小塔など
2009/03/18 若狭気比神宮寺心礎  若狭気比神宮寺
気比神宮寺心礎(「幻の塔を求めて西東」に記載あり。<手書資料>)については情報なし。
気比の神職の談:「神宮寺については郷土史家などが探しているが、全く痕跡が発見されていない。心礎についても、其の存在を聞いたことがない。心礎が残っているのであれば、こちらが知りたい。織田信長の軍勢に気比社は徹底的に破壊された故に 、神宮寺の手掛かりは全く無い・・云々・・・」
現在、気比社境内には角鹿社の苑池、石碑台石、社務所庭園などにかなりの量の大石が残り、それらを一巡し、一瞥するも心礎らしきものは発見できず。
気比社現状は今なお戦前の国家神道の色を濃く残し(しかもそれを誇る悪弊がある)、社殿も空襲により戦後のRCの再建で特に見るべきものはない。
 若狭気比社社殿
 中世には社家48ヶ家、また検校・行司・別当・執当などの36坊(社僧)があったとされる。
中世末には織田信長の越前攻略で壊滅すると云う。
若狭幸臨寺  若狭幸臨寺
昭和3年生(男性・幸臨寺裏の丘麓に戦前より居住)、昭和10年生(男性・幸臨寺門前付近に戦前より居住)より聞き取り:「幸臨寺は現在地の南側20〜30m付近に あり、現在、幸臨寺のあった場所は道路(476号)になると云う。つまり現幸臨寺前の道路の南側信号の北側付近の道路上であったと云う。寺院は西向であった。三重塔は確かにあった(但し具体像は思い出せないあるいは記憶に無い)。三重塔写真などの資料の残存は聞かない。幸臨寺住職は先年逝去、夫人は北海道に帰る。付近の旧本寺永賞寺が今は管理。小寺では成り立たないであろう。 」
 現若狭幸臨寺:写真中央の堂宇とその右の民家風建物が現幸臨寺の全てである。
 若狭幸臨寺跡1:写真中央付近の道路が幸臨寺のあった場所。
 若狭幸臨寺跡2:写真信号のある横断歩道の右側(北側)が跡地である。中央は現幸臨寺 。
若狭永賞寺塔堂 (RC) (参考事項)
永賞寺墓地にある。RC製、釈迦如来石像を祀る。その他は不詳。塔堂(写真)背後の屋根は真禅寺本堂のもの。曹洞宗。
「指掌録」(寛文年中〜天保11年の記載):塔頭4ヶ寺(大昌院、傅昌庵、慶幸庵、松月庵)末寺に幸臨山幸臨寺などがある。また大谷吉継供養塔(石塔)がある と云う(未見)。
若狭真禅寺六角宝塔1
若狭真禅寺六角宝塔2
(参考事項)
昭和48年建立、RC製、簡素な建造物である。塔の名称・建立目的など不詳。
真禅寺は天台宗真盛派。
若狭金前寺五重小塔1
若狭金前寺五重小塔2
若狭金前寺五重小塔3
若狭金前寺五重小塔4
若狭金前寺五重小塔5
若狭金前寺五重小塔6
若狭金前寺五重小塔7
若狭金前寺五重小塔8
若狭金前寺五重小塔9
若狭金前寺本堂・塔
平成17年建立。総高8・5m、塔身6m(総欅)、相輪2.5m(ステンレス製)、コンクリート製基壇1.3m上にある。 軸部が極端に細く、初重二重は平面3間、三重四重は2間、五重は1間に造る。
宮大工は姉崎徳美(あわら市田中々)、松本鉄工所請負。本尊金剛界大日如来。
誓法山と号す。高野山真言宗。天平8年(736)泰澄の開創、弘仁2年(811)弘法大師留錫、南北朝の兵乱を経て、元亀元年(1570)織田信長の兵火により灰燼に帰すと云う。
寛文2年(1662)現在地に観音堂を再建。昭和20年空襲により焼失、昭和21年本堂再建、昭和63年現本堂再建。
※「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年:空襲による被害、焼失棟數13、焼失建坪249坪
若狭敦賀法華宗諸寺 敦賀法華宗諸寺
越前室谷廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
「幻の塔を求めて西東」(手書き資料):一重円孔式、148×115×85cm、径13×13cm、奈良後期。
実測値:大きさは160×112×82cm、径14×深さ13cmの円孔を持つ。
「福井県史」:当廃寺は特異なあり方を示す。狭い谷間に位置し、通常みられる古代寺院の立地条件とは様相を異にする。存続は出土遺物から奈良時代後期〜平安初期とされる.。心礎を残すのみで伽藍は全く不明。
現在心礎は福井県立歴史博物館が所蔵、5年程前から常設展示から外れ、現在は博物館収蔵庫に眠る。(見学には事前に見学希望の申し出が必要)
現地遺跡(旧今立町室谷)は圃場整備が行われ、廃寺の遺構は残らないと云う。
越前真光寺塔跡3
  同      4
  同      5
  同      6
  同      7
  同      8
