紀 伊 広 八 幡 宮  ・ 紀 伊 法 蔵 寺 ・ 和 泉 箱 作 ・安 芸 三 瀧 寺 多 宝 塔

紀伊廣八幡宮・紀伊法蔵寺・和泉箱作・安芸三瀧寺多宝塔

紀伊廣八幡宮多宝塔

紀伊國名所圖會・巻之4:八幡宮(廣八幡宮)<江戸末期>

紀伊広八幡宮:左図拡大図

記事:「・・欽明天皇の御宇の創建・・もとは前田村に鎮座せるを、応永の頃・・梅本覚言が・・この地に移し・・・あるいは衣奈の八幡宮を勧請せりともいう。。応永20年の造営の棟札あり、その他明応2年・永正13年・天文10年・同12年・永禄・元亀・文禄等の棟札あり。・・・天文の頃より湯浅氏この地を領して、初めて別当寺を置き・・・
天正13年豊臣氏南伐の時、兵火の罹りて、みな灰燼し・・慶長6年浅野氏社領10石を寄せらる・・・」

多宝塔、鐘楼、宝蔵、楼門、観音堂、僧堂などの仏堂、明王院、 薬師院の坊舎があった。

社僧明王院・薬師院は京都勧修寺末、明王院は現存し、優れた古仏を残す。

2003/8/13追加
乾坤古絵図:安永7年(1778):(広八幡宮様ご提供

 ■乾坤古絵図(左図拡大図)

多宝塔・鐘楼・観音堂の位置関係は上の「紀伊国名所圖會」と比べて正確と思われる。
特に多宝塔位置および多宝塔のある檀の石垣・石階については現存の遺跡と符合する。
その意味で「紀伊国名所圖會」の多宝塔位置はやや正確を欠くと思われる。

なお楼門北側の門は西門で、安楽寺(広)に現存すると云う。

2003/8/13追加
広八幡宮多宝塔跡

「日本の塔総観」では、広八幡宮多宝塔は大永6年(1526)の建立で、江戸期に津波によって倒壊、天保6年(1835)の再建とする。
明治維新まで八幡宮にあるも、明治の神仏分離で売却、昭和26年安芸三瀧寺に移建されたと云う。
あるいは次項の資料によると
多宝塔は元々は湯浅別所勝楽寺で創建され、元禄年中( 1688− )に広八幡に移建され、(その後津波で倒壊し、天保6年に再興)
明治の神仏分離で法蔵寺に移建再興されたと云う。

広八幡宮多宝塔跡

広八幡宮多宝塔跡1
広八幡宮多宝塔跡2(左図拡大)

楼門門前の南北道路から一段上に平坦地を造りここに楼門・拝殿・観音堂(失)・鐘楼(失)を構える。北側に中段の平坦地を造り、多宝塔(失)を造立する。更に拝殿の後方に上段の平坦地を造り、本殿などを祀る。

写真に見える利石垣・石段は中段平坦地の多宝塔跡を構成するもので、おそらく往時のまま残存していると思われる。

   

広八幡宮多宝塔土壇

多宝塔に至る石段上に塔土壇が残る。

広八幡宮多宝塔土壇1(左図拡大)
土壇のみ残る。土壇上の建物は仮宮あるいは頓宮に類するものと云う。
広八幡宮多宝塔土壇2
写真右の石段は仮宮・頓宮のためのもので明治維新後のものと云う。写真には写っていないが土壇右の石段も同様と云う。
広八幡宮多宝塔跡碑
近年石碑が建てられた模様。仮宮・頓宮を建てるとき土壇も壊す話もあったが、多宝塔土壇は保存されると云う。

2003/8/13追加
広八幡宮明王院多宝塔再建勧化帳(広八幡神社様ご提供)

広八幡宮明王院多宝塔再建勧化帳:左図拡大

広八幡宮様ご提供 :文政9年(1826)
 (版木は現在所在不明と云う。)

写真撮影時の不手際(低解像度の画質で撮影)で、内容は判然としない。
 (機会があれば、再度入手を希望)
 


紀伊法蔵寺に在りし多宝塔

神仏分離に於ける処置

広八幡宮多宝塔は、明治の神仏分離で、紀伊法蔵寺に移転再興される。
法蔵寺には下記資料から、明治初頭から少なくとも大正中期まではその姿を留めていたと思われる。

広川町商工会」の サイト→「歴史」→「法蔵寺」→「詳細情報」がある。(この「詳細情報」は法蔵寺ご住職ご執筆)

