★史跡高麗寺跡概要
山城町「上狛」に金堂・塔等の土壇・礎石を残し、また字名に「高麗寺」という古代寺院名を残す珍しいケースとされる。
日本最古といわれる飛鳥寺と同じ瓦を出土する。
伽藍配置は法起寺式を採り、白鳳期に本格整備され、平安期まで存続したとされる。
昭和13年:第T期調査、昭和59-63年:第U期調査、平成17年より史跡整備目的の第V期調査(第6次〜)を実施中。
2007/12/14追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
高麗寺址・・・概要図
:昭和13年高麗寺跡実測図
塔基壇、塔心礎が残存する。
心礎は1.79×1.06mで、径71×15cmの円穴を彫る。心礎南側面に舎利孔を穿つ。
舎利孔奥行は底部で31.2cm、上部で25,5cm、高さは入口で18cm、奥で12,7cm、底部19cmを測り、
半円形の横穴式の舎利孔の形式を採る。
塔1辺は12.5mで瓦積基壇が発掘(昭和13年)されたが、現状は地下に埋め戻され、見ることは出来ない。
2011/08/16追加:
○「新版・古代の日本 6 近畿U」坪井清足・平野邦雄、角川書店、1991 より
高麗寺塔跡航空写真:下が北側
である。第U期調査時の写真である。
2015/11/12追加:
○「平成20年度・高麗寺跡発掘調査・現地説明会資料」 より(平成20年は2008年)
山城高麗寺跡発掘調査図:下に掲載
高麗寺の伽藍配置は法起寺式(東に塔、西に金堂)であり、回廊は中門から両翼に伸び、塔・金堂を囲み講堂に至る。
しかし、南門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ特異な配置である。
2020/09/13追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より 仏法最初高麗大寺圖:もちろん椿井政隆の偽書である。
仏法最初高麗大寺圖:山城郷土資料館寄託浅田家文書
高麗寺と泉橋寺伽藍が描かれる。ともに塔が描かれるが、椿井は両寺とも塔跡もしくは心礎の存在を知っていて、あるいは両寺とも塔があったという伝承を踏まえて、塔を描いたのであろうか。
特に高麗寺は壮大な伽藍が描かれる。それは極めて椿井的な特徴を良く表すものである。 なお、圖の左上が椿井村であるが、椿井氏の移住前の想定であるので、薗辺村と呼称される。
------------------------------------------------------------------------------------ ○2001/02/22撮影:
山城高麗寺塔・金堂土壇:金堂跡・塔跡を北側から撮影(奥;塔土壇、前;金堂土壇・・法起寺式)
山城高麗寺塔土壇
山城高麗寺心礎
山城高麗寺心礎
○2001/04/02撮影:
山城高麗寺心礎2:舎利孔は心礎の横に穿つ。
★2005年度発掘調査
概要(現地説明会:2005/12/23)
史跡整備事業 高麗寺跡発掘調査 現地説明会、写真は2005/12/23撮影:
○塔跡
塔基壇南西部を再調査(昭和13年一部調査)。瓦積基壇で一辺は12.7m(43尺)であることは確認済。
この瓦積は極めて遺存状況が良く、精美なことで知られる。周囲には巾約1.65m(5.5尺)の石敷が廻る。
○出土遺物
今回石敷から相輪部品が出土。
|
今般の発掘で、塔石敷の上で擦管部品を発掘。
擦管部品は相輪の水煙附近のものであり、銅製品で金鍍金を施す。
擦管部品1:左図拡大図
擦管部品2
※なお、「平成17年度史跡整備事業 高麗寺跡発掘調査 現地説明会資料」山城町教育委員会
では以下の記載がある。
「発掘調査により出土した銅製の相輪」の例は「陸奥国分寺跡、山城正道廃寺、河内九頭神廃寺(枚方)、摂津伊丹廃寺、播磨国分寺跡、阿波立光寺跡
」などがある。 相輪風鐸鋳型
出土軒平瓦
出土軒丸瓦 |
○心 礎
○金堂跡