越前真光寺塔址1    同       2 ・・・「X」氏 ご提供画像(2001年11月13日)
○「福井放送記事」(2001/10/26、「X」氏より入手)及び「朝日新聞(福井版)」(2000/10/27)記事の要約 :
 『清水町の真光寺跡から、推定鎌倉時代建立の木造の五重塔の跡が、確認された。塔跡は本堂跡から南東に約20m離れた丘陵上にある石造塔跡で、地表の約70cm下から、5.4m四方の基礎の部分が見つかり、中央からは心礎を発見。
心礎は約2m四方の正方形の石で、さらに心礎の周りには12本の柱を支えていた跡も出土した。
塔跡は、鎌倉時代に木造の五重塔を建て、室町時代に火災後、跡地に高さ約4mの石造塔を建てたとみられる。通常心礎は三重塔には見られないため、五重塔の跡と判断され、高さは20mくらいあったものと 推定される。
また心礎の周囲からは焦げた土や笏谷石が見つかっており、木造の五重塔が焼けたあとに、高さおよそ4mの石塔が建てられたものと推定される。』

「X」氏情報:清水町教育委員会に確認した処、発掘調査終了後、すぐ心礎は埋め戻されると云う。
○真光寺跡(「日本の地名・福井県」):
片山(120m)山頂にある竜王神社西麓の参道下が寺跡と考えられる。
「越前国城蹟考」には「屋敷跡 <朝倉家>真光寺、<信長時代>増井甚内之助、・・・」と記され、城館にも利用されたとされる。
増井甚内之助は富田長秀(長繁)の与力で、元亀3年(1572)8月、富田長秀とともに朝倉義景に背いて織田信長の軍門に降り、朝倉氏滅亡の後は真光寺跡に居館したものと思われる。その後、増井甚内之助は天正2年(1572)一向一揆に攻め滅ぼされたとされる。「朝倉始末記」
○「片山真光寺塔跡現地説明会資料」(「X」氏より入手):
 越前真光寺跡概要図
 真光寺木造塔遺構(第1期):鎌倉期の木造塔の遺構
 真光寺石製塔遺構(第2期):木造塔退転後、室町期の石塔の遺構
 真光寺塔跡実測図1
○2009/03/18撮影:
 越前真光寺塔跡:写真中央五重石塔のある場所が塔跡、手前は西光寺。
   同      2:写真右が塔跡
現地説明板より:
 真光寺発掘調査     真光寺塔跡実測図2     石塔推定復原図
越前篠尾廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
○「福井県史」:心礎が残存する。心礎の大きさは2.6×2.0×1.2mで、中央に径88×22cmの円穴が彫られ、底部中央に2.5×2.5cmの孔を穿つ。心礎は原位置を若干動いているとされるが、周囲には礎石が散在しこの位置が塔跡と思われる。昭和46年の発掘で基壇の一辺が12.1mと判明した。水田の中に畑地が残りその中央が塔跡という。出土瓦は白鳳期のものとされる。
○「日本の木造塔跡」大きさは2.25×1.60mの矩形の石で、径88/86×19cmの円穴に径5×4cmの舎利孔を持つ。側柱礎と思われる礎石が5個散在する。
福井平和塔(パゴダ)
(参考事項)
昭和34年建立。足羽山頂にある。仏舎利六粒を納めると云う。
なおこの地には稲荷山古墳があったが、古墳を破壊して建立と云う。
本願寺福井別院鐘楼塔1
  同           2
本願寺福井別院(福井西別院・・・福井西本願寺掛所西別院)、詳細は不詳。
(参考事項)
西別院庫裏あるいは門徒会館に類すると思われるビル建築屋上に相輪を載せた鐘楼(RC)がある。
越前照護寺屋上塔堂
(参考事項)
照護寺、本願寺派福井教区の有力寺院と思われるも不詳。
本堂背後の庫裏に類すると思われるビル建築屋上に相輪を載せた一重塔(RC)がある。詳細不詳。
越前千福寺塔堂
(参考事項)
千福寺塔堂、本願寺派と思われるも不詳。筯生田山と号する。
宝蔵とも思われる方形堂上に相輪を載せる。RC製。詳細不明。
2009/02/21
「X」氏ご提供画像
上野大雄院三重塔11
  同        12
  同        13
法量は不明ながら、大型塔である。北を正面とする。
2009/02/01
「O」氏ご提供画像・情報
上野大雄院三重塔1
上野大雄院三重塔2
上野大雄院三重塔3
上野大雄院三重塔4
上野大雄院三重塔5
平成20年完工。大型木造塔(法量は不明)。軸部・木鼻・斗栱など珍しくほぼ完全な唐様を用いる。
(但し、外装は木造であることは確かと思われるも、内部構造は情報がなく不明)。
屋根:銅板葺。基壇:古典的な壇上積基壇。中央間:各重とも上部に透を入れた桟唐戸、両脇間:初重及びニ重は花頭窓 、三重目は丸窓。軒下:初重及びニ重はニ軒平行垂木、三重目はニ軒扇垂。
