※摂津名所圖會(寛政年間<1789-1801>刊行)記事より:
神宮寺(本社の北にあり。旧号新羅寺。天台宗東叡山に属す。天平2年孝謙天皇造営)、本尊薬師佛。・・二層塔(東西に両塔あり。金剛界・胎蔵界・大日如来・四天王を安置す。前に宝池の画、後にしし座文殊の画、塔中柱の絵は雌雄の竜、おのおの変態あり。両扉十二天、その外仏殿後壁の画、両塔とも極彩色、狩野山楽筆)」
◆「住吉名勝圖會 巻之3 神宮寺」(部分図):寛政7年(1795)
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住吉名勝圖會 巻之3
神宮寺:左図拡大図
記事:
「 住吉社の北にあり。日光直末。寺領360石。
境内東西67間半、南北41間4尺。仏堂8宇、本堂・釈迦堂・阿弥陀堂・大日堂・東塔・西塔・求聞持堂・一切経堂なり。」
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◆紀州往還見取絵図(寛政年中<1789-1801>編修)に見る住吉大明神
2006/02/10追加:
◆「浪花百景之内」の住吉神宮寺:初代長谷川貞信画:初代貞信は文化6年(1806)〜明治12年。
住吉神宮寺:初代貞信の活躍時期から江戸末期の作と推定される。
※塔はおそらく西塔と思われるも、上重平面は方形3間、初重平面も方3間の通で描かれる。
2011/10/22追加:「住吉大社歴史的建造物調査報告書 本文編」住吉大社歴史的建造物調査委員会、2009.10 より
○住吉大社・四天王寺図
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住吉大社・四天王寺図:左図拡大図
:熊沢楚石筆、幕末頃の景観を描いたものであろう。
楚石は文化12年(1829)生まれ、幕末から明治に活動、住吉社図と四天王寺図があり、四天王寺図に楚石の署名・落款がある。 |
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2011/10/22追加:「住吉大社歴史的建造物調査報告書 本文編」住吉大社歴史的建造物調査委員会、2009.10 より
○「攝津国住吉社絵図」:承応2年(1653)年紀:中井家指図、京都府立総合資料館蔵
本図は承応4年(1655)の遷宮の造営時の指図と考えられる。
神宮寺東西塔の平面は方5間として指図される。
攝津国住吉社絵図:全図、西南隅にあるのは堺大寺と堺宿院の境内図である。
(2011/10/22追加:「住吉大社歴史的建造物調査報告書 本文編」住吉大社歴史的建造物調査委員会、2009.10 より転載)
摂津国住吉社絵図:
住吉社部分図:「住吉大社発掘調査報告書」より転載、下に掲載
摂津国住吉社絵図:住吉神宮寺部分図:「住吉大社発掘調査報告書
」より転載、下に掲載
※住吉神宮寺伽藍配置図2:住吉神宮寺部分図:「住吉大社発掘調査報告書
」より転載、下に掲載
○「享和2年(1802)焼失建物図」:住吉社蔵
建物の平面を外郭線で表す。享和2年に焼失した建物を朱色で、類焼を免れた建物を黒色で表すと云う。
2007/08/19追加:
「元和造営の住吉神宮寺西塔について」藤原義一・中村昌生・小野木重勝(「日本建築学会論文報告集 第63号」昭和34年10号所収) より
★住吉神宮寺概要
天平宝宇2年(758)摂津住吉神宮寺創建、新羅寺と号する。
新羅寺は住吉荘厳浄土寺、津守寺とともに住吉三大寺(天台宗)として大寺となる。