以下は「池霊山 法蔵寺」のページの要約の掲載である。
 (2003/7/22:広川町商工会様、要約および転載の許諾。2003/8/11:法蔵寺住職には直接許諾を得る。)

永享八年(1436)明秀上人(1403・生〜1487・没)が開基。室町時代には浄土宗西山派の紀州南本山として栄え、本末解体までは25カ所の末寺を有する。往時の境内は5000坪を領する。
現伽藍は山門、鐘楼、釈迦堂、大本堂、納骨堂、右に書院、庫裏などの堂宇から成る。

鐘楼:国指定重要文化財(昭和38−39年に解体修理。)・・・履歴は以下を参照
建立年代は、詳らかではないが、様式手法からみて室町時代の中期を降らないものと推定される。

鐘楼棟札には以下の記載がある。
(表)

 維持明治五壬申十一月中浣上棟

奉鐘楼再建大工棟梁広村伊賀武兵衛

 當山二十六代 頓空圓龍上人代

世話人 柏角兵衛 池永平十郎 梅本伴助 辻源兵衛 白井仁兵衛
 
(裏)

仰當山鐘桜堂者 人皇四十代天武天皇御宇白鳳七年戌寅歳十一月二十二日 別所村勝楽寺住職真悦法印上棟建立ヨリ一千拾七年ノ後 元禄八乙亥歳 広之荘八幡社ニ買請再建ス 然シ其後一百七拾八年ヲ経過シ明治五壬申歳三月下浣御一新二付


右堂宇取拂之當池霊山ニ買請再建候也

鐘楼は、元々湯浅町別所勝楽寺に建立せられていたが、湯浅党衰退とともに、金堂は京都醍醐寺へ、観音堂・多宝塔・鐘桜堂は広八幡社に諸堂宇解体移転される。鐘楼の広八幡社への移転は元禄8年(1695)である。

明治の神仏分離により、広八幡社よりこれら三堂宇が法蔵寺に移転、多宝塔・鐘楼堂は再建されるが、観音堂は再建に至らず。
その後、多宝塔は本堂再建のため、移転を余儀なくされ解体、安芸三滝寺に移築再興され現存する。
(多宝塔は南広小学校百年史の大正中頃までの卒業写真に映る。):(吉水志朗住職執筆)
  → 山城下醍醐寺

2003/8/13追加
南広小学校百年史「みなみひろ」に見る多宝塔

※南広小学校は法蔵寺南に接してあり、卒業生の集合写真は法蔵寺をバックに撮影されるのが恒例であった。

位置関係であるが、法蔵寺概要図のように、南広小学校校庭に接して、北に法蔵寺があ る。
以下に掲載の「卒業集合写真」は、校庭の北に集合し、法蔵寺を背に南を向いて整列し、南から北向きに撮影したものである。
 (但し法蔵寺概要図はあくまで位置関係を示すもので大きさ・距離などが必ずしも正確なものではない。
 また 多宝塔の推定位置も法蔵寺の説明に基づくが、私の推定によるおおよそのものである。)

明治43年卒業生

南ではなくて南西方向から撮影と思われる

明治44年卒業生

多宝塔の向かって右の屋根は釈迦堂か?

 

大正元年卒業生

 

大正2年卒業生

 

大正4年卒業生

向かって右が多宝塔

 

大正6年卒業生

右が多宝塔、正面屋根の堂は不詳

ご覧のように明治43年から大正6年までの卒業写真に法蔵寺多宝塔が写る。
以上の間の年次の内、多宝塔が写っていない年度があるが、その年次は多宝塔が写る場所あるいはアングルでの撮影では無かった為である。
しかし大正7年以降には多宝塔が写っている卒業写真は存在しない。
以上から、神仏分離後、少なくとも大正6年までは法蔵寺に多宝塔があったことは間違いないと断言できる。

 以上の写真はアルバム「みなみひろ」(法蔵寺蔵)を直接に写真撮影したものである。その関係で写真は多少歪んで写る。
  ※個人の顔写真は出さない処置(顔部分をぼかすあるいは人物の部分を消すなどの方法)を施すことを検討するも、
  そうした場合、かえって不自然あるいは異様とも思われ、また相当に時間が経過した古写真ということもあり、修正を加えず掲載をする。