サンキョー創業者毒島氏の寄進と云う。(近年本堂等の新造も成就と推定される。)なお、塔の総工費は約10億円とも云われる。
曹洞宗。桐生市広沢町3丁目。
 上野大雄院遠望:茶臼山(293m)を背に北面して寺院はある。
 大雄院三重塔二重
 大雄院三重塔三重1:唐様意匠が良く見て取れる。
 大雄院三重塔三重2:塔の丸窓(唐様)は珍しい意匠で、桟は一切入れない。
 大雄院三重塔屋根:軒付け(と云うようである)は二重(下7段・上5段)となる。風鐸を吊るす。
写真左上は勾欄逆蓮、勾欄は典型的な唐様で、架木は蕨手(と云うのであろうか)を用いる。
 大雄院三重塔相輪:避雷針は導線を頂部から相輪の間を通し、路盤の中から本体に引き込むと云う。
なお、屋根は高欄の土台までしか葺いていない、そのため雨仕舞は勾欄の床全体を緩やかな勾配を付けて(縦葺きに)銅板で葺く仕様であると云う。(本来は勾欄下まで屋根を敷くべきなのか)
2009/02/04 山城高麗寺跡 再訪 山城高麗寺跡・・・第9次発掘調査
2009/01/27 近江園城寺 再訪 近江園城寺
2009/01/16 三河大樹寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同    南側面8
  同  正面中央間
  同      相輪
  同    三門
  同    総門
  同   塔頭土塀
再訪
内部には唐様の須彌壇を置き、本尊多宝如来を安置する。

総門の中に写る門は三門である。
塔頭(善揚院、開花院)土塀:大樹寺小学校裏門の両脇に土塀の一部が修復されて残る。かっては三門から小学校南の総門まで土塀が続いたと云う。

三河真福寺宝塔11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
  同       16
  同       17
  同       18
  同       19
  同       20
  同       21
  同       22
木造宝塔:建立年代不詳(室町期とも江戸初期あるいは寛政期とも云う)
総高約3m、塔身径1.2m。屋根杮葺。本尊は釈迦、多宝如来の二仏。
真福寺は推古天皇2年(594)物部真福(守屋の次男)の本願で建立と伝える。
 (聖徳太子建立46院の一つとも伝える。)
なお、三河北野廃寺が真福寺故地とする見解がある。

真福寺宝塔改修前写真:昭和61年改築と云う、写真は覆屋前に掲示。
三河真福寺仁王門:応永17年(1410)焼失、明応3年(1494)に再建とい伝える。
真福寺字中金蔵院
金蔵院付近坊舎跡:明治維新まで、付近には6坊があったといい、坊舎跡の石垣を残す。
真福寺寺中西居院
岡崎世尊寺三重塔1
  同        2
  同        3
簡易変形塔婆、建立年代不詳。
世尊寺のサイトより:東天竺山世尊寺は志賀重昂 (岡崎市出身) の発願により、昭和4年創建。
釈迦堂と呼ばれる。また八方除方位守護神を祭る八角三重の塔瑞雲閣には、大黒天・毘沙門天・弁財天が奉安され、交通安全・商売繁昌などの祈祷霊場として知られる。
三河高隆寺跡測量図
  同       塔跡1
  同       塔跡2
  同       塔跡3
  同       塔跡4
  同       塔跡5
 同 根本中堂跡礎石1
 同           2
  同    現本堂
  同    幸泉坊
男川小学校郷土誌のページ4(1)道根往還と高隆寺のページより
現高隆寺本堂(観音堂・恵定坊と号す)の西の岡上の平坦地に根本中堂礎石群とその南西に塔跡と推定される礎石群が残る。山下には幸泉坊(現高隆寺)が残る。
掲載の「礎石図」では、不明確ではあるが、本堂(根本中堂)跡は正面70尺で8間×7間(6間?)と思われる礎石 (一部は欠と思われる)が残る。塔跡は一辺18尺で9、10個くらいの礎石が残る。 心礎は存在しない。寺伝では聖徳太子・秦河勝が創建に関わるといい、あるいは平安期には三河五山(鳳来寺、桜井寺、滝山寺、真福寺、高隆寺)の一つとして栄えたともいう。平安終期 瓦が出土する。戦国期の戦乱で12坊とともに伽藍は灰燼に帰したという。
○2003/7/18追加:「X」氏ご提供画像(2002/9/15撮影画像)
 三河高隆寺塔跡1    同        2    同        3
○2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
塔跡は金堂跡の西南約21mにある。四天柱礎一辺は約2.58m、塔婆一辺は6m余を測定し得る。心礎はなく、四天柱礎の間隔から心礎を据えるのは困難と思われる。(多宝塔跡か?)
