★「中国名所図会」巻之1に見る讃岐象頭山金毘羅大権現
象頭山金毘羅大権現全図:下図拡大図
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大別当金光院
近世では、金光院が象頭山金毘羅大権現の別当であった。
記事:「多宝塔(御成門の上に一重たる巌・古木繁りてあり、その頂にあり。方3間にして二重造り。九輪まで高さ13間5尺余といふなり)本尊は金剛界大日如来。国守讃岐守様御建立となり。」
その他金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があった。古義真言。御室直末。
その他山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院があった。
多宝塔部分図:左図多宝塔部分図
※総高13間5尺が正しいとすれば、約25.2mで超大型塔と思われる。 |
★「金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院
象頭山全図:下図拡大図 |
記事:
「宝塔(石段をすこしのぼり右の方にあり。五智如来を安置す)」
多宝塔部分図:右図多宝塔部分図
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★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮
金刀毘羅宮金堂
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多宝塔・万燈堂・金堂・ニ天門の図
ただし、この絵は完成した絵ではなく、下絵段階の絵である。
多宝塔部分図:左図多宝塔部分図 |
★その他絵図
○象頭山金毘羅神社繪圖の中央部分図
「象頭山金毘羅神社繪圖」(
中央部分図):「象頭山金毘羅神社繪圖」は宝暦5年(1755)年紀
2013/08/09追加:
○象頭山眺望之圖
「四国遍路道中雑誌」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」1975 所収) より転載。
※本図の成立については、「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」(INAX出版、2010)にある断片的な記述を総合すれば、次のような「経緯」が推察される。
即ち、武四郎は三冊からなる「四国遍路道中雑誌」を弘化元年(1844)に書上げた模様で、彼は天保7年(1836)、19歳の頃に四国を巡ったものと推察される。
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○象頭山眺望之圖:左図拡大図
記事:・・・嶮しき坂を少し上り右の方「地蔵堂」并て「普門院」道より左の方に「鼓楼」傍らに「下馬石」有、・・・「仁王門」入りて左の方・・石燈籠並び建てり。右の方「慈光院」「萬福院」「神護院」過て、「石鳥居」入て右の方別當所有「金光院」・・・「神廏」并て「茶所」向て「多寳塔」石段を越えて正面「金堂」本尊十一面観音。・・・「手洗池」右へ上に上れば「二天門」此の門を逆木の門とも云るよし。・・・御手洗川渡りて向「本地堂」石階少し上「役行者堂」「大行■(古の下に又の字)堂」「毘沙門摩利支天堂」等有。金鳥居を潜り向て「象頭山金毘羅大権現」・・・松尾寺と称し333石。・・・・・并て「三十番神社」下の少し脇に「経蔵」下の方に「金剛坊観音」并て「絵馬殿」并て「弥陀堂」又并て「孔雀明王堂」并て「籠堂」・・・石階230級を下りて「大黒天堂」等なり。其余坊舎堂塔多しと云へども其大概を記す。・・・ |
○象頭山金毘羅全圖の中央上の部分図
「象頭山金毘羅全圖」(
中央上の部分図):江戸末期
2006/01/29追加:
○丸亀ヨリ金毘羅山讃岐廻並播磨名所附:幕末頃
