越前幸臨寺三重塔は、昭和20年敦賀空襲で焼失する。
しかしながら、この三重塔の詳細情報は、現下のところ不明なままである。
また古写真や絵図なども鋭意探索するも、未だに全く入手出来ず。
2022/10/11:「K」氏より、「敦賀町絵図」中の幸臨寺部分図の送付(デジタル撮影画像)を受ける。
送付された部分図には幸臨寺三重塔が描かれる。 三重塔については写真はもとより、三重塔の絵図も発見できず、今般の絵図で初めて三重塔を「視覚的」に確認。 深く感謝いたします。よって、直下にその「絵図」を掲載する。
★敦賀幸臨寺諸資料
2022/10/11追加:
○「敦賀町絵図」:享保年中末、京都大学総合博物館蔵 より ※「K」氏ご提供画像:
なお、ご提供画像の本ページへの転載は管理人(s?minaga)の独断で、「K」氏の関わりは一切ありません。
※福井県立若狭歴史博物館>特別展:中世若狭の「まち」(開催期間:2022/10/07〜2022/11/06)
が開催中の、その特別展の【令和4年度特別展図録「中世若狭の「まち」」】 所収 という。
本絵図の幸臨寺部分には三重塔が描かれる。
敦賀町絵図(部分図):下図拡大図:向かって右が幸臨寺 敦賀町絵図(幸臨寺部分図):三重塔が描が枯れる。
※本繪圖は未見、また特別展の図録も未見。 本繪圖の左にある気比神宮寺の「神通院」は下に掲載の「敦賀旧町名地名考」を参照。
2022/10/31追加: ○「特別展 中世若狭の「まち」」福井県立若狭県立博物館、2022 より
「敦賀町絵図」:享保年中末、京都大学総合博物館蔵 気比社社僧神通院や川向御所辻子町の火除地の存在などから、本絵図は享保末年頃の作成と思われる。 ※神通院は享保以降に廃寺となるという。
敦賀町絵図・全図 敦賀町絵図・幸臨寺部分図2
○「近世敦賀町図」(三井文庫所蔵):敦賀市史資料編第5巻の付図に所収 敦賀幸臨寺諸資料 より
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近世敦賀町図1・・部分部:原図の東側の中央付近、原図の約1/8の部分図
近世敦賀町図2・・上記の幸臨寺付近拡大図(左図拡大図)三井文庫所蔵とされる、おそらく江戸期のものと思われる。
(原図は所在不明で、寛政12年写されたものと云う。)
「幸リン寺」とあり、更に「トウ」(その下に何か文字があると思われるが、判読できず)とある。
※現幸臨寺は戦後の復興で元位置から動くといわれるが、気比宮や永賞寺との位置関係から判断して、それほどは動いていないと思われる。 |
2003/12/10追加: ○「指掌録」(寛文年中〜天保11年の記録):敦賀町分寺社
一、永賞寺末、禅曹洞派 知識地 幸臨山幸臨寺 丁持町
○「敦賀誌」石塚資元著、嘉永3年(1850)頃成立か?
気比大神宮寺の項 に 以下の記事がある。
正四位上左中弁兼備後権守藤原朝臣兼忠
左大史正六位上牟久宿称忠陳
「この後毎度の回録にて、いつの頃この神宮寺廃絶せしや、その在し処さへしられす、今幸臨寺の後の山の出岬を寺尾と云、これ古の神宮寺の跡也と云伝ふれ共証とすへき物もなし、幸臨寺及び三重塔神宮寺のなこりにや、宮司の支配なりしか共、延宝(1673〜)年間より永賞寺へ付属せり、三百年前御所辻子に神宮寺在しといひ伝ふるるハ、いつの比其処に移せしにや、古記なけれハ知へきよしなし、善妙寺・本妙寺・本勝寺・妙顕寺・正蔵寺・滝本院等皆神宮寺の子院也、金前寺ハ子院の内の密言院といひし也、善妙寺ハ御所辻子に在し神宮寺中より、今の処へ移りしハ、三百年前といへともしかと知かたし、永禄元年朝倉義景 気比宮造営の古図をみれハ、其比ハ社内今の拝殿の東南に神宮寺あり、度々の回録により、漸々めて造営せられしと見ゆ、」
○「敦賀一目鏡」(嘉永7年写本):敦賀町寺社 より <嘉永7年は1854年>
一、禅曹洞流 幸臨山幸臨寺
上記資料によれば、江戸期には曹洞宗永賞寺(敦賀泉)末であった。
また気比神宮寺との関係で幸臨寺及び三重塔が語られ、気比宮々司の支配で、延宝年間より永賞寺へ付属していたとも述べられる。(幸臨寺は永賞寺の寺中であったとの情報も