子細に見ると、塔跡のすぐ西に溝幅7.5cmの環状排水溝を有する心礎らしい(?)巨石が埋没し、1/3許り露出している。(※心礎の有無については多少混乱し不明。 )
2009/01/22追加:
寺伝では聖徳太子の創建、行基の中興、弘法大師の開基とする。境内からは白鳳期と平安末期の瓦が出土する。中世には足利氏による伽藍造営を伝える。弘治元年(1555)奥平氏により焼亡。慶長8年(1603)徳川家康により朱印35石を受ける。
7間×7間と推定される礎石群(根本中堂跡と推定)と3間×3間と推定される礎石群(塔跡と推定)が残る。 但し、この1間四面堂跡が塔跡である文献資料や出土遺物などが存在するかかどうかは不明、従ってこの堂跡が塔跡であるかどうかの判断は留保せざるを得ない。
三河丸山廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
心礎は加良須神社(春日神社)境内の小祠の前に置かれる。台石あるいは手水鉢へのような転用ではなく、何かの信仰対象であると思われる。 (イボコロリと云う)
心礎に関する考証は数少ないと思われるが、以下に情報がある。
 男川小学校郷土誌のページ3(3)仏教と丸山廃寺のページより
「からす神社の東の畑の中に礎石はあった、明治末か大正元年青年団がその礎石を神社の中に移し社を祀った。」、「美川中学校校舎建築工事で多量の瓦が出土し、文様から7世紀後半に建立された寺院があった。」
 ※美川中学は加良須神社の北に接する。丸山廃寺は十分な発掘がなされたわけでは無く、詳細は不詳。
○「幻の塔を求めて西東」(手書き資料):
形式は一重円孔式、大きさ:90×75×30cm(見える高さ)、円孔:20/21×15cm、白鳳期,、表面が著しく風化。
「X」氏ご提供画像
 三河丸山廃寺心礎1      同        2       同        3
三河寺領廃寺西塔跡
  同    西塔心礎1
  同    西塔心礎2
  同    瓦(嵌込)
  同    西塔心礎3
  同    西塔心礎4
  同    西塔心礎5
  同    西塔心礎6
  同    東塔跡1
  同    東塔跡2
  同   伽藍配置図
  同    講堂跡
○「三河松韻寺址」(大正15年12月「史跡名勝天然記念物」1−12、「佛教考古學論攷巻1 寺院編」所収)より
碧南郡桜井村寺領にあり、今真宗大谷派であるが、寺伝では聖徳太子の建立という。江戸期の木造聖徳太子馬上像を有する。
下掲「松韻寺址実測図」に見られるように、瓦の散布地が5箇所、礎石が3個残っている。
「ショウニンヅカ」▲の位置で、今道路面になっているが、足で地を打つと、他所とは違った響がする。また里人は雪もここばかりは積もらぬという。西塔址とも想定される。
観音堂という小宇のある場所は礎石があり、若干の土壇様の高まりが見られる。講堂址とも考えられる。
観音堂を軸として折り返すと、「ショウニンヅカ」と対称位置に、東には「シシヅカ」がありこれを東塔址に擬してはどうだろうか。
奈良後期から平安中期のものと思われる瓦が出土する。
 三河松韻寺址実測図:「佛教考古學論攷巻1 寺院編」より転載
○昭和32年の発掘調査で、講堂(現観音堂)の規模は東西17m,南北12m,金堂(現素戔嗚神社社前)は基壇の範囲のみ判明し、規模は東西30m,南北19mであるとされた。東塔跡は心礎抜き取り穴などが確認された。西塔跡は塔である確証は得られなかったといわれる。中門跡と南大門跡は未確認。大雑把には東大寺式伽藍配置と想定される。出土瓦は21種類を数える。
○「日本の木造塔跡」:
 西塔心礎と称するものが松韻寺の墓地にあり、これは全くの破片にすぎず、大部を復元したものであり、原形は良く分からない。
○「幻の塔を求めて西東」:
 大破心礎(西塔心礎)は1重円孔式で、径48×4cm(復元寸法)の孔がある。
○2007/04/29追加:「X」氏ご提供画像