○「丸亀ヨリ金毘羅山・・・」(全図)
象頭山金毘羅の部分
「地図で読む江戸時代」 より転載 ★金毘羅大権現略歴
現在は祭神を大物主命とするが、これは近世の平田教学の捏造にすぎない。
即ち、
もともと、象頭山に真言宗松尾寺があり、松尾寺の守護神(鎮守)の一つとして金毘羅神が祀られていた。
この金毘羅神は近世に流行神となり、金毘羅大権現として大いに繁栄したというのが歴史的事実である。
2008/06/02追加:
○「別冊太陽 日本の神 68」平凡社、平成2年 より
松尾寺金毘羅大権現像
松尾寺金毘羅大権現像:転載
金毘羅・金毘羅神とは本来はインドの土着神で仏教とともに伝来し、仏法の守護神の仏として祀られる。
讃岐松尾寺の金毘羅も本来はこうした単なる仏教の守護神として祀られたものと思われるが、江戸期には流行仏として多くの信仰を集め、ついには金毘羅大権現と称し全国に勧進される。
以上のように、金毘羅大権現は日本の所謂「神」とは何の関係もなく、従って、金毘羅大権現が神社とされる謂れも全く無いのである。
松尾寺(金毘羅大権現)の創建等については不明であるが、鎌倉期には西山山麓に称明院、山腹に滝寺があり、もともとこの地は観音霊場であったとされる。
滝寺はその後焼失し、本尊聖観音は松尾寺に引き渡され、普門院として存続したという。
さらに普門院もその後、維持困難となり、本尊は金光院に譲渡され、さらに真光院と普門院とが分流したという。
近世別当であった金光院についても、その創建についてははっきりしないと云う。
金光院初代(元徳年中)は讃岐善通寺誕生院宥範とするが、確証があるわけではない。
松尾寺に金毘羅神が祭祀された時期についてもはっきりしないが、
確実に金毘羅堂建立のことが分かる資料は元亀4年(1573)の年記を持つ「金毘羅赤如神宝殿」と記す棟札とされる。
おそらくこの頃、金光院別当であった宥雅が金毘羅堂を建立(もしくは改築)して本尊を守護させたものと推測される。
※以上が正しいとすれば、金毘羅紳が祀られたのは中世末期あるいは近世初頭の頃となり、歴史としては比較的浅い。
(なお、次項参照)
2008/05/08追加:
金毘羅大権現の現存する確実な最古の史料として以下が知られる。
元亀4年(1573)「金毘羅宝殿棟札」(本宮再営棟札):
(表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権僧都宥雅造営焉 于時元亀四年11月27日記之
(裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之
※この時(元亀4年)には確実に金毘羅堂が造営、金毘羅が祀られたものと解釈される。
しかし、以下の史料もあり、以前から金毘羅堂は松尾寺の堂であったとも推定される。
貞治元年(1362)寄進状
奉寄進 松尾寺金毘羅堂免田事
永徳2年(1382)寄進状
奉寄進 子松庄松尾寺金毘羅堂田地事
以上、室町末期、象頭山には松尾寺(松尾寺別当は金光院)があり、金毘羅は松尾寺の鎮守として勧請されたと推測される。
この頃松尾寺の中心は観音堂(観音堂別当は西琳坊普門院)であり、そのほか釈迦堂・薬師堂などがあった。
さらに松尾寺には三十番神や称名寺もあったと推定される。
天正15年生駒親正が讃岐に入部した頃から、象頭山には金光院が実権を握るような変化が生じたと考えられる。
この頃から寄進状・制札・書翰・免許などは全て「金光院」に対して発給される。つまり、金光院は松尾寺別当から金毘羅大権現別当に変化したもの
(金毘羅大権現が主体とされ、金光院が実権を掌握)と思われる。
元和4年の寄進状には「奉寄附 金毘羅大権現神領之事・・」とあり、この頃から金毘羅大権現の称が定着すると考えられる。
(慶長期には次のような処置が行われたようである。
即ち、称名寺住職は伊予に追放、寺地を金毘羅権現に編入、観音堂別当西琳坊普門院は各々真光院・普門院として存続が図られ、真光院は金光院寺中と