古代・中世の姿はよく分からないが、近世の住吉神宮寺は以下と伝える。
慶長11年(1606)豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として、本社社殿と住吉神宮寺の造営が行われる。
この時、神宮寺では、本堂・法華三昧堂・常行三昧堂・東塔・西塔・僧坊・鐘楼などが造営される。
慶長20年(1615)兵火(大阪夏の陣)により社殿および伽藍焼失。
元和4年(1618)徳川秀忠の命により再興される。(奉行は石河伊豆守・三好越後守・山田五郎兵衛)
◆住吉神宮寺伽藍配置図
◆摂津国住吉社絵図:
住吉社部分図:承応2年(1653):中井家文書:京都府立総合資料館蔵
※住吉大社発掘調査報告書より転載のため画像は不鮮明。
※摂津国住吉社絵図:住吉神宮寺部分図、大容量の絵図(下掲載)
2010/10/11追加:「描かれた聖域と名所]大阪市立博物館、1998 より
◆住吉名所鑑神宮寺堂塔図:大阪市立博物館蔵:
住吉名所鑑:田寺如柳著、享保2年(1717)
以降、承応・宝永・延享・寛政・文化・天保などの修理を経て、基本的には神宮寺の堂塔は元和造営時の姿が維持され、明治維新に至る。
◆「住吉松葉大記」(梅園惟朝、元禄・正徳頃)による堂塔の規模の記載は以下のとおり。
本堂:瓦葺、桁行7間半3寸、妻7間1尺、軒高自地1丈9尺4寸、有牌、軒高1丈6尺2寸 |
同廊下:瓦葺、桁行6間9寸、妻8尺8寸、軒高自石1丈1尺1寸、左右廊下間数同 |
常行三昧堂:瓦葺、4間2尺5寸四方、軒高自石1丈7尺2寸 |
法華三昧堂:瓦葺、間数同常行三昧堂 |
経蔵:瓦葺、4間2尺1寸四方、軒高自石縁9尺6寸 |
大日堂:瓦葺、桁行4間4寸、妻1丈5寸5分、高自石至大王1丈1尺 |
楽所:瓦葺、桁行3間、妻2間、軒高自石1丈2尺 |
今主社:茅葺、桁行8尺、妻7尺、軒高自石8尺8寸但有板井垣鳥居 |
東塔:瓦葺、5間4寸四方、軒高自石1丈8尺2寸5分 |
西塔:間数同東塔 |
求聞持堂:瓦葺、2間5尺6寸四方、軒高自石1丈2尺6寸 |
舞台:以石作之、3間5寸四方、高3尺2寸5分 |
経蔵礎石:桁行2間、妻1間2尺 |
浴室:瓦葺、桁行5間半、妻2間、軒高自石1丈3尺 |
高蔵:瓦葺、桁行2間3尺1寸、妻2間2尺、軒高1丈5尺9寸 |
|
東僧坊:瓦葺、桁行7間、妻4間、軒高1丈3尺 |
西僧坊:瓦葺、間数同東僧坊 |
食堂:瓦葺、桁行5間半、妻6間半、軒高1丈3尺 |
自食堂至本堂廊下:瓦葺、桁行9間4尺9寸、妻8尺8寸、軒高1丈1尺1寸、此所有閼伽井閼伽棚 |
札所:瓦葺、桁行2間、妻1間半、軒高自石1丈 |
番所:瓦葺、間数同札所 |
南大門:瓦葺四足、桁行2間3尺、妻1丈2尺5寸、高自石高冠木内度(法)1丈1尺 |
同有折(クグリ):桁行5尺5寸 |
南小門:瓦葺、桁行7尺9寸、妻3尺、高冠木内度7尺1寸5分 |
北小門:瓦葺、桁行8尺、妻3尺、高冠木内度7尺5分 |
西小門:瓦葺四足、桁行2間3尺、妻1丈2尺5寸、高冠木内度1丈1尺 |
自此門至北角塀長:16間5尺3寸 |
同至南角塀長:22間5尺6寸 |
南方字角至大門塀長:30間5尺 |
自南大門至小門塀長:16間5寸 |
自小門至東角塀長:14間半 |
東方塀長:41間但丑寅角欠2間6寸也 |
北方自東角至小門塀長:45間1尺7寸 |
自小門至西角塀長:26間5尺4寸 |