 三河寺領廃寺西塔心礎1:心礎のおおよそ1/8以下の破片とされ、概要が復元されてい る。
   同           2:2004年本堂造替の際、本堂土台に転用されていた礎石が取り出される。西塔心礎の残余の破片として保存される。
○2009/01/22追加:2009/01/16撮影:
西塔跡(発掘で確認されたわけでは無いと思われる)の現状は墓地と道路であり、地上には何の痕跡も残さない。推定西塔跡付近には残存する心礎破片から推定した復原心礎が置かれるのみである。 なお近年、西塔跡付近には2004年本堂下より発見された凡そ1/4弱と思われる割られた心礎破片2個(合わせてほぼ1/2)が置かれる。後者の実測値は以下の通り、大きさ差渡約130cm、径55cm、深さ2〜3cm の円穴を有する。
東塔跡は耕作地の一画に跡地を残すも、地上には何もない。ただ礎石跡を示すと思われるコンクリート製標識が置かれる。講堂跡は土壇と観音堂を残す。
三河寺領廃寺東塔心礎1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
 ※推定寺領廃寺心礎
○「日本の木造塔跡」:西尾市桜町 (名鉄桜町駅近くの交差点)に寺領廃寺東塔心礎が保存されている。天正18年田中吉政が西尾城築城の時、寺領廃寺から移し、さらに昭和39年城跡から現在地に移転という。心礎は2.8×1.4mで、外周径62cm内周径36cm、溝巾13cm深さ9cmの舞木廃寺式の形式を呈する。
○「幻の塔を求めて西東」:
形式は環溝式(蛇の目式)、大きさは300×140×60cm、外周径63・内周径33cm、溝幅15cm、深さ11/16cm。
○「佛教考古學論攷巻4」より転載
 三河寺領廃寺東塔心礎
○2009/01/22追加:
「現地説明板」では「天正18年(1590)西尾城主となった田中吉政は城郭拡張を企図し、四方に大石を求め、北方の矢作川流域の寺領廃寺からも30余の礎石を運ぶと伝える。この心礎は寺領廃寺の心礎と推定される。昭和39年この地に運び、古代の遺物として古代文化を偲ぶものとする。」但し、天正18年記事の典拠は不明。なお、この心礎については、寺領廃寺かもしくは志貴野廃寺心礎と報告する報告書もあると云う。※志貴野廃寺(西尾市志貴野町)は瓦の散布を見るも、明確な伽藍遺跡が発掘されたわけではない。しかし地理的な要因などから可能性は否定できないとも思われる。
2008/12/05 京都法勝寺九重塔模型1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
京都歴史資料館(日本国民)所蔵、みやこめっせに展示。
京洛平安期を中心とした塔婆
2009/01/06 山城普賢寺心礎 再訪 山城普賢寺・・・「普賢寺四至内之図」
2008/12/12 攝津四天王寺 再訪 攝津四天王寺
攝津勝鬘院多宝塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同      金堂
再訪
攝津天鷲寺根本堂 天台宗聖龍山天鷲寺。総本道根本堂と思われ、屋上に三間堂を載せ、さらに相輪を載せる。建立年代などの詳細不明。
なお『大言海』秘事門徒の条には、「天台宗より分立せし仏教の一派、近江国坂本の三明院より起る。煩悩即菩提等の文を僻解し、密々流布せし宗旨なりと云ふ。摂津国天鷲寺も此流派なり。徳川幕府より禁断せらる。享保以前なり」とあると云う。
2008/12/12
「X」氏ご提供
下総円福寺五重塔 下総円福寺
2008/11/23 近江己高山多宝塔跡 近江己高山
近江大宝寺跡 大法寺とも綴る。
○「古代近江の遺跡」:一辺約10m高さ約1mの土壇を残す。おそらく塔の基壇と推定される。新旭町安井川?大荒比古神社東側付近。白鳳−奈良期の瓦を出土。
○2008/11/23現地訪問するも、上記の寺院土壇は発見できず。