して存続し、普門院は滅罪の寺として存続する。最後に寛文10年三十番神社人は打ち首となり、金毘羅大権現別当金光院は全山の支配を固める。)
金毘羅神は秀吉の朝鮮出兵ころから、海難避けの水神として水夫たちに、また雨乞いの水神(農業神)として農民たちの信仰を集め
るようになる。さらにそれが象頭山の「お山信仰」とも結びつき、金毘羅紳は本尊釈迦如来を凌いで信仰を集めるようになる。
江戸中期以降には江戸をはじめ全国に金毘羅講が組織され、金毘羅参りが流行する。
一方、支配層である長宗我部氏、生駒氏(高松)、松平氏(高松)からも庇護を受け、多くの堂宇が順次建立される。
長宗我部氏:三十番神堂修復、仁王門(現賢木門)建立、
生駒氏:三十番神堂修復、鐘楼など寄進、
松平氏:三十番神堂修復、大門新築、木馬舎寄進、本社・経蔵・阿弥陀堂など造営。
要するに、金毘羅大権現とは当初は松尾寺の鎮守・金毘羅紳であったが、その金毘羅神がやがて流行仏となり、松尾寺本尊を凌駕し独特の信仰対象となっていった
ものと思われる。
元来金毘羅神は仏教の伝来とともに
仏教を守護する仏として入ってきた天部の諸尊の一つであり、日本の所謂「神」とは何の関係も無いのは自明のことである。大権現あるいは金毘羅神などと称したために、結果として明治維新の神仏分離の標的にされる不幸を招く。
明治元年の神仏分離令当時の金毘羅大権現の別当は松尾寺金光院法印宥常であった。
明治元年3月神仏分離令。
同4月宥常の上申書:大権現は天竺より飛来、仏法を守護・・・・趣旨は日本古来の神ではないということであった。
同5月宥常の嘆願書:豹変して、大権現は大国主尊(大物主神)と同体であると認める。
同6月宥常の届け出:松尾寺の堂宇を改廃する。大権現の建物すべてを社殿に改めたと申告。
琴平神社と改称。
同6月宥常の復飾改名:金光院を琴陵宥常と改名し、復飾。寺中の僧侶に復飾もしくは退去を命ず。
寺中の内、万福院は退身して復飾、神護院は復飾して社人に、真光院は当時欠員、
普門院および尊勝院は復飾および神社化に強く反対したと伝える。
※普門院は旧地を離れ、松尾寺として現在も存続する。
同7月宥常は平田門下となる。大宮司補任願い。
同7月金刀比羅宮と改称。
同8月宥常は社務職に補任。
明治4年事比羅宮に改称。
明治5年裏谷で諸堂の仏像を焼く(観音堂本尊十一面観音、護摩堂本尊不動明王は免れるという)。
明治16年再び金刀比羅宮に名称を変更
明治19年宥常、宮司に就任という。
以上の経緯の背景には以下のような事情があったものと思われる。
1)当時、金刀比羅宮では、平田門下が影響力を持ち始めていた。
2)社会状況は、仏教(寺院)としての存在が何ら僧侶の生活を保障するものではなくなっていた。また、僧侶で復飾するのが流行していた。
3)当寺の宗教政策の意図に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、それはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにする
と云うこともいえるであろう。
だとすると大権現存続のためにはあえて平田派的な論を用いた方が得策であろうとの判断もあったと思われる。
4)加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったものと思われる。
※多宝塔は(明確にできる資料がないが)、おそらく明治初年6月までに棄却されたものと思われる。
(下記の史料によれば、明治3年6月取払いと思われる。) ★「金刀比羅宮神仏分離調書」明治維新神仏分離資料、金刀比羅宮社務所報
金刀比羅宮は古くは琴平社と称したが、中古以来金毘羅大権現と称し、別当金光院両部神道を以って奉仕し、
明治元年往古の社号琴平神社に復し、さらに金刀比羅宮と改める。別当金光院は復飾の上、社務として奉仕す。
