越  前  劔  大  明  神

越前劔大明神・越前劔御子寺・(越前劔神社・織田神社)

劔御子寺(あるいは劔明神神宮寺)

2007/11/03「X」氏撮影画像および情報
劔御子寺(劔明神神宮寺)心礎

推定劔御子寺(劔明神神宮寺)心礎

劔御子寺塔心礎と推定される心礎が現存する。
 ○推定劔御子寺心礎:左図拡大図
この心礎は「織田町文化歴史館」の説明パネルでは
心礎は2段円孔式とする。1段目は心柱を受ける柱孔(径40cm)で、
2段目は舎利孔であろうとする。→下に掲載の「心礎概要図」を参照。
 ※但し、1段目の円孔については、「X」氏の観察でも、写真でも、「明瞭ではない」ようです。
1段目の円孔が磨耗、後世の破壊、あるいは火災などの損傷で不明瞭になったのでない限り、また径40cmとは心柱の径として小さすぎるとも思われる為、下図のような柱座を 持つ心礎と想定することは難しいとも思われる。
(逆に、柱座が平滑でないことは、後世の破壊・損傷があったとも思われる。)
 ※以上のように、2段円孔式でないとするならば、2段目の円孔は舎利孔ではなくて、枘孔であろう。また2段円孔式であったとしても、 蓋受孔などの加工がある、あるいはこの孔から舎利が取り出されたなどのことが無い以上 、この円孔を舎利孔と断定することは難しいであろう。(形状・大きさなどからは枘孔であろう。)

心礎の法量は不明であるが、1段目の孔が径40cmということを基準に判断すれば、2段目の孔は径凡そ20cmで、深さは凡そ10cm内外と推定される。 心礎の大きさは、差し渡し100cm 内外と推測され、小心礎であろう。高さは全く不明(情報なし)。
 ○推定劔御子寺礎石:推定心礎の近く にこの礎石はある。

心礎概要図:およその概要図

「織田町文化歴史館」の説明パネルはおよそ以上のような図であると思われる。また説明文には以下と述べられる。
2段円孔式心礎で、1段目は心柱(点線部分)の柱座(但し、現状ではこの円孔は不明確)、2段目は舎利孔との解説がある。
1段目の孔の径は40cmとする。

以上、推定心礎とされる石が残るが、これは由緒が不明、大きさが若干小さい、形状が不確実など心礎であるかどうかの疑問は多少あると思われる。しかし、心礎であるとすれば、常識的には、 神護景雲四年(770)には存在したことが確実である「劔御子寺」心礎の可能性が最も高いと思われる。
あるいは、この心礎の大きさや形式から見て、この心礎はもう少し時代の降ったものとも思われる。
さらに創建時の劔御子寺に塔があったかどうかは不明であり、その意味でも、もう少し時代が降った平安初期などに塔(三重塔)が創建されて、この時(織田寺)の塔の心礎の可能性もあると思われる。

越前劔大明神梵鐘(国宝)

越前劔大明神梵鐘(国宝)

光仁天皇奉納と伝える梵鐘が伝来する。(劔神社蔵)

銘は以下
 「劔御子寺鐘
  神護景雲四
  年九月十一日」・・・神護景雲四年は(770)年
 (「劔御子寺鐘神護景雲四年九月十一日」)

少なくとも、劔明神には「劔御子寺」と称する「神宮寺」が成立していたと推測される。
文献上、北陸道の初期神宮寺として、越前気比神宮寺は霊亀元年(715)、若狭若狭比古神願寺は養老年中(717-724) の成立とされ、これに匹敵するような最初期の神宮寺の存在が推測される。

 → 初期古代神宮寺

「新抄格勅符抄」:「天平神護元年(765)劔御子神■神封十戸」とある。

2009/04/19追加:
○劔大明神神宮寺心礎実測値:
 大きさは90×70×75cmで、径20cm(底は15cm)深さ10cmの円孔を穿つ、形は崩れるも径約40cmのごく浅い円穴がある。
  ※径40cmの円穴ははっきりとは分からない、あったとすると、表面はかなり破壊されていると思われる。
  ※表面がかなり荒れているのは、おそらく塔は火災焼失し、その時の損傷であろうと推測される。
○2009/04/07撮影画像
 越前劔大明神心礎1:写真左端 の中央に石階が写るが、この石階の左すぐに劔大明神推定礎石が置かれている。
   同        2       同        3       同        4
○劔大明神神宮寺礎石
 大きさは約80×70cm、径52cm(実測値)の柱座がある。但しこの柱座は平滑にした表面に浅い環状の溝を彫ったもので、通常見られるような凸状の柱座を造り出したものではない。またこの溝から外方向に5本の浅い排水溝を彫る。
 越前劔大明神礎石1       同        2:排水溝

越前劔大明神・織田寺の概要:丹生郡越前町織田(劔神社)