清水山城館跡(史跡)の西方に本堂谷遺跡がある。清水山城館跡は、天台宗清水寺の坊舎を一族郎党の屋敷に転用し、本堂谷遺跡は大宝寺のそれを転用とも云われる。本堂谷遺跡の山林中には堀と土塁によって区画された20以上の曲輪の存在が知られるとされる。
上記の大宝寺土壇はこの本堂谷遺跡の山林中に残存するのかあるいはこの少し南方に残存するのかは現在未掌握。なお、寺跡の南辺付近にある保福寺には大宝寺の旧仏と云う釈迦如来坐像(重文・平安期)を厨子中に安置と云う。
2008/11/15
「X」氏ご提供
身延山五重塔 2008/11/5日再興五重塔完工 身延山
甲斐大蔵経寺塔跡1
  同     心礎1
  同     心礎2

三重塔跡及び心礎とも云われるが、礎石配置・中心礎石の形状などから塔跡とするには疑問がある。
◆「日本社寺大観 寺院篇」:松本山と号す。行基の創建と伝える。往古、三重塔ありて唐本一切経を蔵せしが、元禄年中焼失す。
◆「甲斐叢記:巻の8」:甲斐松本山弥勒実相院大蔵寺:
智積院末。行基開山。感道上人中興。「・・寺号は古昔聖武天皇大蔵経を寄附したまふによれり。山上に三重の宝塔を建てて、経巻を納むとあり、その塔、元禄元年に焼け失せぬ。・・・」
挿絵はなし。大蔵経寺。宝塔跡は現境内から5町余の所にあると云う。
◆養老6年(722)行基の創建。
応安3年(1370)足利義満、甲斐守護武田信成に命じ諸堂を造営し、三層(五層とも)の宝塔を建て大蔵経を奉納、天台から真言へ転宗と云う。
元禄年中および文化年中の大火で灰燼に帰す。
なお、三重塔跡は現存すると思われ、Web上に以下の記事がある。
・大蔵経寺前遺跡の見学会が企画され、「大蔵経寺三重塔跡」も見学予定に入っていた。(2005年)
・「山梨県埋蔵文化財センター」の「中世寺院分布調査」の平成17年度計画で、「笛吹市大蔵経寺境内の塔跡にて現地視察」が実施され、その現地調査写真の掲載がある。  ※大蔵経寺境内の塔跡
◆2008/11/28追加:「X」氏2008/11/15撮影画像
現地説明板:中心に心礎を有し方形二重の礎石を持つ。外側は5×5間で、内側は3×3間である。各々の中央間は側面の間より50cm広く、礎石中心距離は2.5mとなる。(左記文面は、外側一辺は10.5m、内側一辺は6.5mと解釈される。)
心礎は2.1×1,2mの大きさで、周りの礎石より35cm低く据えられる。心柱穴は方形に掘りこまれている。但し、開口部は鏨で円く抉られており、舎利容器の回収を窺わせる。(方形に掘りこまれるということであれば、大きさは不詳ながら、枘孔の類とも思われる。舎利容器の回収とは意味不明。)
江戸後期の絵図にはこの位置には三重塔が描かれるが、柱間・心礎の状況から多宝塔以外の建物であった可能性も指摘されている。(多宝塔以外の建物であったとは意味不明ながら、たとえば経蔵などの建物も想定されると云う意味であろうか。)なお礎石は強い火熱を受け表面が割れたものが多い。版築や堀込地形は明確でない。
 →確かに層塔(三重塔)跡とは断定は出来ないであろう。心礎様の大礎石も心礎かどうかは不明。中世あるいは近世の層塔であれば、心礎の無い可能性が高いし、心礎の方形の孔も異形で、この点でも心礎であることを疑わせる。外側5間と云う礎石の配置も層塔であることを否定する。 しかしながら天台(方形)大塔や真言の大塔であると推定する資料上の裏づけもない。結局は塔以外の例えば経蔵などの建物であったとも考えられる。
なお、江戸後期の絵図ではこの位置に三重塔が描かれるというも、三重塔は山上にあった(「甲斐叢記 」)とも思わる。この塔は元禄年中に焼失し、後年の絵図の作成時、山上にあったと伝承される三重塔を礎石の残る現地に描いた可能性もあると思われる。

2008/11/13 信濃清水寺三重塔跡 信濃保科清水寺
信濃エボ神様 東山道亘理駅心礎、信濃イボ神様   信濃エボ神様心礎
信濃新海大明神三重塔 信濃新海大明神三重塔