1.神仏分離発令当時に於ける状況一般並びに分離実行の顛末
別当寺は像頭山松尾寺金光院。金光院主は当時二百数十名の役人を使用、役人の内僧体は十数名で後は俗体であった。
僧体の役人は役僧で、主なる5人には役宅を給し、寺中即ちこれなり。
寺中:真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院・・・全て金光院が之を支配する。
金光院の指揮で、いずれの寺中も神勤奉仕は勿論、真光院、尊勝院は庶務を、万福院は会計を、神護院は神札・祭礼の事務を担当し、以上4院は大門内にあり。普門院は社領民の滅罪(葬儀)の役で、大門外にあった。
明治元年6月金光院宥常は復飾、琴陵宥常と改名、従五位下を叙位される。同年9月社務職を拝命する。
2.神仏分離以前、神社に於ける仏教関係の建築物の種類沿革、及び分離当時の於けるその処置
三十番神社;廃止し、その建物を石立社に充当
阿弥陀堂:廃止し、その建物を若比売社に充当
観音堂:廃止し、その建物を大年社に充当
薬師堂(金堂):廃止し、その建物を旭社に充当
不動堂:廃止し、その建物を津嶋神社に充当
摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、その建物を常盤神社に充当
孔雀堂:廃止し、その建物を天満宮に充当
多宝塔:廃止の上、明治3年6月之を取払へり。
経蔵:廃止し、その建物を文庫に充当
大門:左右の金剛力士像を撤し、建物はそのまま存置
二天門:左右の多聞持国の像を撤し、建物はそのまま中門として存置
万灯堂:廃止し、その建物を火産霊社に充当
大行事社:変更なし、後に産須毘社と改称
行者堂:変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
山神社:変更なし、大山祇社と改称
その他数十棟の寮舎のようなものはそのまま変更なし
3.同仏教関係の図像の種類及び分離当時に於けるその処置
略
4.同仏教関係の器具粧飾の種類及び分離当時に於けるその処置
仏堂には祈祷檀、供物用器具、経机などありしが、撤廃し、おおむね焼却処分にす。
5.同仏教関係の官職位階及び其の変遷
略
6.同仏教関係の祭礼行事儀式作法及びその変遷
略
7.神仏分離以前に於ける門間の監修の今日に残存せしもの
略
8.同仏教関係の文書黒くの種類分離当時に於けるその処置
経巻は売却もしくは焼却としその巻数は今詳らかならず。
9.社人社僧の状況・・・及び維新当時に於ける社僧の実況
別当職(金光院)は山下氏の出で、九条家門流の猶子となり、幕府に代わる高松藩の承諾を得たる者が入院する。
象頭山松尾寺は無本寺で古義真言宗。
僧侶は寺中をはじめ十数名あり、金光院の扶持になる。
真光院(75石)、万福院(50石)、神護院(33石)、尊勝院(33石)、普門院(33石)・・多門院(33石)・・
神官は元亀天正頃以降は存在せず、金光院役人中に神役なるものあり、要するに金光院の役僧が一切の大権現の神勤・
その他諸々の事務に当たる。
今社務所たる建物は金光院そのものである。
10.維新時代の・・行政、11.・・・、12.・・
略
13.廃仏毀釈の状況(寺院建築仏菩薩の図像経巻仏具梵鐘等の処置寺領寺院境内地に及ぼしたる影響並びに僧侶の還俗等)
イ)建造物
廃毀建築物
多宝塔:明治元年廃止、同3年6月取払い、鐘楼:明治元年廃止、取払い
別当金光院は廃止、そのまま社務庁となる、境内大師堂・阿弥陀堂は廃止、後日売却予定とするが、小建築かつ人目に付かない区画にあるため外見上は
そのまま残る。
ロ)図像、経巻、仏具など
主なるものは宝物として残置、その内十一面観音木像は大正8年国宝に列せられる。
一般仏像は仏堂廃止とともに一箇所に取り纏め、明治5年香川県の許可の下に焼却。
経巻仏具等は一部は売却、他は焼却。
ウ)領地、エ)境内は略
オ)僧侶の還俗