昭和13年などの調査で、金堂基壇は16m(54尺推定)×13,4m(45尺)であると判明済。
塔跡同様に巾1.65m(5.5尺)の石敷を設ける。
今回発掘で金堂中軸線上で、階段裏込を検出。
なお金堂基壇の西半分は昭和10年の土取りで、遺構は消滅という。
金堂南辺基壇:東半分で残存する、西半分は
上述の通り破壊される。
金堂階段裏込及瓦積基壇
金堂南東隅基壇及石敷
金堂瓦積基壇1
金堂瓦積基壇2:昭和13年調査時と比べて、瓦積は大きく外側に傾き、石敷の破損も著しくなっているとの見解が示される。
金堂瓦積基壇3:瓦積基壇の外側への傾きの状況は上掲金堂基壇及び塔基壇2を参照。
2007/11/24撮影:
山城高麗寺金堂土壇:土壇西側の一部は土取で失われ、採取した土は推定中門跡の上に盛り、道路を整備したと云う。
○中門・南辺廻廊跡
中門及び廻廊南辺の基盤は段丘縁辺部を嵩上げして造成し、平坦地を確保しているものと思われる。
従って南門(未検出)から中門へは相当の段差があり、南門・中門間の連絡は階段(未検出)様施設で連結されているものと推測される。
(現地説明会資料)
中門東石敷暗渠:中門東側
南辺廻廊跡:中門東側
中門基壇:西側
なお講堂跡には柱座を持つ礎石が2個、土壇上に残る。
講堂跡礎石1 講堂跡礎石2
2007/11/24撮影:
山城高麗寺講堂土壇:金堂・塔と比較して一段低い土壇が残存する。土壇上に2個の礎石が遺存する。
2015/11/12追加:2015/10/24撮影:
★高麗寺史跡整備に伴う発掘調査の概要
「平成27年度(2015)文化財現地公開資料」木津川市教育委員会 より
○概要
高麗寺の創建は、飛鳥寺創建瓦と同笵の瓦が使用され、飛鳥期と考えられ、山城最古の寺院とされる。但し飛鳥期の明確な遺構は発見されていない。
その後、川原寺金堂創建瓦と同笵の瓦を用いて伽藍整備がなされ、瓦積基壇を用いた山城の古代寺院の先駆けとなる。
その伽藍配置は法起寺式(東に塔、西に金堂)であり、回廊は中門から両翼に伸び、塔・金堂を囲み講堂に至る。
しかし、南門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ特異な配置である。
高麗寺の伽藍は平安初頭の大規模修理を最後として廃絶するも、その時期はさだかではない。鎌倉期には完全に姿を消した模様である。
今回の発掘は「原状の心礎は埋め戻して地下保存し、その上に複製心礎を設置する予定で、複製心礎は原状と同じく上面の柱穴と側面の舎利孔は見える状態で設置する。周囲は発掘調査で確認した瓦積基壇を参考に約50cmの高さで瓦積基壇も復原する予定である。」
複製心礎の材質は花崗岩で、その製作は石屋に依頼する予定という。
※報道発表では心礎は埋め戻されるので、「心礎は見納め、塔跡の発掘調査終了」と発表される。
※今般の発掘目的は心礎の複製を作ることによるもので、写真測量などが実施されたという。
塔跡の基壇は瓦積基壇であり、周囲には玉石敷を付設する。また瓦積基壇の内部には花崗岩による石積が残り、これは瓦積基壇に先行する基壇外装なのか、あるいは瓦積基壇が受ける土圧の緩衝施設なのかの二説がある。
塔の造営尺度は唐尺(1尺=29.7cm)であるが、塔基壇一辺は12.7m(43尺)、現存の高さは1.5m(5尺)、石敷の巾は約1.65m(5.5尺)を測る。
前述のように、塔基壇の高さは外周を廻る石敷から1.5m程度となり、基壇上面から心礎上麺までの深さは約1.1m、舎利孔底面までの深さはおよそ1.3m程度となる。
○高麗寺心礎
心礎の大きさは直径約2m高さ約70cmの平面五角形を呈する花崗岩で、中央に径70cm深さ10cm程度の円孔(柱穴)を穿つ。
○高麗寺心礎・舎利孔及び受蓋孔
舎利孔は南側側面にあり、入口は底面が平らな蒲鉾状で内部は袋状に広がる。舎利孔入口の大きさは底辺19cm、高さ16cm、奥行31cmを測る。
舎利孔周囲には一辺39cmの微かな掘り込み(受蓋孔)が残る。このことから、かっては蓋が存在したと分かる。