信濃松原神光寺三重塔跡 信濃松原神光寺跡
2008/11/14 信濃開敷院ニ層塔1
  同        2
  同        3
昭和12年「蚕安塔」(蚕供養)建立、平成20年改修し、「微笑大師堂」と堂名を変更。馬鳴菩薩及び弘法大師を本尊とする。
開敷院は明暦元年(1655)再建。信濃四賀仏法紹隆寺塔頭と云う。
参考:諏訪大明神神宮寺中に仏法紹隆寺の項がある。
信濃福寿院三層塔1
  同        2
曹洞宗・齢松山と号する。この三層塔は研修道場と称すると思われる。
1階は雲聚堂(坐禅・研修道場)、2階は聯芳堂(福壽院歴代の位牌及び福壽院全檀徒の先祖の位牌を祭祀)、3階は不詳。何れにしろ塔建築ではない。
信濃温泉寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
再訪、信濃温泉寺多宝塔
なお、諏訪大明神神宮寺中に温泉寺の項がある。
信濃諏訪明神下社神宮寺跡 再訪(但し神宮寺跡は初見)、
諏訪大明神神宮寺
<諏訪明神下社神宮寺跡、諏訪明神下社春宮、上社神宮寺上り仁王門・現上諏訪高国寺仁王門、上社神宮寺山門・現仏法紹隆寺山門など追加>
信濃聖光寺三重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
屋外にあるが、模型塔。但し檜を使用した精密な工作ではある。塔一辺(裳階部)は98cm、初重の裳階の屋根一辺157cm。総高は目測で3mくらいと推測される。外観は大和薬師寺三重塔をモデルにしたと思われる 。
当寺は(旧名)トヨタ自動車販売(株)神谷氏の発願で建立される。自動車による交通事故での死者・負傷者に対する贖罪の為の建立と思われる。 一種の偽善であろう。
昭和45年大和薬師寺長老橋本師によって開眼供養と云う。小塔建立時期は不明であるが、この頃 か、あるいはこの小塔だけは他の堂宇と性格が違うので、多少遅れて設置されたものと思われる。
小塔の他は飛鳥風を模したRC朱塗の大型の本堂・山門などがある。
2008/10/19
「X」氏ご提供画像
安芸緑井毘沙門天多宝塔 権現山毘沙門堂(真言宗)と称する。多宝塔と称する三重塔がある。建築年代不詳。写真のように、おそらくRCで、塔というには品性を欠く構造物と思われる。三重(あるいはニ重?)に大日如来、二重(あるいは初重?)に四天王を安置と云う。
正安元年(1299)安芸守護武田氏は銀山城築城の時、北方の守護として願成寺(覚信坊開基)を建立する。その後毛利氏の広島城進出とともに願成寺は広島に移る。現地緑井には、毘沙門堂・仁王門・東明寺・西明寺が残ると云う。
2008/10/17
「X」氏ご提供画像
伯耆上淀廃寺復原塔跡1
  同     復原塔跡2
史跡公園化がほぼ完了。北塔、中塔、南塔、金堂等の発掘状況が復原され、塔心礎や基壇は強化セメントで模造される。
「史跡上淀廃寺跡環境整備状況について(資料)」米子市(推定) より
復原概要:金堂は基壇復原、中塔・南塔は出土状況復原、北塔心礎は心礎復原
 伯耆上淀廃寺俯瞰   伯耆上淀廃寺全体図   中塔出土・復原状況   金堂基壇復原状況
伯耆上淀廃寺
出雲来美廃寺復原 史跡公園化がほぼ完了。東西塔跡の位置に基壇の土盛りがなされ、金堂跡は基壇・礎石が復原されたと思われる。
出雲来美廃寺

出雲天寺平廃寺塔跡

斐川町。詳細は全く不明。「X」氏情報によれば、塔の土壇及び幾つかの礎石が残存すると云う。しかし現況はかなりブッシュに覆われ分かり難い状況とも云う。

2008/10/21 美濃平安寺二重小塔1
  同    二重小塔2
  同    二重小塔3
  同    二重小塔4
  同    二重小塔5
  同    二重小塔6
  同    二重小塔7
  同    二重小塔8
  同    二重小塔9
 同  本尊(大日画像)
江戸期末の造作と推定される。(棟札など建築年代を示すものはない。)