※上記にある経蔵礎石・浴室などの所在は不明・・・・・注)何れも下掲載「住吉神宮寺伽藍配置図2」に表示あり。
※江戸末期には上記以外に聖天堂・金毘羅神祠・弁財天社・御読経所・供養法所が造立される。
※本堂左右(前方)に廊下で繋いだ法華堂・常行堂を配置する、
あるいは方形大塔(天台大塔)を配置するなど天台大寺の風格を踏襲する伽藍配置であったことが見て取れる。
2008/03/16追加:
「重要文化財切幡寺大塔保存修理工事報告書」より
住吉神宮寺伽藍配置図2
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住吉神宮寺伽藍配置図2:左図拡大図
摂津国住吉社絵図(神宮寺部分図):承応2年(1653)、中井家文書
※摂津国住吉社絵図:
住吉社具郡図(上掲載)
但、住吉大社発掘調査報告書より転載のため画像は不鮮明。
慶長造営時の神宮寺伽藍配置:
本宮社殿の真北に南大門を構え、正面に本堂(薬師堂)、その後方に食堂、本堂東に法華三昧堂、西に常行三昧堂、その各々の前方に東塔・西塔を置く左右対称の配置であった。
東西両塔は対面するので、西塔は東面する。
東塔本尊は胎蔵界大日如来・四天王、西塔は金剛界大日如来・四天王を安置する。 |
◆和漢三才図会・記事・・・神宮寺:本社の北にある(東塔・西塔・食堂・三昧堂・東の僧房・西の僧房・宝蔵)本堂。
2006/01/29追加:
◆慶応4年大洪水細見図:住吉東西両塔が描かれる。
(「地図で読む江戸時代」より)
2003/10/04追加:
★神宮寺跡
明治の神仏分離で、住吉神宮寺はほぼ完全に破壊される。
現在、神宮寺跡の東半分は北神苑、西半分は住吉文華館(RC製)となる。
南大門の礎石及び畳石敷と両脇の築地塀は1間ずつ、残存する。
北神苑の東側に大塔の礎石と類似した平坦な面を持つ御影石の庭石が数点点在する。(※北神苑は荒れ果て、現状では確認できない。)
参考:大海神社四脚門:神宮寺南大門は四脚門で、やや規模は小さいが、北方大海神社に四脚門が残る。
※上述「住吉松葉大記」では南大門:瓦葺四足、桁行2間3尺、妻1丈2尺5寸、高自石高冠木内度(法)1丈1尺 とある。
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住吉神宮寺跡石碑(左図拡大図);境内北のはずれが元地で、新しい石碑がある。
同 神宮寺跡地1;南西方面から撮影、新しいブロックが積まれるが、その内側すぐに東西両塔があったと推定される。
以下の写真は現在、北神苑と称する神宮寺東半分の跡地であるが、この神苑は荒れ果て、放置される。
同 2;礎石あるいは廃石様なものが散乱する。
同 3;北東方面から撮影、荒れ果てる。五目置場と化す。
2008/03/13撮影:
神宮寺跡地(北神苑):一部整地に取り掛かる気配があるが、大部は荒廃
したままの状態である。
住吉神宮寺護摩堂:唯一残存する仏堂で、現在は招魂社などという反吐の出る扁額を掲げる。
※明治維新で招魂社とし、明治7年ここに大国主命を勧請と云う。(明治7年社務日誌)
この堂は神宮寺護摩堂を転用したもので、これは元和15年(1702)神社と神宮寺との間で護摩堂の所有権争いがあり、この時神社側の所有に
なったため
今日残存するものと思われる。
※桁行3間梁間3間、向拝1間、入母屋造・本瓦葺。慶長12年(1607)の建築、府指定文化財。
2008/03/13撮影:
住吉神宮寺護摩堂2 同 護摩堂3 同 護摩堂4