◇山城高麗寺心礎実測図:「平成27年度(2015)文化財現地公開資料」より
○その他の遺構の現況
高麗寺南門跡
高麗寺金堂・塔跡土壇 高麗寺金堂跡土壇1 高麗寺金堂跡土壇2
高麗寺講堂跡土壇1 高麗寺講堂跡土壇2 高麗寺講堂跡礎石1 高麗寺講堂跡礎石2 高麗寺講堂跡礎石3
高麗寺跡礎石残欠
洗足池(疑問):高麗寺跡に東に2〜3枚の田圃を挟んである池である。現地にて、学芸員から礎石を割り護岸に供した池はこの池との情報を得る。しかし、一方では、洗足池は埋め立てられるあるいは上狛環濠の濠は洗足池から供給されるとの情報もある。もし、洗足池は既に埋め立てられているのであれば、この池は洗足池では有り得ない。また上狛の環濠に水を供給している池であれば、この池の位置としては、環濠への水の供給はほぼ無理という感じである。従って、この池が洗足池であるのは疑問であるが、(疑問)として掲載する。
2018/03/29撮影: 現地では、塔・金堂・講堂跡の「史跡整備工事」が進行中である。
現地で工事関係者に話を聞けば、竣工は2019年度の予定という。 塔跡での心礎レプリカは設置済とのこと。
※レプリカの見学は、工事中で関係者以外は立ち入り禁止であり、不可ということで、見学できず。
塔跡では今後瓦積基壇の復元などの工事が予定されているとのこと。
現地で見た感じでは、講堂趾はほぼ整備工事が終わり、金堂跡は礎石レプリカを基壇上に設置は終わっているが、付帯工事が未済であるように見受けられる。
高麗寺塔跡整備工事1 高麗寺塔跡整備工事2 高麗寺塔跡整備工事3
高麗寺金堂跡整備工事1 高麗寺金堂跡整備工事2 高麗寺金堂跡整備工事3 高麗寺金堂跡整備工事4
高麗寺講堂跡整備工事1 高麗寺講堂跡整備工事2 高麗寺講堂跡整備工事3 高麗寺講堂跡整備工事4
高麗寺講堂跡整備工事5
2018/05/05追加: 備忘: ○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
1)明治期には、礎石が講堂跡の土壇に8個、東方の新世(しんよ)池の南に5〜6個、その西側に小型のもの20個が残存していた。
2)「拾遺名所圖繪」に「上狛松尾社/御霊社」の挿絵があり、御霊社西側石段の下に「大石手水鉢」、その南に「高麗寺旧塔」と記す十三重石塔2基が見える。
この「大石手水鉢」および十三重石塔2基は明治になって上狛小学校へ移される。手水鉢は鎌倉期のものとされ、寺院の石風呂と推定されている。(但し、手水鉢、石塔2基とも現在その所在確認が取れない。)
2019/03/27撮影: 現地では依然として「史跡整備工事」が進行中である。本日も工事中で、工事区域には立ち入りができず。
高麗寺塔跡復元瓦積基壇1 高麗寺塔跡復元瓦積基壇2 高麗寺塔跡復元瓦積基壇3 高麗寺塔跡復元瓦積基壇4
高麗寺金堂跡整備工事5 高麗寺金堂跡整備工事6
高麗寺講堂跡整備工事6
2020/05/28撮影: ほぼ完工とも思われるが、未だ工事中のようである。
高麗寺心礎レプリカ1 高麗寺心礎レプリカ2 高麗寺心礎レプリカ3 高麗寺心礎レプリカ4
高麗寺塔跡復元基壇1 高麗寺塔跡復元基壇2 高麗寺塔跡復元基壇3 高麗寺塔跡復元基壇4
※塔跡は勿論保存の必要があるから、遺構は現状のままとし、その遺構に上に新しく復元基壇を積み(作成し)、さらにその復元基壇を掘り下げ心礎レプリカを置く復元方法となる。これだと、地表面からみれば、本来の塔基壇の2倍ほどの高さにに塔基壇が復元されることになり、例えば、高麗寺塔基壇は相当な高さの基壇であり、また金堂基壇と比して、一段高いところに塔基壇は作られたといったような誤解を呼ぶことにはならないのであろうか。