鎮座地織田町は、尾張織田氏発生の地と云う。織田氏祖は越前織田荘の荘官であり、越前二宮の神官であったと伝える。
応永年中(1394〜1427)、神官の子息「常昌」が越前守護斯波氏に取り立てられ、尾張に派遣され、織田氏を称する。
末裔・織田信長は当社を崇敬し、社領寄進・社殿造営などを行い、手厚く保護する。

参考文献:「劔神社古絵図について」国京克巳(「福井工業大学研究紀要」第31号、2001 所収)

概歴:
天平神護元年(765)劔御子寺の存在が確認できる。
弘仁9年(818)慈覚大師、多くの織田寺院を造立。
応保元年(1161)平清盛の焼討、平重盛の再建。
貞治5年(1366)足利高経、劔明神を攻撃、火を放つ。
宝徳元年(1449)大火焼失。
享徳2年(1453)(織田庄一帯が京都妙法院門跡領となる。)比叡山末織田寺と称する。
 盛時には織田寺36坊19院社家25があったと云う。
永禄2年(1559)「織田寺役者中掟」では福壽坊、福照坊、實鏡坊、常圓坊、圓蔵坊、圓宗坊、祐蔵坊、吉祥坊、金蔵坊、戒蔵坊、花養坊、正心坊、千手院、真泉院、延命院、玉蔵院、養躰院、惣持坊、行光坊、常楽坊、楽定坊、常厳坊がある。そのほか行泉坊、林泉坊、眞禪院、花蔵坊、密教坊などが他の文書に散見される。
天正2年(1574)一向一揆で焼失。
慶長3年(1598)太閤検地、寺社焼失。検地以前の寺社領は1489石余と云う。検地後は神社境内・山林・19の寺家屋敷となる。

劔大明神中世の様相;「劔神社古絵図」

「劔神社古絵図」

製作年代:室町期とされる。
(江戸初期の見解、桃山期に古図を複写したという見解もある。)
建物名が分かる一番古い史料に明応6年(1497)の「養躰院隆尊劔神社燈明料注文写」があるが、この史料にある建物名がこの「劔神社古図会」に見られるので、この絵図は明応6年以前の景観を表したものと推測される。

絵図は彩色、大きさ:62.5×96cm、軸装。
北に本社、気比社、末社、拝殿(神楽堂)、湯立所、聴屋殿などがある、中段には仁王門、護摩堂、本地堂、三重塔、講堂、鐘楼、能化所、地蔵堂、教蔵、普宿殿、御供所、維摩堂、灌頂堂、鎮守などの神宮寺、南には院家、坊舎(寺)、十王堂などが配置され、馬場東には神子、玄子、役者、神主、大工、寺家などが集まる。
 ※本社の東の社殿が気比社。

「社寺境内図資料集成 1巻」より
 ○劔神社古絵図:左図拡大図:堂塔の名称を再書入れ
 ○剱神社古絵図1:堂塔名称の再書入れはなし
 ○剱神社古絵図2:上記古絵図1と同一図  → 高精細図は下掲載:劔神社古絵図

○当図の三重塔にはその名称に記載が無いため、この時の三重塔の存在には多少の疑問がある。塔婆に関するはっきりした史料がなく、確認はできないが、古の塔を描いたかあるいは再興予定として塔を描いた可能性もあると思われる。

※堂宇名の黄色部の書入は別途補足したもので、画像が不鮮明のため、一部に誤りがある可能性はある。
※能化所、地蔵堂、鎮守などの特定は出来ず。
 

・「越前織田庄劔大明神古絵図写」年代不詳(冨田氏蔵)
 越前織田庄劔大明神古絵図写
多少史実と相違する描写が見られ、真実性に疑問があるとされる。
しかし景観としては三重塔や神宮寺の堂宇が揃い、また馬場通り東の描写も詳しく、中世の景観と思われる。

2009/04/19追加:
 劔大明神古絵図ならびに復原模型

劔神社古絵図(「織田 こころの里わざの里」所収):上に掲載の高精細図
  :左図拡大図

○劔大明神古絵図復元模型:織田町歴史資料館展示
劔神社古絵図復元模型1(織田町歴史資料館展示)
  同           2(同上)
  同           3(同上)
  同           4(同上)
  同           5(「織田 こころの里わざの里」所収)
 同  復元模型の配置図(同上)

近世初頭の様相:
「織田庄劔大明神寺家19院屋舗写」慶長3年(冨田氏蔵)