2003/8/13追加
法蔵寺推定多宝塔位置

推定多宝塔跡1

左は釈迦堂、右は本堂
多宝塔は中央渡廊下あたりにあったとされる。
北から南方向を撮影

推定多宝塔跡2

左は釈迦堂、右奥は本堂
多宝塔は本堂左手の少し前あたりにあったとされる。
東やや北から西やや南方向を撮影

※多宝塔の法蔵寺からの流出は売却と思われるが、はっきりした年次および流出先は不明と云う。(法蔵寺様談)


2007/05/05追加:
箱作の多宝塔

「和泉路の塔に就いて」池田谷久吉、昭和8年(「上方 第29号」昭和9年所収) に以下の記事がある。(全文)
 下荘村多宝塔 泉南郡下荘村某家邸内
箱作の線で下車して田山稲荷への途中東方山の中の森の茂みから相輪がチラと見えるのがそれである。紀州湯浅在の寺から明治になってから移転されたものである。六七年前に遠方から見たきりで一度ゆっくりと見たいみたいと思ってゐる間に今日まで見ることが出来なかった時によると三重塔であるかも知れなかった。尤も内部の様子やゆっくりと見たことが無いので今日説明も充分書けなかった事を残念に思ふ。
(昭和8年4月10日 桑名船津屋旅館にて)
 ※紀州湯浅在の寺とは法蔵寺、三重塔とは多宝塔と思われる。

以上によると、大正末期・昭和初頭には箱作の某家邸にあったことが知られる。
しかし、その後、昭和26年安芸三瀧寺に移建されるまでの様子は呆として知れず。

2009/09/18追加:
箱作の多宝塔跡地:紀伊池霊山法蔵寺ご住職情報(以下)
 ご住職は法蔵寺檀家の「箱作に縁のあるお方」(箱作米原茂夫氏)と同行し、「箱作の多宝塔跡地」を訪ねる。
位置は「箱作小学校の南の丘陵地の池の畔であった」「この池のそばのどこかに存在した」と「箱作に縁のあるお方」は記憶している模様。
田山稲荷より東4、500mの所にこの池は位置するので確かであろう。(上述の「上方 第29号」の記録と符合するであろう。)
現状は「枝が覆い茂って、そばを車で走ると池とは気づきかない」「雑木山の状態でとても立ち入りはできない」。

◎箱作小学校の南の池は「鴻谷池」と称すると思われる。
 

鴻谷池付近図


国土地理院地図・箱作:1/25000:箱作付近の図:現南海箱作駅の西南西に田山稲荷がある。 駅から田山稲荷に行く途中に箱作小学校があり、その南に鴻谷池がある。

鴻谷池付近航空写真1:箱作小南に鴻谷池があり、この池は田山稲荷の東南東方向にある。

鴻谷池付近航空写真2:左図拡大図
鴻谷池畔に多宝塔があったと云い、田山稲荷の前の稲荷に至る東西の直線的な路から振り返り、多宝塔を見たとすると、まさに多宝塔は「田山稲荷への途中東方山の中の森の茂みから相輪がチラと見える」という状況であろう。
左図の鴻谷池の東やや北は丘状の地形であり、この地形のピークに多宝塔が建っていた可能性が高いと思われる。(推定)
なお現在「某家邸」の名称や現存の有無などは一切不明。

※なお、上掲の土地理院地図・箱作:1/25000:中の 妙見山青龍院(箱作小学校の東北)とは堺妙国寺旧寺中青龍院と思われる。
堺妙国寺は明治維新後、恵照、栴明、青龍、舜如の4坊に減じ、明治20年舜如院は神戸山本6丁目、明治38年青龍院は泉南郡下荘村箱作に移転すると云い、この青龍院であろう。
 参考:堺妙国寺に青龍院の写真を掲載

2009/12/13訪問
箱作多宝塔跡

箱作多宝塔概要図:



2009/12/13箱作の多宝塔跡地を訪問。
跡地には地元の人(箱作米原茂夫氏)に案内を乞う。
 案内人は地元箱作の人で昭和4年生まれ、昭和26年(1951)頃に多宝塔を解体した時には人足として作業をしたと云う経歴を持つ。
<案内人の談および現地の様子はおよそ以下の通り>
先日(訪問日2009/12/13の数日前)多宝塔の建立場所には数十年振りに足を入れ、事前に下見をするという。
現地は、池の北側の土手の上にあった塔に至る小路もはぼ消え、多宝塔の建っていたと思われる場所も確かに多少の平坦地が認められるが、何の痕跡も無く、60年近くの歳月の流れに驚いた。
塔跡と記憶している場所には何の痕跡も無いので断定はできないが、池の土手とその土手上の小路の痕跡と小路横にあったという記憶とで、ほぼ塔のあった場所は特定は可能である。また塔が建てられるだけの広さの平面を持つ平坦地は一箇所しか認められないので、おそらく「唯一認められる平坦地」が塔跡で間違いないであろう。
解体の時の記憶では塔跡には礎石と多少の土壇があったと思う。つまり石積のような基壇はなかったという記憶がある。跡地と思われる所に何も無いということは礎石も運び出したのであろうか。あるいは多少掘れば、礎石が出るのだろうか。
(※多少探すも礎石の残存は無いと思われる。)
 箱作鴻谷池:排水堰・取水口付近から東を撮影、多宝塔は写真左手にあったとされる。
 箱作鴻谷池築堤:排水堰・取水口付近から東を撮影、池の土手(築堤)が写る、写真中央やや下が土手で、その中央が塔に至る小路の跡。
           多宝塔はこの写真の中央付近に見えたと思われる。
 推定多宝塔跡1     推定多宝塔跡2:塔があったと推定される平坦地
 推定多宝塔跡3:写真中央に石が見えるが、小さい破片であり、塔には関係しないと思われる。石質はこの地方の特産の和泉砂岩。

現地には男爵家の別邸(別荘)があり、多宝塔は別邸の所有であった。その男爵の名前は今全く失念して思い出すことができない。戦後男爵家は別邸を売払い、そのとき同時に多宝塔も売却した。
解体の時広島から大工が来ていた。大工は確か写真を撮っていたので、三滝寺などには写真が残っているのではないだろうか。ちなみにこの地に多宝塔を移建した大工は地元箱作の大工で20〜30年前に他界した。

男爵の別邸は池の西北側の一画を占め、池の排水口の西は周囲を見下ろす比較的高い丘であった。その丘上には茶室や庭園・石組などがあった。つまり茶室・庭園などの東には池があり、その池の北側は池を堰き止める土手(小築堤)であった。
茶室・庭園位置から池の取水口(排水口)に少し下り(下る石段は今も残る)、取水口から池の北側の土手に上がれば、土手の上には小路があり、小路は多宝塔位置まで続いていた。多宝塔は小路の北側(つまり東に小路を進んで左手)やや上に建っていた。小路は多宝塔前を過ぎてすぐに消滅した。(多宝塔に行くためだけの小路であったのであろうと推定される。)
以上の立地から、丘上の茶室・庭園から東を望めば、池の畔に多宝塔が真近に建っているのが望まれたものと推測される。おそらく茶室・庭園からの「背景」として絶好であったであろう。
なおこの多宝塔のある場所は、上述の昭和8年・池田谷久吉「和泉路の塔に就いて」の「田山稲荷への途中東方山の中の森の茂みから相輪がチラと見える」という記述にも合致するであろう。
 男爵別邸西側造成面:茶室などのあった丘の麓に残る別邸造成面(案内人ご教示)
 男爵別邸丘上造成面:茶室などのあった丘の最上部に残る煉瓦積造成面(案内人ご教示)
 男爵別邸丘上石積:茶室があった造成地の石組みであろうか。石組み手前は丘上から池の築堤へと降る小路の石段
 男爵別邸丘上石段:丘上から池の築堤へと降る小路の石段で、距離は短いが良好に残る数少ない遺構
 鴻谷池取水口・築堤東端:丘上から東に下ったところにある取水口で、ここから西へ築堤(土手)がある
 鴻谷池築堤東端:写真中央が築堤で、さらにその中央が塔に至る小路、多宝塔はこの写真の中央付近に見えたと思われる
 新興宗教地区内石組:未だ造成中か、石組は近年のものと思われるも、使用している石は男爵別邸のものとも思われる
 福徳地蔵尊:延命地蔵:新興宗教地区内に残る、この地蔵尊は昔からあると云う。古い石材は和泉砂岩。