神宮寺南築地:ほとんど崩落しているが、神宮寺の築地といわれる。(確かに神宮寺築地跡とも思われる。)ただし
、北神苑の造作で新に作られた築地の跡の可能性もあるであろう。
2008/03/13撮影:神宮寺南築地2
高 蔵:仏教的な雰囲気が若干ある建造物では、高蔵の南北2棟が残る。慶長12年(1607)の建築(府文化財指定)。写真は北高蔵で南高蔵は
後方にほんの少し屋根が写る。 |
◆その他、住吉神宮寺の遺物として僅かに以下が知られる。
・住吉神宮寺西塔:阿波切幡寺へ売却:下掲「摂津住吉神宮寺西塔の移建史料」を参照
(この頃東塔はかなり破損が進んでいたと云う。)
・住吉神宮寺五大力菩薩絵像:現在高野山が所蔵、重文。
・生根神社香梅殿:廻廊の一部を生根神社香梅殿に転用。
※紅梅殿:
元住吉神宮寺の回廊(慶長初年の建造物)の一部を、明治初年生根神社に移し絵馬所となしたるも、昭和初期に集会所に改造す。
※桁行5間梁間2間、切妻造、本瓦葺。桁行1間7尺7寸、梁間16尺。この寸法は神宮寺北西脇にあった御旅所西の回廊と一致する。
・摂津荘厳浄土寺表門:神宮寺寺門の一つを移建と伝える。
※1間薬医門、切妻造、本瓦葺。
2008/03/13撮影:
荘厳浄土寺表門1
同 2
同 礎石:境内に残る柱座付礎石
★住吉社概要
住吉神宮寺は新羅寺と号し、方形の東西2塔をはじめ大伽藍を有していた。
明治6年、徹底した神仏分離が行われ、ほとんど全ての仏堂が破壊される。東塔もこの時、棄却されたと思われる。
西塔は明治6年阿波切幡寺に「5円何十銭」かで売却され、当地で明治11年上棟され(墨書)、現在は重文指定を受け、健在である。
元和4年(1618)の再建塔であった。
本尊は
薬師佛高麗佛は昔より秘して見せず、両檀日光・月光佛・四大天王・十二神将等定朝の作 といわれたと云う。
2007/08/19追加:
「住吉大社史(下)」所 功/〔ほか〕、住吉大社奉賛会、1983 より
★近世初頭の造営
天正4年(1576)織田信長、石山本願寺を攻撃、本願寺一揆の放火で住吉社神殿・幣殿を全焼。
本格的な復旧は豊臣秀頼によって慶長11年より開始される。(慶長の造営)
「津守家盛記」:
慶長12年度分の中に
・・・・
1.神宮寺築地も此度御再興也、南大門立柱閏4月19日、北西東の門も出来
1.西塔立柱4月15日 両三昧堂同日立柱 御奉行片桐主膳正 大工但馬守
1.東塔御奉行片桐東市正 大工亀屋与左衛門
1.東西両僧坊・・ 1.今主社 1.護摩堂・・
の再興記事がある。
承応(明暦)の遷宮<承応4年=明暦元年>は厳重に行われる。
参考:上掲の摂津国住吉社絵図(中井家文書)はこの時の絵図と推定される。
元禄期には上掲「住吉松葉大記」のような堂塔があった。
上記以外に目録では以下が掲載されている。
大海神社本殿、末社、南小門、北小門、西門、三千仏堂
奥天神本社、末社、瑞垣門、鳥居、拝殿、観音堂
南門、南門筋外有石橋、遥拝所、著座所、勅使屋礎、舞台礎、廻廊西門、廻廊西神輿舎、北著座所、・・・浄土寺本堂礎、・・・・
津守寺本堂、講堂、弁財天社、表門、同裏門
新宮、若松社、同拝殿、正印殿、唐門、築地、屏裏門、浴室、東大門、番所、・・・
田辺社、山坂社、・・・・
泉州宿院、御遥拝所井垣、・・・
開口社本社、瑞垣門、瑞垣、末社、拝殿、瑞森門、大寺、鐘楼、南北門、西門、・・・・
★住吉神宮寺の神仏分離
明治維新前までは
一神殿:本地薬師如来・垂迹住吉大神宮、二神殿:本地阿弥陀如来・垂迹八幡大菩薩、三神殿:本地大日如来・垂迹天照大神、四神殿:本地正観音・垂迹神功皇后 とされ、