織田庄劔大明神寺家19院屋舗写1・・・・(寺家十九院屋鋪写・元図
慶長3年の太閤検地で寺社領は没収、千手院恵伝が淀の木村宗左衛門に懇願し、子院の19ヶ所の屋敷を除地にしてもらったときの絵図と思われる。子院名と敷地の間数を記入する。
※絵図は慶長3年「織田庄劔大明神寺家10院屋舗写」で、黄色の書入(補充)は「慶長3年劔大明神寺家屋敷帳」の記載を書入れ。
織田庄劔大明神寺家19院屋舗写2・・・・(寺家十九院屋鋪写・元図
※黄色の書入(補充)も慶長3年「織田庄劔大明神寺家10院屋舗写」のものを書入れ。
絵図は80×56cm、彩色。
当時、除地として認められた屋鋪の区画は19あった。
しかし、真禅院、千手院、寿泉院は2区画以上所有し、実際の坊舎の名跡は15ヶ寺であった。
 (養躰坊、壽泉坊、延命院、中蔵坊、玉養坊、多門坊、眞禪院、千手院、惣持坊、宝蔵坊、知寶院、常福坊、玉蔵坊、常言坊、新泉坊)
さらに、常福坊、玉蔵坊、常言(厳)坊、知宝院は荒地であり、また1の寿泉坊、2の新(真)泉坊などは名義貸しとも思われ、
さらにまた、延命院西、惣持坊東の区画や中蔵坊東、多門院西の元々の境内地の区画は坊舎屋敷跡とも推定され、慶長3年当時
坊舎は減少しつつあったものと推定される。

近世及び明治初頭の様相

江戸初頭には
真言宗東寺末織田寺(神前院)、養躰院、千手院、智寶院、不動院、延命院の6坊に減ずる。

・「越前国古今名跡考」文化13年(松平氏蔵)
劔神社と別当神前院附近を描いたもので、江戸後期の景観が分かる。
中世の盛観はなく、一地方のごくありふれた社の景観になる。
(この頃は金栄山織田寺、神前院、社僧養泰院に衰退する。またこれ等の寺院は明治の神仏分離で廃寺。)

・「明治8年地籍図
劔神社、旧護摩堂、旧神前院などの配置、地割が確認できる。

・「現在の地図」:四角の実線内が「劔神社古図会」 の描画範囲
(護摩堂は、御輿蔵として残存する。)
十王堂は規模を縮小して、古図の位置に今も現存、地蔵堂はもと位置からやや東に移動して現存する。

2010/07/05追加:
「越前国織田荘剱大明神誌」県社剱神社、大正3年 より
現在の西楽寺、禅興寺、本源寺、浄源寺は早くから独立したものである。和田仰明寺、武生浄秀寺、血ヶ平専楽寺、城ヶ谷海善寺は村外に移りたるものなり。明治3年別当神前院は廃院帰飾し神職となり神足氏を称す。
「延喜式内社剱神社と織田甕」杉本壽、織田町公民館、1980 より
延命院(675坪)、養体坊(348坪)は廃寺同然であるが、明治維新時に妻帯をしていなかったので、神官になる機会を失い、老衰病没によって、そのまま絶えていまったのであろう。
禅興寺は神宮寺南坊であった。宝徳元年(1445)曹洞宗に転ずる。
本源寺は天正19年(1582)法華宗に転ずる。蔵林坊跡に本堂を建立する。
西楽寺は智福院と称し、永正17年(1520)神宮寺の一寺である法楽寺を合併する。

現在の劔大明神

2009/04/19追加:
○2009/04/07撮影画像
 劔大明神本殿: 寛永4年再建
 劔大明神気比社(現織田神社): 室町期、但し後世の改変が多いとされる。
 劔大明神護摩堂1:神前院護摩堂遺構、延宝3年(1675)建立、明治の神仏分離で本尊不動明王は譲渡、明治6年進明小学校校舎になり、その後、社務所、役場として使用、現在は神輿庫となる。
   同       2      同       3
 劔大明神十王堂:十王寺位置付近に小宇(十王堂)として辛うじて残る。
 劔大明神地蔵堂:地蔵堂の元位置は不明であるが、やや位置を動いて小宇が残る。
 劔大明神延命院1:真言宗延明院の堂宇が残る、但し小宇一宇か民家風の坊舎一宇も残るとも思われる。
   ※写真中央左奥に見える大屋根は近年の参集殿であるが、諸絵図などからこの参集殿のある場所が近世神前院の跡であろう。
   同       2:一の鳥居跡付近にこの石碑(年記不明)がある。養躰院の存在は未確認であるが、殆ど唯一残る坊舎であろう。

  劔明神本地不動明王立像:養躰院蔵、劔明神本地であったが明治の神仏分離で養躰院に遷座する。 真言宗養躰院蔵とあり、養躰院堂宇が現存すると思われるも未調査。

什宝として以下を有する。
 越前劔大明神梵鐘(国宝・上に掲載)
 釈迦八相涅槃図(重文・鎌倉 中期・紙本着色):(「織田 こころの里わざの里」所収)、
 不動尊二大童子図(鎌倉)、真言密教十二天尊像図(室町)
 不動明王三尊像(南北朝期、織田寺本尊画と云う、不動明王は劔明神の本地) :(「織田 こころの里わざの里」所収)
  などを有する。


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