※男爵邸に関わる建物は今は全く何も残らない。戦後に売却され、全部解体されると云う。跡地は近年、仏教系と思われる新興宗教の所有と思われ、RC造(?)の観音(?)巨像や建築として価値が有るとは到底思われない小祠などが点在し、ある部分では未だに工事中とも思われる更地のままである。
※案内人のご好意で、多宝塔を実見したと思われる方の3家を訪問するも、残念ならが聞き取りは出来ず。
1家は男爵邸跡を管理していたお宅であり、元男爵邸跡の一画にお住まいであったが、引越しされたと思われ、住居は新興宗教の建物になっていると思われる。
別の1家は男爵邸下にあるお家であり、ご本人は在宅であるが、家人の談によれば、老齢で相当弱っていて、今は何も分からなく、お話などできる状態ではないとのことであった。
最後の1家は男爵邸の隣接地にお住まいであるが、この時は全員ご不在であった。
※塔跡には池北東に急カーブする「近年の道路」の「土砂崩落箇所」付近から接近可能である。冬場で、軍手・釜などの所持が望ましい。
※泉南市図書館では箱作多宝塔に関する資料の所蔵は無いとの回答あり。阪南市図書館の郷土資料(開架)には箱作多宝塔に関する資料の蔵書は見当たらず。
 


安芸三瀧寺多宝塔

  明治の神仏分離で広八幡宮から、法蔵寺に移建され、少なくとも大正中期までは法蔵寺にあった。
大正中期頃、法蔵寺から箱作の某氏に売却され、大正末期・昭和初頭には箱作の某氏邸にあり、昭和8年の直近の時期に箱作から、どこかに移建される。(どこに移建されたかは不明)
昭和26年三瀧寺に移建される。
 多宝塔は広八幡宮において、天保6年(1835)の再建とされる。
但し、心柱に「大永6年(1526)法界衆生のため、これを建立」とあると云う。
津波により倒壊し、天保6年の再建時心柱は旧材として使用されたものとも推測される。

○「日本塔総鑑」:神仏分離で泉南箱作の富豪の手に帰す。戦後町の所有になり、更に昭和26年岩田氏により三滝寺に移建。

基本的に和様の塔であるが、移建の時の改造がかなりあるとされる。
中央間に梵字(四天王の梵字)を彫った蟇股を置くがこれも移転時の改造という。
内部には阿弥陀如来(重文・藤原)を安置するという。
一辺4.38m。高さ15.7m。

安芸三瀧寺多宝塔1(左図拡大)
 同         2
 同         3

「日本の塔総観」では、「泉南箱作の富豪の手に渡り、戦後町(どこの町なのか不明確)の所有になり、昭和26年岩田氏(不明)の手により三瀧寺に移築された 」との記載がある。
また広八幡宮様談では、「三瀧寺への移転については、政財界で高名な方(はっきりしないので匿名)の母堂もしくは祖母が関係していた」とも云う。

近年広島県重要文化財に指定。

※安芸三滝寺に移建建立したのは「岩田幸雄」と判明する。


2009/05/23撮影:
 安芸三瀧寺多宝塔11      同        12      同        13      同        14      同        15
   同        16      同        17      同        18      同        19      同        20
   同        21(正面中央間):正面は南面        同        22(正面右脇間)      同        23(正面左脇間)
   同        24(西面)        同        25(北面)
   同        26(東面中央間)     同        27(東面右脇間)       同        28(東面左脇間)
   同    多宝塔扉      同    多宝塔窓      同       相輪

 安芸三瀧寺多宝塔立面図:リーフレット「安藝之國三瀧観音参詣案内図」より

・木造阿弥陀如来坐像(重文)を安置
仁平4年(1154)の墨書銘があり、河内錦郡日野村村民が河内観心寺に寄進した像で、経緯不明ながら、多宝塔移建の後、遷座すると云う。

・三滝寺は原爆で被災したが、現在は熱心な信者により立派に復興する。
境内には寺名の由来と思われる三瀧がある。
 安芸三瀧寺一の瀧     安芸三瀧寺三の瀧:ニの瀧は見過し (未見)。

2023/06/18撮影:
●安芸三滝寺多宝塔
安芸三滝寺多宝塔31
安芸三滝寺多宝塔32
安芸三滝寺多宝塔33:左図拡大図
安芸三滝寺多宝塔34
安芸三滝寺多宝塔35
安芸三滝寺多宝塔36