別当金光院は復飾の上社務職を拝命、金光院役人はそのまま社務職役人になる。
役僧真光院は当時欠員、万福院は退身の上還俗、神護院・成就院は退身の上社務職に転身、尊勝院・普門院は退身。
★「松尾寺対金刀比羅宮訴訟事件の一班」
明治維新神仏分離資料
「萬朝報」明治42年11月1日
金刀比羅宮訴訟
原告:松尾寺住職永原宥尭、被告:金刀比羅宮
訴訟内容:現金刀比羅宮の建物・宝物は元来金刀比羅宮のものではなく、松尾寺のものである。
それゆえ建物・宝物を松尾寺へ引き渡す(取り戻す)よう求める。
明治の神仏分離令で松尾寺金光院宥常は還俗改名し、金毘羅大権現を神と付会し、金刀比羅宮を設けた。しかし松尾寺寺中普門院宥暁は松尾寺住職を襲ぎ、次の住職宥音、現住宥尭へと法統を継いでいる。
建物宝物の価格は八万円か百万円か:訴訟費用節約のため松尾寺側は価格を八万円としその印紙を貼付。一方神社側は百万円以上でありその印紙の貼付を求める。鑑定に出され二十二万八千円とされる。
松尾寺は廃寺か:被告側は明治維新で松尾寺は廃寺となり、金刀比羅宮となった。普門院は勝手に松尾寺の号を僭称しているだけである、原告側は松尾寺は金光院だけではなくて、一山の総称である。その一山寺院の一つが存続している以上松尾寺は廃寺ではない。
廃寺は廃寺でないかについては、京洛東寺内真言宗各宗派連合会会長土宜法龍及び醍醐寺住職真言宗醍醐派管長和気宥雄に鑑定を乞い、金毘羅大権現の宗教上の意義・性質については文学博士高楠順次郎に立証を求める。
鑑定結果は(興味深い論理が多々あるが)、廃寺かどうかについての結論は、両師とも、原告(松尾寺)は象頭山松尾寺を継承し代表するというものであった。
金毘羅大権現が神は仏かの見解は、(これも興味深い論理が多々あるが)、結論は「仏教守護の善神なり」ということであった。
「六大新報」明治41年12月20日
明治元年9月金光院宥常は復飾改名し、宮司となり、普門院を除き、外に退散を命ず。
かくして一山僧侶二十数名のうち2,3の還俗者を除き、皆は涕金と称する一時金を得て四散した。
普門院宥暁のみは強硬に理を持って、寺院維持を主張した。ついに宥常は宥智・宥音の二法弟を宥暁に付託し、松尾寺一山の堂塔を旧照明寺(寺跡あり)に移し、松尾寺の
法灯を継承することを条件に、松尾寺の私有財産は売却し、家来に分配する。
かくして仏像仏具経巻その他什器は宥暁に引継ぐまでは金堂に格納し、一切の山規寺法などの書類を宥暁に渡す。
明治3年普門院は仁和寺末寺となる。
明治4年まで旧位置に在りしが、崇敬講社本部に充てるとの理由で、普門院を金光院の別邸の地に放逐し、宥常は宮司の職を辞し、金堂に格納した仏像・仏具を宥暁に引き渡そうとした。
しかるに宥暁は盛大なる引渡し儀式を計画したため、社務所側では再び維新以前の状態に戻ること(金毘羅大権現は寺院であり)を恐れ、前約束は反故にし、一切の仏像などは焼却することに一決した。
一切の物件は元神護院還俗・神埼勝海が総督になり、浦の谷に持ち行き、仁王尊をはじめ仏像仏具経巻などの大過を焼却。
その折、宥盛法印の木造を火中すると暴風が起き総督は気絶したという。焼却されなかった物もこの騒動で皆紛失したという。
以上の事実は現に生存する証人多くいて、いつでも法廷で証言できる。
宥暁は社務所側の圧迫でその意を貫徹できず、二法弟のうち宥音(宥智は早世)を明治7年に22世松尾寺住職となす。
宥音は社務所と度々交渉するも、その目的を達せず死す。
23世宥尭が先師の意思を継ぎ、回復策に尽力するも、事態は好転せず、終に訴訟に及ぶ。
「通俗佛教新聞」明治42年3月24日、31日
和気僧正鑑定書:省略(結論:松尾寺は存続する・金毘羅神は松尾寺一山の鎮守で本尊薬師如来の眷属の一つ。)
「通俗佛教新聞」明治42年3月31日
土宜僧正鑑定書:省略(結論:松尾寺は存続する)
「通俗佛教新聞」明治42年4月12日