また諸堂宇には以下の仏像が安置された。
本堂:日光月光十二神将四天王像、東塔:胎蔵界大日如来並四天王、西塔:金剛界大日如来並四天王像、
東法華三昧堂:釈迦如来並脇侍文殊普賢二菩薩、西常行三昧堂:阿弥陀如来並脇侍観音勢至二菩薩、
大日堂:大日如来並脇侍不動毘沙門両尊、求聞持堂:虚空蔵菩薩、護摩堂:不動明王、食堂:釈迦文殊頻頭盧、
東西両僧坊:不動明王毘迦羅勢陀伽
※住吉神宮寺の諸堂宇や仏像仏器などの処置がどの様に行われたのかは資料がなく明らかでない。
明治元年閏4月住吉神宮寺社僧復飾と推定される。(神祇省記録)
明治6年の記録:唯一以下の「神仏分離史料」が残る。
住吉神社一社
其社元神宮寺堂舎等取繕説教場ニ致度再伺書昨年
11月教導職管長へ宛差出於管長聞届候趣不都合ノ次第ニ付取消申達候条右処分之儀ハ更ニ地方官ヘ打合之上当省ヘ可申出候事
明治6年2月12日
教部省
※以上の文面によると、明治6年の前年11月、神宮寺堂舎を説教場へ転用する件を教導職管長へ差出・許可されたが、教部省としては不都合であり、許可を取り消す。神宮寺堂舎は処分するように打合せ、教部省へ申し出るべしという大意であり、
神宮寺堂舎は明治6年2月以降、まもなく取壊されたと推測される。
2011/10/22追加:「住吉大社歴史的建造物調査報告書 本文編」住吉大社歴史的建造物調査委員会、2009.10 より
○住吉神社境内維新之際略図:明治初期、当図には堺県の記載があり、堺県が大阪府に合併される明治14年以前の景観と思われる。
住吉社蔵
神宮寺は神仏分離の処置でほぼ壊滅し、僅かに2小宇と樹木と四周を囲む門と塀だけに破壊された様相が描かれる。
「旧神宮寺跡 但シ門塀トモ御払下ケ之分 間数略之」とある。
住吉神社境内維新之際略図
◆攝津国坐官幣大社住吉神社の図(明治16年):神仏分離後・神宮寺取壊後の絵図
|
攝津国坐官幣大社住吉神社の図(明治16年)
:左図拡大図 明治維新後、神宮寺は破壊され、田畠となる様子が描かれる。
(明治初頭には住吉神宮寺は完全に破壊され、田畠になる。) |
2008/03/13撮影:
住吉大明神反橋
★阿波切幡寺大塔
◆切幡寺大塔の概要
元和4年(1618)、徳川秀忠が摂津住吉神宮寺に寄進。
そのうちの西塔を神仏分離の時当寺が買受、明治6〜15年に移築。
初重は方5間一辺9.98m・出組・中備撥束・軒はニ重繁垂木、ニ重は方3間一辺4.8m・四手先・中備蓑束・軒はニ重繁垂木。
初重正面の中3間は板唐戸。両端間は連子窓、背面と側面は中央間のみ板唐戸、その他の間は連子窓とする。
外部は初重・二重とも四面とも切目縁を廻らせ、二重には跳勾欄が付く。
内部は初重の各柱通りの全ての交点全てに円柱を建て、入側柱通りに切目長押を打ち、これよし外を外陣、内を内陣とする。
天井は内外陣とも小組格天井で、四天柱内は折上げ内々陣とし須弥壇を置く。須弥壇裏は来迎壁を建てる。
来迎壁表は「宝池の図」、裏は「猊座文殊座」(狩野山楽画と認められる)を残す。
2008/03/16追加:「重要文化財切幡寺大塔保存修理工事報告書」より
切幡寺大塔内々陣(修理後) 切幡寺大塔宝池の図(修理前)
切幡寺大塔猊座文殊座(修理前)
切幡寺大塔宝池の図(修理後)
切幡寺大塔猊座文殊座(修理後)
※上掲の「摂津名所圖會(寛政年間刊行)記事」は以下の通り。
神宮寺(本社の北にあり。旧号新羅寺。天台宗東叡山に属す。天平2年孝謙天皇造営)、本尊薬師佛。