 安芸三滝寺多宝塔37     安芸三滝寺多宝塔38     安芸三滝寺多宝塔39     安芸三滝寺多宝塔40
 安芸三滝寺多宝塔41     安芸三滝寺多宝塔42     安芸三滝寺多宝塔43     安芸三滝寺多宝塔44
 安芸三滝寺多宝塔45     安芸三滝寺多宝塔46     安芸三滝寺多宝塔47     安芸三滝寺多宝塔48
 安芸三滝寺多宝塔49     安芸三滝寺多宝塔50     安芸三滝寺多宝塔51     安芸三滝寺多宝塔52
 安芸三滝寺多宝塔53     安芸三滝寺多宝塔54     安芸三滝寺多宝塔55     安芸三滝寺多宝塔56
 安芸三滝寺多宝塔57     安芸三滝寺多宝塔58     安芸三滝寺多宝塔59     安芸三滝寺多宝塔60
 安芸三滝寺多宝塔61     安芸三滝寺多宝塔相輪
●その他の堂宇
 安芸三滝寺想親観音堂     安芸三滝寺鐘楼     安芸三滝寺龍神堂     安芸三滝寺本坊1     安芸三滝寺本坊2
 安芸三滝寺本堂安置仁王像1     安芸三滝寺本堂安置仁王像2     安芸三滝寺補陀落の庭
  そのほか、写真はないが、客殿、六角堂、稲荷社、三鬼権現堂、本堂、鎮守堂などの堂宇が境内に散在する。

●三滝寺の多宝塔
 多宝塔を三瀧寺に移築したのは「岩田幸雄」という。
寺僧(住職ではない)に、紀州広八幡や法蔵寺、泉州箱作を訪ねたことを話した上で、移築した人物の名を尋ねると、暫く言い澱んだが、「岩田幸雄」との回答を得る。
岩田幸雄については、戦前・前後の裏社会の人物であるが、その実像は良く分からない。
◇多宝塔の敷地に「多宝塔建立趣意の碑」があるという。<未見>
そして、その大意は次のようである云う。
 「観音を信じ礼拝供養怠ることがなかった岩田タヅ(岩田氏母)が原爆の悲惨無道義を痛憤慟哭し宝塔の建立を発意し、戦地より帰国した岩田幸男(兄弟)の佛心に薫移し、浄財を喜捨し聖業遂行に当った。
依って昭和26年5月吉日落慶法会を厳修す。
昭和33年5月吉日落成7周年大法要に当り建之。」
◇「原爆慰霊碑を正す会」の「X」では、次の文言が掲載されている。
「昭和26年、弊会の世話人代表だった岩田幸雄は原爆犠牲者供養のために三瀧寺に多宝塔を移設建立。」
◇その他断片的な情報を以下に記す。
岩田幸雄はフィクサー児玉誉志夫の児玉機関の四天王と云われる。
広島県モーターボート競走会の会長であった。
 ※児玉誉志夫は国粋主義者、帝国海軍の物資調達を担う、戦後膨大な軍事物資を資金化し、鳩山一郎・岸信介などに政治資金を提供、「政財界の黒幕」と云われる。


2003/8/13追加
法蔵寺鐘楼(元・広八幡宮鐘楼)