高楠博士の鑑定書:(結論:金毘羅は印度の薬叉天部の一つである。金毘羅は仏陀を尊敬し仏法の守護神となる)
「香川新報」明治43年7月21日
金刀比羅宮境内所在の仁王門外40余点の所有権確認並びに物件引渡し請求の件は
明治43年7月7日地方裁判所にて判決。
主文:原告の請求を棄却。
理由:金刀比羅宮、現松尾寺とも独立の主体を有する。つまり法律上は別個の法人格を有する。
しかし明治維新の改革で金光院は還俗し、金刀比羅宮にその一切を譲り、この時点で金光院は消滅した。
現金光院はその所有権を主張する正統性はない。
(以上は意訳した概要で、実際の判決の理屈や言い回しは単純なものではない。)
参考:備前瑜伽大権現・備前蓮台寺
※金毘羅大権現とは対象的に備前瑜伽大権現は瑜伽大権現本殿拝殿その他の附属施設を瑜伽神社として分離し、瑜伽山蓮台寺は寺院として存続した。
そのため例えば、象頭山多宝塔は取壊されたが、瑜伽山多宝塔は今なお健在である。
今、金毘羅山を訪れると、「琴平宮」など称し、古から神社であったかのような顔をし、松尾寺の存在など忘れられているが、一方今、瑜伽山を訪れると、瑜伽大権現は瑜伽神社として分離はしたが、蓮台寺が主人で神社は付属物でしかないと誰が見ても頷ける
姿をみることができる。。
2003/11/24追加
★「重要文化財金刀比羅宮表書院及び四脚門保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編、2002.8:
より近世の境内の変遷について要約。境内図転載。
正保頃(1644-)境内図
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「金刀比羅宮オフィシャル・ガイドブック」:
○元和4年(1618)生駒正俊の寺領寄進状に「金毘羅大権現」と記す。○元和6年(1620)鐘楼堂建立。
○元和9年金毘羅堂(内陣・幣殿・拝殿)建立、
旧金毘羅堂を移築して役行者堂とする。
○寛永元年(1624)観音堂建立。
○正保2年(1645)三十番神堂再興、大行司堂改築。
○慶安4年(1651)仁王門(大門)・木馬舎建立。
○万治2年(1659)金毘羅堂改築、二ノ鳥居建立(鐘楼のもと)。
○万治3年(1660)一切経蔵・本地堂を建立。
本坊建立(推定)。
また本宮への道筋が付け替えられたという。(古老伝旧記)
正保頃境内図:左図拡大図
※本宮、観音堂、本地堂、三十番神堂、大行司堂、経蔵、鐘楼、ニ天門、大門、金光院、西琳坊、万福院、神護院などを備えた通常の寺院の景観であった。 |
元禄末頃(1704)境内図
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○延宝5年(1677)多宝塔建立、護摩堂改築、釈迦堂建立など
○元禄末頃の作と推定される「金毘羅祭礼屏風図」の景観と思われる。 元禄末頃境内図:左図拡大図
(古老伝旧記):
昔の神前を上がる道筋は、坂を上がり普門院の門の所に大門あり、それより脇坊中前土手の通り道あり、本坊の大庭の中通り、築山のような道あり、宥範上人の墓の付近を通り、鐘楼堂仁王門あり、本地堂其の他末社の前を通り、神前に至る。
※観音堂・護摩堂などが改築、薬師堂、多宝塔などが新築、金光院は規模を拡大、旧参道跡に神護院、尊勝院、万福院、真光院、普門院などの坊舎が移転
する。寺院境内の大幅改造が加えられたと思われる。 ○宝永7年(1710)太鼓堂上棟。
○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂・神前廻廊建立。
○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。
このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付け替え。
○寛延元年(1748)万灯堂建立。