ある。
1)いずれにしろ三重塔は江戸期には存在していたのは確実であろう。
なお上記の神宮寺の子院として列挙された寺院の多くは、気比宮を取り巻くように現在も存在する。
2)若州見聞記には永賞寺寺中とあるという。(未見)
なお「寺院明細帳」の幸臨寺の項に三重塔の記載があると云う。(現在のところ「寺院明細帳」は未見)
○「敦賀市戦災復興史」敦賀市戦災復興史編纂委員会、昭和30年 より
被災寺院 曙 曹洞宗 幸臨寺 本尊:十一面観音 了山陽学 仮堂;昭和21・7・10
○「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年 より
戦災寺院一覧表があり、幸臨寺の項では
曙 幸臨寺 焼失棟数;9 焼失建坪;83,9坪 価格;36,600円 法宝数;7 とされる。
戦災前の幸臨寺の焼失建坪は100坪未満であるにも関わらず、焼失棟数が9棟と多いのはおそらく小宇が多かったことに因るものと思われる。
※敦賀被災寺院28ヶ寺のうち、焼失100坪未満は上記一覧表では僅か3ヶ寺にすぎず、多くの寺院の焼失建坪が百数十坪〜500坪を数えることを思えば、幸臨寺は三重塔はあったものの小寺院であったと思われる。
昭和21年、幸臨寺は仮堂復興する。
2010/07/05追加:
○「敦賀旧町名地名考」石井左近/著、敦賀郷土博物館叢書、1975 より
敦賀と天筒山の項:天筒山付近の寺尾という地籍は気比の神宮寺の跡で、その地に幸臨寺が建つ。この寺には立派な三重塔があったが、昭和の大戦で寺も塔も戦災で焼失する。
またその付近の社家町に古義真言宗気比宮社僧寺神通院※があったが、享保年間以降に廃寺となる。(元禄の敦賀町図にあり)
※2022/10/11追加:神通院は上に掲載の「敦賀町絵図」に描かれる。
天筒山のことを古くは御山・行幸山といい、付近に幸臨寺がある。つまりは天筒山に、神は御降臨になったことを暗示するが如くである。
★2002/1/12現地訪問記録
三重塔に関する情報は何も得られず。概要は以下のとおり。
近所のお年寄りの方の聞き取り:幸臨寺は知ってはいても、尋ねた範囲では三重塔が存在したことを誰も知らず。
住職は不在で、住職への聞き取りが出来ず。
檀家総代と面談、檀家総代に三重塔の存在を尋ねるも、総代も世代が替わりおそらく戦後の生まれで、三重塔のことは分からないと云う。
なお、檀家・近所のお話を総合すると、現幸臨寺は元の位置から道路を挟んで東に移動して再建されたと思われる。
元位置には観音堂?がある?あった?かもしれないとのことであったが不明。
敦賀博物館にも三重塔に関する資料は全く無いと云う。(電話)
但し戦前、地方紙(福井新聞?)に三重塔写真が掲載されたことがあったとも云う。
現幸臨寺は全くの小宇であり、門柱に寺院表示があり、それで辛うじて寺院と判断できるような佇まいである。
越前敦賀幸臨寺1 越前敦賀幸臨寺2
○2009/03/18現地再訪
昭和3年生(男性・幸臨寺裏の丘麓に戦前より居住)、昭和10年生(男性・幸臨寺門前付近に戦前より居住)より聞き取り:
「幸臨寺は現在地の南側20〜30m付近にあり、現在、幸臨寺のあった場所は道路(476号)になると云う。つまり現幸臨寺前の道路の南側信号の北側付近
の道路上であったと云う。寺院は西向であった。三重塔は確かにあった(但し具体像は思い出せないあるいは記憶に無い)。三重塔写真などの資料の残存は聞かない。幸臨寺住職は先年逝去、夫人は北海道に帰る。付近の旧本寺永賞寺が今は管理。小寺では
寺院として成り立たないのであろう。
」
現若狭幸臨寺:写真中央の堂宇とその右の民家風建物が現幸臨寺の全てである。
若狭幸臨寺跡1:写真中央付近の道路が幸臨寺のあった場所。
若狭幸臨寺跡2:写真信号のある横断歩道の右側(北側)が跡地である。中央は現幸臨寺
。
2006年以前作成:2022/10/31更新:ホームページ、日本の塔婆
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