そもそも、本来の心礎は埋めてしまい、お世辞にも似ているとはいえない心礎レプリカを展示するなどの「整備」が必要なのであろうか。今までは、自由に心礎を見学でき、自由に触れることができた。しかし「整備」により、「整備基壇」を破壊しなければ、心礎を見、触れることは出来なくなった。誠に残念なことである。あるいは、瓦積基壇を復元展示したかったのであろうか。しかしこれらは写真展示で十分ではなかろうか。基壇の構造は少しの想像力があれば、イメージ可能ではないだろうか。なによりも、そもそも本来遺構は土で覆われたものであり、その土の下に埋もれている遺物を想像する力を養うことが考古学の入口とすれば、それに逆行するような「整備」ではないだろうか。
高麗寺金堂跡復元礎石
2007/11/27追加;
★2007年度発掘調査報告・高麗寺跡第8次発掘調査(現地説明会2007/11/24)
※参考文献:「平成19年度・高麗寺跡発掘調査・現地説明会資料」木津川市教育委員会、2007/11/24
○2007年度発掘調査は下記の発掘調査図の「801Tr」(南門)、「802Tr」(築地塀)、「803Tr」(東回廊)を実施。
山城高麗寺跡発掘調査図:「平成20年度・高麗寺跡発掘調査・現地説明会資料」 より(「19年度」資料を差替)
○高麗寺の立地
|
山城高麗寺跡遠望1:
左図拡大図
南(木津川方面)から北を撮影、寺院は木津川の河岸段丘上に位置する。
寺跡南辺(南門跡、築地塀)は河岸段丘縁辺部を造成し、その上に造作される。
同 2:
同上、向かって左(西)の発掘現場が南門跡、
右(東)の発掘現場が倒壊築地塀出土現場、その奥(北)の2本の落葉樹巨木の間の奥が塔土壇。
同 3:
手前発掘現場が南門跡、奥(真北)の一段上った道路下が中門跡、
さらに奥が金堂跡、やや右の赤白のポールのある位置が金堂土壇の残存部(東部分)、塔跡は金堂跡向かって右にある。 |
○南 門 跡 の 発 掘
2006年(第7次)発掘で、南門検出の手がかりを得たが、今回は南門跡をぼぼ検出する。
南門規模:桁行20尺(5.94m)、梁間12尺(3.56m)。
南門形式:切妻造・八脚門、屋根本瓦葺・鴟尾を載せる。礎石は12個中3個が遺存する。
南門北には中門へ続く幅6尺(1.78m)の石敷がある。
以上により、金堂・塔・講堂の配置は法起寺式伽藍であるが、門は伽藍中軸線(金堂と塔の間)上に位置せず、南門-中門-金堂が一直線に並ぶ伽藍配置であることが判明
する。
|
高麗寺南門跡全貌:
左図拡大図
西南から撮影、中央左
(東)に2個(斜めに並ぶ)・中央やや上の右(西)から1/3の所に1個の門礎石がある。
同 11:東から撮影、南門跡全貌、左の上に2個の門礎石
がある、
同 12:西から撮影、右側の上に2個の
、さらに上に1個の門礎石がある。
同 13:東から撮影、手前(写真下)
に1個、奥(写真上)の左寄りに2個の門礎石が遺存する。
同 14:北から撮影、2個の門礎石
。
同 15:東から撮影、1個の門礎石
。
同 16:北から撮影、南門に取付く東側崩落築地塀
。
同 17:北から撮影、参道石敷、前方(上)は現在の木津川堤防
。
同 18:同左
、参道石敷は南門から中門に至る。
同 19:西から撮影、参道石敷
。 |
この異例な(南門・中門が伽藍中心から西に寄る)伽藍配置の理由については、以下のように推測される。
高麗寺の創建は7世紀初頭に溯るが、伽藍整備は7世紀後半と思われる。
(7世紀後半の伽藍整備は大和川原寺創建と同笵の瓦が用いられる。)
つまり、高麗寺創建時(飛鳥期)には、金堂一堂形式の寺院であった
可能性があり、もしそうであったとすれば、7世紀後半の伽藍整備の時も、この創建期の伽藍配置が影響を及ばしたことが考えられる。
あるいは単に金堂を重視した結果とも思われるが、なぜ金堂を重視したのかの合理的な説明はつかない。
なお今般の調査で、飛鳥寺創建期軒丸瓦と同笵の瓦が完全な状態で出土と云う。
高麗寺出土軒丸瓦飛鳥:過去に出土、飛鳥期軒丸瓦
同 白鳳:過去に出土、白鳳期軒丸瓦
◇高麗寺南門推定復元図:「平成19年度・高麗寺跡発掘調査・現地説明会資料」 より
但し、南門跡から鬼瓦の出土を見ると云う。(大きさは推定凡そ3尺×3尺と云う。)
それ故、鴟尾を載せた姿は次の復元図の感じであろう。