 ※元々は神社に建立といい、明治維新前(幕末)の建立であるのは確かであろう。
形式:三間二重塔婆、総高約5mか?。
初重一辺3尺(91cm)、柱径2.2寸(66mm)。屋根桟瓦葺。初重3間、ニ軒並行垂木、廻縁付、横板壁、桟唐戸、地長押、内法長押、頭貫・木鼻、台輪を置く、組物和様三手先、中備中央蟇股、両脇間斗束、上重は3間、軒ニ軒扇垂木、勾欄付廻縁、組物は三手先を用いる。
この塔は秋葉神社(揖斐郡揖斐川町三輪上町・位置未掌握)にあり、明治の神仏分離で平安寺に移すと云う。岐阜県揖斐郡池田町舟子。
※洞海山と号す、元天台宗であったが、現在は臨済宗妙心寺派となる。本尊:薬師如来。
※彫刻師国枝桂助:文政8年(1825)-明治34年(1901)、揖斐に生れる。
京都の彫刻師前川三四郎の門に入る。嘉永3年(1850)故郷に戻ると推定。
揖斐川町一帯に多くの彫刻を残す。
参考文献:
「美濃揖斐彫物師 国枝桂助とその作品」水野耕嗣(「学術講演梗概集Vol.2000」 所収)
「美濃揖斐彫物師 国枝桂助の建築的業績」水野耕嗣(「岐阜工業高等専門学校紀要Vol.35」2000年 所収)
 美濃平安寺二重塔   美濃平安寺二重塔初重
実測値:一辺101cm(地長押の長)、縁一辺157cm、初重の縁上から台輪までの高さ61cm。
美濃柏尾寺多宝塔跡
多宝塔跡・北より撮影
  同  ・北西より撮影
  同  ・西より撮影
  同  ・南より撮影
  同  ・東より撮影
柏尾寺金堂跡礎石1
  同        2
柏尾寺跡千躰仏1
  同   千躰仏2
天平宝字年中(757〜764)の創建と伝える。柏尾山柏尾寺は多芸7坊中の一寺で柏尾には24坊があったと伝える。 柏尾集落から金堂跡に至る直線の参道左右には坊舎跡と思われる段差(推定)を見ることが出来る。「濃州多芸庄柏尾寺阿弥陀堂本尊」(彦根龍潭寺蔵)の像銘は天文23年(1554)であり、神明社棟札に柏尾寺僧良舜が遷宮師を務めるとあると云う。
永禄5年(1562)織田信長の兵火で焼失すると伝える。現在は神明社のみが残る。
※多芸七坊:法相宗であり、別所寺・竜泉寺・光堂寺・柏尾寺・養老寺・光明寺・藤内寺と云う。
◆多宝塔跡:一辺は約4.9m(実測)、方形の土壇上に11個の礎石が残ると云う。しかし何を根拠に多宝塔跡とするのかは不明。土壇上に礎石が11個残ると云うも、方3間を示す配列とはかなりかけ離れた配列であり、現状では礎石配列と云うよりは基壇の縁石との可能性が強い(多宝塔跡概略図参照)と思われる。また多宝塔であるならば当然あるであろう四天柱礎(勿論亡失ということもある)も見当たらない。
 柏尾寺多宝塔跡概略図
◆金堂跡:観音堂付近に南北に6個、東西に4個の礎石が残る。柱間はすべて九尺(2.7m)と云う。
◆附近には膨大な石佛・五輪塔などが埋もれていたようで、明治後期、それを寄せ集め千躰仏と云う塚などが築かれている。
◆参考:勢至山光堂寺跡:尾廃寺北500mにある。現在は日吉権現の境内となる。本殿背後の平坦地に光堂寺金堂(推定)跡があり、礎石が少なくとも1個が残る。多芸七坊の一坊で堂塔を具備し多くの坊舎があったと云う。詳細は不明。
美濃光堂寺跡・日吉権現     同   推定金堂跡     同  推定金堂跡礎石
伊勢多度三重石塔1
  同        2
  同        3
  同        4
桑名市「ふるさと多度文学館」ご提供情報:本体は御影石製、高さは約8.5mほどを測る。
多度神宮寺に建立されたと云う三重塔を、町の歴史文化を示す道標の一つたらんとして、大和の実在の三重塔をモデルに再現(スケール1/3)したものである。
石製のため軒廻りは「布団重ね」の様式を採る。
尾張甚目寺 再訪 尾張甚目寺
尾張明眼院多宝塔残欠 尾張明眼院多宝塔 慶安2年建立の多宝塔下重が残存する。

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