○文化10年(1816)から弘化3年(1846)金堂が建立。
○天保3年(1832)二天門を北側に曳屋。天保年中に仁王門修復、本坊修復。
※荘厳な金堂などの建立を見る。いよいよ寺院としての隆盛を極める。 |
明治13年境内図
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明治13年境内図:左図拡大図
神仏分離後の無慚な姿である。 明治8年観音堂解体
明治11年摩利支天社を廃止、事知神社に改める。
松尾寺は徹底的に破壊、神社に捏造された跡が読み取れる。
金光院、金堂、大門などは転用。
なかでも当時の恐ろしい様相が見て取れるのは、神護院→小教院塾、尊勝院→小教院支塾、万福院→教導係会議所、真光院→教導職講研究所、普門院→崇敬講社扱所などの転用があったようで、崇敬講社扱所(実態不明)以外では、政府の宗教政策を忠実に実行した様子が分かる。
現在では、右の境内図に見られるように坊舎跡も存在せず、つまらない施設に変更される。 |
2002年境内図(下記拡大図)
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★現 状 かっては金毘羅大権現として栄え、明治維新まで金堂(現旭社)に至る石段右手に多宝塔が存在していた。
※総高13間5尺(約25.2m)で超大型塔と思われる。
※建立は延宝5年(1677)で、取払いは明治3年6月とされる。
明治維新の神仏分離で、象頭山松尾寺は壊滅し、金刀比羅宮などと改竄され、祭神は大物主神などと付会される。
上記「神仏分離」史料では多くの仏堂が社殿に転用されたと思われるが、当時のことはいざ知らず、現在では殆ど、造替され(僅かの例外を除き)松尾寺金毘羅大権現の景観は明治維新前とは一変している
。
以上のような状況の中で、松尾寺金光院、松尾寺金堂、大門、逆木門などが僅かに旧規を残す。
2001/12/27撮影:
多宝塔跡推定地は夕暮れと雨とで未確認。
讃岐金毘羅大権現多宝塔跡推定地?(多分このあたりと思われるが、未確認
)
・・・2003/11/24:訂正:金光院下あたりの写真でこれは見当外れであった。
・・・2007/01/27:写真は高橋由一館とその下方で、明治維新までは坊舎のあった場所である。
2007/01/20撮影:
金毘羅大権現多宝塔跡1 同 2
※金堂石段下向かって右手、現在の火雷社とか祓戸社とか称する祠のある場所か馬の銅像のある場所に多宝塔はあったと推定される。
現状、多宝塔の痕跡は皆無で、遺物もその存在を知らず。
讃岐金毘羅宮旧金堂:(2001/12/27撮影)
(文化10年起工、弘化2年完成。桁行10間梁行10間。重層入母屋造、銅瓦葺)
2007/01/20撮影:
金毘羅大権現金堂1
同 2
同 3
同 4
※金堂は旭社などと意味不明の名称に変更されている上に、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神などという最悪の極めて政治的
な(国家神道丸出しの)ものに改竄される。
平田派神学そのもので、何をか云わんや!であろう。
現社務所門(金光院門とも思われるが不明)
表玄関・表書院(左):万治2年(1659)建立
金光院四脚門(重文):奥の屋根は表書院:万治2年(1659)建立、内部の圓山應挙らによる障壁画が著名。
金毘羅大権現大門:大権現仁王門と思われる。慶安2年(1649)松平頼重建立。
金毘羅大権現逆木門:天正年中、長曽我部元親建立。
金毘羅大権現奉納額1
同 2:
現在絵馬堂にはつまらない扁額などしかない。以上2枚は辛うじて大権現時代を偲ばせる扁額であろう。
なお本殿などがある一画は観音堂など一切の仏堂は造替され、明治以降の建造物があるだけで何も見るものはない。
十一面観音像(観音堂本尊・金毘羅大権現本地仏とも云うが、単に観音堂本尊であるというのが正しいと思われる。)が現存する。→【注】
