信 濃 新 海 大 明 神 三 重 塔

信濃新海大明神三重塔(新海三社神社三重塔)・新海大明神神宮寺

新海大明神三重塔

永正12年(1515)造営とされる。一辺3.77m、高さ19.9m。
塔は東本殿(重文・室町)の背後にある。明治の神仏分離で神宮寺は南西およそ400mくらいの川原宿に移転させられるが、塔婆は宝庫という名目で原位置に残されたと云う。
大きな木鼻を使用するなど、折衷様の傾向で構成される。中備は束のない間斗束を用いる。珍しく初重のみが扇垂木で、上層は2重繁垂木を用いる。
2008/11/13撮影:
新海大明神三重塔31
  同        32
  同        33
  同        34:左図拡大図
  同        35
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  同        42
  同        43
2002/09/06撮影
新海三社神社三重塔11
  同         12
  同         13
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  同         24

当社は、興波岐命を主神に建御名方命、事代主命と三神を祀り、佐久の一の宮、佐久三庄三十六の総社であったという。
現在も約20,300坪と社有林27町の広大な社叢の中に鎮座する。源頼朝の修理再興、武田信玄の戦勝祈願等が伝えられる。

2010/10/29追加:
「重要文化財新海三社神社三重塔修理工事報告書」昭和31年 より
神宮寺の創建沿革は資料が乏しく詳らかでない。
相輪の宝鐸の一つに「嘉承2年<1107>信州佐久郡田口神宮寺塔、大檀那山城守長慶造立之」とあり、嘉承2年の創建としても有り得ることではあろう。但しこの宝鐸の形式は新しく、字句の面からも江戸末期のものと思われる。またこの刻銘は何に依ったのか明らかでない。
現存塔の建立時期も明らかでないが、別の宝鐸に「信州佐久郡田口神宮寺之塔造立・・・・永正12年<1515>・・・」の銘があり、塔の建築様式の点から見て、 永正12年建立としても大きな矛盾はない。
その後の修理は明和4年(1767)、文化13年(1816/屋根葺替)、明治13年(屋根葺替)に行われたと棟札・墨書で知られる。
 佐久新海大明神境内図:庫裏及び庭園が残っているように見えるが、現在も残るのかどうかは未確認。(現地でその場所に足を入れていないが、残存している印象は無い。)
 新海大明神三重塔立面図:修理前
 新海大明神三重塔断面図:修理前
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
三重塔初重には心柱も四天柱も無い。また二重以上にも四天柱は設けられない。
これは山城浄瑠璃寺三重塔や信濃前山寺三重塔と同一の構造である。

2023/01/07追加:
○「刹の柱 信濃の仏塔探訪」長谷川周、信濃毎日新聞社、2011 より
三重塔は神社の宝庫として使用するとして、明治の神仏分離の破壊から免れる。
初重内部には心柱・四天柱はなく、中央には禅宗風の須弥壇が置かれ、勿論仏像は撤去されているが、三宝荒神を祀る。
 新海大明神三重塔立断面図     新海大大明神三重塔内部

2008/11/13撮影:
 新海大明神東本殿11: 重文:室町期の建築とされる(武田信玄再興とも云う)、一間社流造 、桧皮葺。
   同        12
   同        13
 新海大明神石塔:本殿背後にある。特異な形状の石製仏塔があるが由緒不明。
2002/09/06撮影:
 新海三社神社本殿     新海三社神社東本殿

新海大明神絵図

2003/7/6追加:新海三社神社絵図 :左図拡大図

この絵図は江戸期とされる。
神社境内東の一画に神宮寺が描かれる。
本堂、鐘楼、仁王門、坊舎などの存在が知られる。

信濃新海大明神神宮寺

神宮寺は嘉祥2年(849)の創建とされる。あるいは口伝では上宮太子(聖徳太子)の創建とも云う。
新海山上宮本願院神宮密寺と号す。新海大明神神宮寺であり、神社東にあった。
 (上掲載「新海三社神社絵図」にも境内東の一画に神宮寺がある。)
明治の神仏分離で現在地に移転する。
現在は新海山上宮寺(真言宗大覚寺派)と号し、本堂、鐘楼門、不自然な位置にあるが仁王門などを構える。
梵鐘は銘によれば、暦応元年(1338)上野東覚寺鐘として製作、天文12年(1543)田口長能が東覚寺から当寺に「奉寄進新海大明神御宝前」(追刻)と云う。
仁王像は室町後期の作と推定される。
2008/11/13撮影
 新海大明神神宮寺跡1:東本殿・三重塔に至る参道東に凡そ三段に石垣積の平坦地があり、当地が神宮寺跡と推定される。下段平坦地。
   同        跡2:中段平坦地
   同        跡3:上段平坦地、ここに神宮寺跡の木標が建つ。
               なお跡地は荒廃し、潅木に覆われ、通常の服装・装備では概要を見ることは不能な状態である。
   佐久新海大明神境内図:上掲、2010/10/29追加、東側に神宮寺跡がある。

 上宮寺本堂・鐘楼門       同    仁王門2       同      梵鐘
   同    仁王像1       同    仁王像2
2002/09/06撮影
 上宮寺    伽藍   同    仁王門

2022/09/05追加:
○蘇民将来符
「【夏越しの大祓】:お供えの日本酒や蘇民将来の護符が当たる籤引きがあったり・・」
「茅の輪は、【水無月の夏越しの祓えする人は 千歳の命 のぶというなりー】と唄を唱えてから、蘇民将来と言いながら、神主様の後に続いて左右左と3回茅の輪をくぐる。」
 ※蘇民将来符の授与が行われる。 →全国の蘇民将来符一覧

附録:信濃竜岡城跡

新海大明神のおよそ1km西に竜岡城址がある。幕末に完成した西洋式の五稜郭である。内城の石垣・堀は復元、良く保存される。
函館の五稜郭が著名であるが、その五稜郭に規模は劣るとはいえ、この片田舎で1万数千石の小大名が幕末に構築したと感銘を覚える。
2008/11/13撮影
 信濃龍岡城跡11       同     12       同     13       同     14
   同   御台所:現地に唯一残る 建物遺構。明治5年学校に転用、その後昭和4年現地に移転復原と云う。
 信濃龍岡城要図: 「龍岡城跡」佐久市教育委員会(リーフレット) より
 信濃龍岡城土塁・掘断面図:同上
2002/09/06撮影
 竜岡城址1       同     2      同     3


2008/11/24作成:2023/01/07更新:ホームページ日本の塔婆