・・二層塔(東西に両塔あり。金剛界・胎蔵界・大日如来・四天王を安置す。
前に宝池の画、後にしし座文殊の画、塔中柱の絵は雌雄の竜、おのおの変態あり。
両扉十二天、その外仏殿後壁の画、両塔とも極彩色、狩野山楽筆)」
二重内部では、側柱は円柱、四天柱は角柱とし、心柱を含め全ての柱が初重入側柱上に組まれた柱盤上に建つ。
大正14年、屋根葺替部分修理
平成元年、腐朽した初重縁廻りを修理。昭和59年縁腐朽状況
平成10-13年、半解体修理(修理費5億6千9百万円)
※仏舎利の発見:
今般の修理で仏舎利(発見部位は未掌握)を発見。
今回発見した仏舎利は今回用意した仏舎利とともに、心柱盤枘孔に納めたと云う。
発見仏舎利 今回埋納仏舎利
2007/08/19追加:
「元和造営の住吉神宮寺西塔について」藤原義一・中村昌生・小野木重勝(「日本建築学会論文報告集 第63号」昭和34年10号所収) より
◆切幡寺大塔の現状
下層方5間、上層方3間、本瓦葺、宝塔風相輪を備える。初層には縁を四周する。
正面中央3間は板唐戸、両脇間は連子窓、側面及び背面は中央間のみ板唐戸で、残りの間は連子窓とする。
円柱上出組に間斗束、軒は二重繁垂木、軒支輪を備える。
下層内部は周囲1間廻りが下陣で、内外陣境に12本の円柱を方形に建て、内陣床は一段高く敷く。天井は内外陣とも小組格天井である。内陣中央1間四方に四天柱が建ち、天井は折上小組格天井をし後部に来迎壁を造り唐様須弥壇を設ける。来迎壁には正面に宝池、背面に文殊菩薩の図を極彩色で描き、内陣斗栱及び天井廻りには極彩色文様の描かれていた痕跡を残す。
上層は四手先の斗栱を用い、斗栱間には蓑束を置く。四面とも中央間板唐戸、両脇間は連子窓。周囲には三斗で支える縁勾欄を廻らす。
◆切幡寺大塔平面図
◆切幡寺大塔上重斗栱 ◆切幡寺大塔下重内部
◆切幡寺大塔写真
2001/12/31撮影画像(切幡寺大塔:攝津住吉神宮寺西塔):
阿波切幡寺大塔1 同 2 同 3
切幡寺大塔立面・断面図
※撮影時(訪問時)は大塔の周辺が整備中に付き、立入り禁止であり、周囲は塀で目隠しをされていた状態で、接近不能であった。
2008/04/28撮影:
◆四国十番阿波国切幡之図:年代不詳、但し明治期以降の古図と思われる。
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四国十番阿波国切幡之図:左図拡大図
すでに大塔は移建されている図であり、
現在の景観とほぼ変わらない境内図であろう。
2013/08/09追加:
「四国徳島写真帖」徳島県、大正11年
阿波切幡寺
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2002/5/30追加:
大塔の改修が終了。明治6年住吉社神宮寺は廃寺になり移築。高さ約24m。
塔の心柱や軒を支える「桔木」に、「元和年中に秀忠が建立した」と刻まれていた。
ただ、文化財建造物保存技術協会によると、大阪夏の陣(1615)で焼失したとする専門書はあるが、当時の古文書に焼けたという記述は見当たらないという。改修の主任技術者(同協会の岡信治氏)は古文書などをもとに、「新たな解釈として、完成時期は不明だが、慶長12年(1608)ごろに着工し、元和4年に大改修したのではないか」という。
1998年秋に修理を開始。本体を残し、屋根瓦の約3割を再利用、桔木は約半数ほどマツからヒノキ材に取り換えられた。