平安期、檜材一木造、像高1.44m。現在は宝物館安置と云う。
なお
観音堂本尊十一面観音脇侍不動明王及び毘沙門天の二尊が備前西大寺に現存すると云う。
多くの仏像が毀される中で、明治7年、万福院宥明
は故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、脇侍不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰る。その後、旧岡山藩主池田章政が、祈願寺である円務院(下出石村)に移安する。池田氏は東京へ移住、明治15年、西大寺光阿上人が西大寺に再度移安、金毘羅大権現本地として、西大寺鎮守牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀する。
【注】金比羅大権現の本地は、不動明王、釈迦如来とも云われる。
金毘羅大権現本地については以下の史料がある
「金毘羅参詣名所図会」巻二:象頭山松尾寺金光院
本地堂:
鐘楼より少し歩めば石の鳥居あり。是を下れば石橋あり、是を越えて正面なり。本尊 不動明王。
(後略)
金毘羅大権現:
祭神未詳。或は云ふ三輪大明神、又素盞嗚尊、又金山彦神と云ふ。・・・・
金毘羅といふ名は仏経に出る所なれば、其の神号を称する事は仏教皇朝に渡れるの後ならんか、和国の神名帳には見へず。金毘羅は梵語にして此には孔といひ或は黄色と翻す。
金光明最勝王経に此の神名あり。最勝王経流布の国を守護し説法者を擁護し給はんとの本誓也。又一説に天竺に象頭山金毘羅神の居所ありと。又曰く釈尊出世の時、仏法を守護の為にとて天竺に出現し給ふ。則ち修多羅、所謂耆闍窟山の金毘羅神是なり。釈尊入滅の後、舎利を分けて此の地へ渡り給ふと。又説に三輪明神、清滝権現、新羅明神、同神の異名なりとも。或は素盞鳴尊にして三国流転して仏法を守護し給ふ。
震旦には武塔天神、牛頭天王と号し、天竺にては摩訶羅神という。雲石阿闍梨の曰く、我聞く大物主命、天竺にゆきまして彼の土にて金毘羅といひしとかや。伝教大師が神域に通じ、金毘羅三輪一体と釈し給ふことあり。経の中に演ぶるに釈尊に提婆大磐石を投げし時、神手をさゝへ給ふは此の神なり。即ち祇園精舎の鎮守とし給ふものなりと。尚権現の霊験奇怪は言語の及ぶ所にあらず。権現の御神躰は本社の上の方に巌窟あり、其の中にまします由。
※上記の本地堂記事によれば、松尾寺本地堂本尊は不動明王であったと思われる。
一方では金毘羅大権現の記事は要するに、諸説紛々・支離滅裂・詳細不詳でよく分からないということを云っているだけと思われる。
本地が釈迦如来というのは松尾寺本尊が釈迦如来であったことに拠るものと推測される。
2009/06/13追加:
毘羅大権現高燈籠:2007/01/20撮影
★象頭山松尾寺
いわゆる表参道の石段が始まる附近から南に200〜300m入ったところに松尾寺が法灯を伝える。
上記「神仏分離史料」のように、普門院宥暁などが辛うじて松尾寺の法灯を守り、今に伝える。
象頭山松尾寺本堂 同 山門鐘楼
同 松尾寺門札:現在は高野山真言宗
同 山門扁額:象頭山とあり、
「金毘羅宮」と云う宮号は明治初頭の捏造であり、こちらが正系である。
なお
老朽化などにより、2007年5月より、松尾寺本堂・鐘楼は屋根葺替・耐震工事の予定である。
山門石段下に(新四国曼荼羅16番霊場?)の巡拝所の石碑がある。この石碑の建立年記は明治17年とあり、少なくとも明治17年までには当地での構えはできていたものと思われる。
2008/06/02追加:「別冊太陽 日本の神 68」平凡社、平成2年 より
松尾寺金毘羅大権現像:
(上掲):おそらく松尾寺蔵と思われるも未確認。
2006年以前作成:2013/08/09更新:ホームページ、日本の塔婆
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