◇高麗寺南門推定復元図(鴟尾付):「平成19年度・高麗寺跡発掘調査・現地説明会資料」 より
南門跡から鬼瓦が出土と云う。
南門跡出土鬼瓦1
同 2
同 3
※この鬼瓦は南門跡から出土し、従って南門の棟を飾っていたものと推定される。
○築 地 塀 跡 の 発 掘
築地塀の最古の違例を良好な状態で発掘する。
奈良期(8世紀)では、寺院の外郭施設として築地塀は一般的になるが、7世紀段階では築地塀の違例が発掘されたことは無い。
今般検出された築地塀跡は出土瓦から7世紀後半のものであり、そうであれば、今般の築地塀跡は最古の違例となる。
※飛鳥寺南辺、川原寺の南辺・東辺で築地塀のあった可能性が指摘されるも、遺跡の出土を見てはいない。
今般、南門に取り付く南辺で、段丘縁辺部に構築された築地塀が内側(北側)に倒壊する良好な状態で出土する。
特に瓦は、築地に葺かれた状態と思われる状況での出土も見られる。
※南からの強風での崩壊あるいは強大な地震の第一波の揺れで、築地瓦が崩落したとも考えられる。
|
高麗寺南辺築地塀11:西から撮影
同 12:西北から撮影
同 13:東から撮影
同 14:北から撮影、瓦の散乱、写真上の土の基礎は築地塀下部
同 15:北から撮影、同上
同 16:北から撮影、同上、丸瓦の形状から、行基葺であった
と推定
同 17:北から撮影、土壁下部および倒壊土壁の断面
同 18:散乱瓦、丸瓦は行基瓦を使用、写真上の行基瓦の「葺いた状態」での出土は下記の写真19を参照。
同 19:
左図拡大図
行基瓦は少なくも4〜5枚が重なり「葺いた状態」のまま落下したものと推定され、この先端には軒丸瓦が組み合わされることを想定すれば、築地塀の屋根瓦の出は少なくも5〜6枚以上と推測される。 |
以下は何れも出土軒丸瓦:
同 20
同 21
同 22
○高麗寺東回廊跡:
山城高麗寺東回廊跡:発掘図の「803Tr」、回廊の瓦の散乱を見るが、詳細は不詳。
2009/02/10追加;
★2008年度発掘調査報告・高麗寺跡第9次発掘調査(現地説明会2009/02/07)
※参考文献:「平成20年度・高麗寺跡第9次発掘調査・現地説明会資料」木津川市教育委員会、2009/02/07
山城高麗寺跡発掘調査図:「901Tr」は築地塀跡西端、「902Tr」は築地塀跡東端、「903Tr」は講堂西基壇・北回廊跡
○講堂跡
講堂基壇は三重構造であることが確認される。
即ち地覆石の上に瓦を平積にし、その下段周囲を幅2.5尺(75cm)・高さ約15cmの外縁を玉石で囲んだ土壇を設け、さらにその外廻りを石列が廻る三重構造を検出する。
(但し、一番下が一重目なのかどうかは見解の分かれるところではある。)
※塔及び金堂基壇は地覆石を用いず瓦を平積にし、その周囲は5.5尺(165cm)巾の石敷を廻らすものであった。
○北回廊
講堂に取り付く北回廊(西側)を発掘。
北回廊遺構1:手前の散布瓦は西回廊跡、中央より上部が北回廊跡
北回廊遺構2:写真手前及び上部の散布瓦は回廊落下瓦
北回廊遺構3:手前の石列は北回廊地覆石、上部右に2個の回廊外側柱礎石、その左は瓦敷の地覆と思われる。
北回廊遺構4:中央手前は北回廊外側柱礎石、その上部・写真中央は瓦敷の地覆。
北回廊遺構5:北回廊外側瓦落。
○西回廊
西回廊跡散布瓦
○南辺築地塀東端
南築地塀東端 南築地塀東端瓦散布 南築地塀東端出土瓦当
○南辺築地塀西端
南築地塀西端遺構1:左から南築地塀・V字南北溝・西端上土塀遺構
南築地塀西端遺構2:手前から同じく南築地塀・V字南北溝・西端上土塀遺構
南築地塀西端 南築地塀西端出土瓦当
V字南北溝:溝は上肩巾約3m深さ約1.7mで、築地塀を分断する。境内内部の排水を果たすためと考えられる。
西側上土塀:築地の西側は上土(あげつち・屋根瓦を伴わない)の塀であった。
2006年以前作成:2020/09/25更新:ホームページ、日本の塔婆
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