広八幡宮より明治維新の神仏分離で移建されたとされる。

法蔵寺鐘楼1
法蔵寺鐘楼2(左図拡大)
法蔵寺鐘楼3
法蔵寺鐘楼4

袴腰を付け、屋根は寄席棟造のユニークな形式を採る。
重文。由来については前述。建立年代は不明、形式・技法より室町中期を降らないものとされる。唐様を基軸とする。

2003/8/13追加
広八幡宮概要

参考文献:
「重要文化財広八幡神社本殿拝殿摂社若宮社本殿摂社高良社本殿摂社天神社本殿修理工事報告書」1980
「重要文化財広八幡神社楼門修理工事報告書」1981

広八幡宮は大きな円墳のような小山の麓に西面して鎮座する。
社伝では河内誉田八幡宮を勧請したというが、創建については不明な点が多いとされる。
・山城石清水八幡宮田中家文書:延久4年(1072)の「太政官牒」には山城・河内・和泉・美濃・丹波・紀伊各国で八幡宮荘園が挙げられる。
紀伊国では那賀郡野上荘(紀伊野上八幡宮)以下7箇所がある。しかし、「広」は挙げられていない。
 (つまり11世紀には広八幡宮は勧請されていなかったと考えられる。)
・広八幡宮の初出記録:由良「蓮専寺記録」に「正嘉2年(1258)広八幡宮焼失・・・」とある。(ただしこの記録は江戸期の筆録である。)
以上の記録によれば、鎌倉期には少なくとも広八幡宮は成立していたと考えられる。
また
明治維新まで、八幡宮別当は真言宗仙光寺であった。
 ※仙光寺に関する情報は皆無、廣八幡も探索中であるが、詳細は全く分からないという。
仙光寺には明王院、薬師院、不動院、千手院、弁財天院、花王院の六坊があったが、天正13年(1585)秀吉の紀州征伐で灰燼に帰したという。
近世には明王院・薬師院が広八幡宮を管理したが、明王院に伝えられる仏像は藤原・鎌倉期のものとされ(次項の「■参考」を参照)、この仏像が仙光寺伝来のものならば、仙光寺は平安後期には成立していたものと考えられる。
(藤原期の仏像が仙光寺伝来のものか別の場所から遷座したものか、あるいは仙光寺は当初から広八幡宮別当として建立されたかは全く不明)
もし、仙光寺が当初から広八幡宮別当として建立され、しかも藤原期仏像が仙光寺仏像として顕造されたのであれば、広八幡の創建は藤原期に遡ることになるが、不明。

■参考

現在は明王院のみ現存する。明王院はかっては勧修寺末というも、現在和宗(四天王寺)に属す。
木造薬師如来坐像(薬師院本尊か?・藤原)、木造阿弥陀如来坐像(藤原)、木造大日如来坐像(鎌倉)、持国天立像(鎌倉)、多聞天立像(鎌倉)が伝来する。( 木造薬師如来坐像及び木造阿弥陀如来坐像は重文、現在は摂津四天王寺蔵)
これ等の仏像が仙光寺伝来のものとすれば、仙光寺の創建は藤原あるいは鎌倉を降るものではないとされる。

明王院庫裏  明王院堂宇(護摩堂と思われる)

法華経石塔1  法華経石塔2
  法華経全部一字一石塔の銘。多宝塔跡向かって右(南)に現存する。神仏分離で取払いを免れたものと思われる。

五輪塔類
  多宝塔土壇の左(北)に集められる。付近から出土したものを集めたもののようで、現在は祭祀される。

■楼 門(重文)
 広八幡宮楼門
 入母屋造・本瓦葺。3間重層の楼門で西面する。建築上興味ある建築のようであるが、その点は煩雑になるので省略。
 様式上鎌倉末期とされる。あるいは元禄期の大修理の墨書に文明7年(1475)再興とあり、文明7年再興の可能性もあるとされる。
 いずれにしても、元禄年中に大改造を受ける。

■本殿・若宮・高良社・天神社
 境内下段に舞殿(入母屋造・妻入)の奥の一段高い場所に拝殿(方3間。入母屋造檜皮葺・宝永元年・重文)があり
 さらに奥に境内上段があり、平唐門と瑞垣に囲まれ、本殿・若宮・高良社・天神社が鎮座する。

以下写真は瑞垣内での撮影(広八幡宮様のご配慮による)

手前(南)から若宮・本殿・高良社・天神社

 

手前(北)から天神社(部分)・高良社・本殿・若宮


 

広八幡宮本殿(重文) :左図拡大図

三間社流造・檜皮葺。応永20年(1413)頃の建立とされる。
棟札現存。
三間社ながら相当な規模の建築である。


 

広八幡宮若宮(重文):左図拡大図

一間社春日造・檜皮葺。明応2年(1493)建立/棟札。
高良社と同規模同形式とする。


 

広八幡宮高良社(重文) :左図拡大図

一間社春日造・檜皮葺。文亀2年(1502)建立/棟札。
若宮と同規模同形式とする。


 

広八幡宮天神社(重文):左図拡大図

一間社春日造・檜皮葺。山本にあった天神社を移建したものという。慶安5年(1652)建立/墨書。
一間社春日造ながら、若宮・高良社より数段大きく流麗でかつ迫力がある。


■本殿・天神社蟇股

本殿向拝中央蟇股(候補)  本殿向拝南蟇股  本殿中央北蟇股

以下:広八幡宮様ご提供
若宮社向拝蟇股  高良社向拝蟇股
本殿身舎蟇股(上から南蟇股、中央蟇股、北蟇股)
天神社蟇股(上から向拝正面、向拝裏、身舎正面、身舎南面、身舎北面、身舎背面蟇股)

また大般若経600巻が広八幡宮に現存すると云う。


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