総事業費は約5億7000万円。
2007/08/19追加:
「元和造営の住吉神宮寺西塔について」藤原義一・中村昌生・小野木重勝(「日本建築学会論文報告集 第63号」昭和34年10号所収) より
◆摂津住吉神宮寺西塔の移建史料
阿波郡切幡村絵図(江戸末期)には切幡寺には大塔は描かれていない。
※これ以降に大塔は設置されたと知れる。
◆阿波郡切幡村絵図:部分図
心柱の下端部に以下の刻銘がある:
「徳川二代将軍秀忠公元和年中千堺住吉神宮寺建立之二百六十年之後明治年中遷
当山現住釈氏天佑代
大阪発起人 殿村平右衛門、殿村延、平野谷又七、伊予屋岩蔵、伊丹谷源左衛門
大願主 釈智観尼
阿州発起人 吉原与六郎、中野寿之介、前田弥三郎、笠井貞蔵、佐野与平、山西庄五郎」
※元和年中秀忠建立塔は明治年中に大阪・阿波などの発起人の努力により「遷」されたことが知られる。
下層柱頂天井裏見え隠れの墨書は以下のとおり
「大塔一重上棟明治十一年寅八月同二日 棟梁板野郡下庄村 山田熊太郎当年五十歳・・・・」
※大塔は明治11年に上棟されたと記録される。
大正14年修理の際の上層小屋組桔木の墨書は以下のとおり
「大塔建立偉功者
当山主天裕(ママ)上人
当山主天闊上人
蜜華院智観大尼
閑々坊鈴木淳栄
自明治六年同至十五年竟成之
伝聞明治十一年天祐上人建初重而没 智湛(天閣)和尚継承先師之遺業明治十五年終成就の者也・・・・」
※大塔は明治6年から移建に取り掛かり、途中明治11年現住天祐上人が没し、明治15年に完工したと云う。
上層小屋組桔木にある墨書は以下のとおり
「聞説此大塔素堺市在官幣大社住吉別当神宮寺徳川二代将軍秀忠為鎮護国家建之 而同寺在二基之大塔即金剛胎蔵界是也 胎蔵之塔腐朽而終委於地是即維新革命世思混乱之時也 独金剛界之一基聳天空放於光堺之野 時人抱恐称日雖為寺廃頽不死」
※この大塔は住吉別当神宮寺金剛界大塔(西塔)であり、すでに胎蔵之塔(東塔)は明治の神仏分離で混乱し、腐朽而終の状態であり。
独り金剛界之一基が天空に聳えていた状態であったことが知られる。
切幡寺大塔の現在の高さは約24.5m、初重は約10m四方、二重は約4.9m四方を測る。
東西塔は「住吉松葉大記」では方5間4寸とあり、この記の1間とは6尺5寸と見られるので、塔一辺は32尺9寸(9.97m)ということになり、これは現存の33尺(計画数法)、32尺9寸9分5厘(南面数法)、32尺9寸5分(東面寸法)とほぼ等しい寸法となる。
しかしなにより、上掲の
「住吉神宮寺境内大塔写真」あるいは「住吉神宮寺西塔写真」 と 切幡寺大塔立面・断面図 とを「対比」すれば、
その類似性は一目瞭然と思われる。
※下重の縁勾欄は今は失われているが、その勾欄痕跡は部材に残すと云う。
2010/02/11追加:
「建造物修復アーカイブス」より
阿波切幡寺竣工外部 阿波切幡寺竣工内部
◆切幡寺概要:
四国霊場第10番札所。
弘仁年中弘法大師が巡行の折、この山麓で幡を織る音を耳にした。大師は自身の衣服の破れを繕う布切れを所望した。幡織りの女は織りかけの布を惜しげもなく切り、差し出した。大師は「千手観音を刻んで衆生を救いたい」という女の願いを聞き、その場で観音像を刻んで女を得度させた。すると女はたちまち千手観音に即身成仏したとされる。
大師はこの地の山腹に堂塔を建立、得度山切幡寺と命名したのが始まりとされる。
暦応5年(1342)に阿州切幡寺塔婆(利生塔)落慶供養が行われたと伝える。(下掲載の阿波利生塔の項参照)
天正年間長曽我部元親の阿波侵攻で本堂を除く堂塔、24の坊舎が焼亡。その後再興され、観音山の中腹に南面して建つ。
明治6-12年摂津住吉神宮寺西塔を移建。
明治42年堂宇の殆どを焼失、高台の大塔は難を逃れる。
2008/03/16追加:「重要文化財切幡寺大塔保存修理工事報告書」 より
○阿波切幡寺遠望
天正年中の焼失後の切幡寺の様子は以下で知れる。
○「遍路日記」高野山證禅著、承応2年(1653)
「阿波切幡寺、本堂南向本尊三如来、仁王門鐘楼在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ」
○「四国巡礼霊場記」高野山寂本著、元禄2年(1689)
「・・・堂(本堂)の右に大日堂、次に鎮守、御影堂あり。・・・本堂の左の方に鐘楼あり。前の中門多門持国・・・大門の仁王・・・左の岨に龍王祠有、・・・・西の山の尾にむかしの寺の跡あり。ニ町四面。四至築垣あり、祖侘
(その他?)寺家の跡おほし。今の寺はむかしの塔の跡なり。暦応年中(1338-)参議従三位源朝臣直義公この寺の境内に塔婆を造立せらる。供養願文は今にあり。・・・」
四国巡礼霊場記・切幡寺図(「四国巡礼霊場記」所収):上記の本文の堂宇が描かれ、中門(今はない)の西には住坊と思しき堂宇もある。
また上記の本文より、現在の境内地は利生塔の跡であり、天正の焼失以前の寺地は「大堂・西堂(りじどう)・寺家」と云った字の地(現在の約3町ほど南の地)であったことが知れる。
参考:現切幡寺境内図 切幡寺周辺図
○「四国遍路名所圖會」寛政12年(1800)
四国遍路名所圖會・切幡寺:本堂・中門(今は退転)・仁王門などが現在とほぼ同一の配置で描かれる。
○明治6年-15年大塔移建
※大塔は移築以前は内外に極彩色が施されていたが、移築の際に磨拭し、素木造となる。
○明治42年本堂から出火、土蔵2棟・仁王門・大塔を除く20棟が焼失。
○大正12-14年本堂拝殿庫裏が再建される。
★阿波利生塔
阿波国の利生塔は安国寺(当寺近くに安国寺があり、その法脈が受け継がれていると思われる。)ではなくて切幡寺に置かれ、暦応5年(1342)に阿州切幡寺塔婆の落慶供養が行われた。
その建立は諸国で一番早く、供養は二番目であったという。導師は讃岐善通寺の宥範と伝える。
この利生塔の形式(五重塔か三重塔かなど)についての史料は伝わらない。
2002/2/1追加:「X」氏情報:
切幡寺の見解では、利生塔跡とされている場所に大塔が移建されると云う。(もっとも可能性のあることと思われる。)
2008/03/16追加:「重要文化財切幡寺大塔保存修理工事報告書」より
暦応2年(1339)細川和氏、秋月城(切幡寺東隣)の東に臨済宗補陀寺を建立、安国寺と利生塔の建立計画によって、和氏は補陀寺を安国寺にあて、利生塔は切幡寺に置く。
暦応5年切幡寺に利生塔設置、切幡寺では、明治初頭に利生塔の再建を図るため、摂津住吉神宮寺西塔を買い受け、境内北側の斜面を造成し、移建する。
「四国巡礼霊場記」高野山寂本著、元禄2年(1689)では
「・・・西の山の尾にむかしの寺の跡あり、ニ町四面。・・・・・・・今の寺はむかしの塔の跡なり。・・・・」とあり、この記事と、今の住吉神宮寺西塔の移建にあたり「境内北側の斜面を造成」ということとを合せて勘案すると、現在の本堂等の伽藍地が中世の利生塔の跡と推定される。
2006年以前作成:2010/10/22更新:ホームページ、日本の塔婆