在 小 田 原 松 永 記 念 館 心 礎 (松 永 コ レ ク シ ョ ン ・ 播 磨 国 分 寺 心 礎)

在小田原松永記念館心礎(松永コレクション・播磨国分寺心礎)

ことの発端

2022年12月「古代山城研究会」代表向井一雄氏より次の一報をいただく。
 小田原市松永記念館にて「播磨国国分寺の塔心礎」と説明板の付いた大きな塔心礎と手前に柱座のある礎石が置いてある。
しかし、播磨国分には、整備された塔跡があり、礎石も心礎も現存している。
では、松永記念館にある心礎の出所はどこなのか?、そもそも本物なのか?
かつては、骨董商が売る時に元々の出所が隠して新しい出所を偽って付けることが多いと聞く。
最近では、水城の西門近くに置いてある礎石(唐居敷)が贋作だったと判明したケースもある。
 と。
なお、向井氏には古代山城に関する著作のほか、石製唐居敷について次の集成もある。
「石製唐居敷の集成と研究」向井一雄(『地域相研究』第27号、地域相研究会、1999 所収)
次は上記でいう贋作である。(写真は向井氏ご提供)
 水城の西門付近の贋作という唐居敷1     水城の西門付近の贋作という唐居敷2
贋作と判明した経緯・根拠はWebで調査するもヒットせず、不明。

なお、「X」氏からも、次の示唆を頂いている。
◇サイト:「ひらかた京町」の「家の庭と剪定」>「伽藍石」のページには次のようにある。
 「明治になって、江戸時代のような商家に対する規制がなくなり、すこし贅沢な庭を自分の家にも持ちたいと考えた人達が、茶庭などをまねして町家の庭にも伽藍石を置くようになりました。しかし一般の人達が争って伽藍石を自分の庭に置けるほどの数の廃寺は京都といえどもありません。したがって、明治期に作られた庭の伽藍石の多くはイミテーションであったと言われています。ひらかた京町家の伽藍石も、もし本物だとすると大仏殿クラスの礎石になりますから、イミテーションであることは確実です。」

松永記念館所在の心礎・石造物

2023/05/21撮影:
松永記念館に在る心礎は「播磨国分寺心礎」と表示・展示されている。
心礎の大きさは凡そ170×190×130cmを測る。(高さ130cmは見える高さ)
表面は削平され、その中央に凡そ径50cm深さ19cmの枘孔を彫る。
さらに、枘孔の底中央付近に一片凡そ9cm深さ7cmの舎利孔を穿つ。
当日は枘孔などの水及び汚泥・舎利を掻き出す道具の持参をしていなかったので、舎利孔は水中にある状態での観察となり、仔細には分からないが、蓋受孔は彫られていないように見える。(舎利孔の大きさは不正確である可能性あり。)

 播磨国分寺跡には今までの調査研究で、東塔跡には心礎及び礎石が、少し動いているものもあるが、ほぼ原位置を保ち、現存する。
また、現在までの知見では、東塔の対象位置には西塔跡が確認はされてはおらず、播磨国分寺は一塔形式の伽藍であったとされる。

観察する限り、本心礎はまず間違いなく古代寺院の心礎であることは間違いなく、贋作である可能性はほぼ無いと思われる。
それは、心礎である十分な大きさであること、枘孔と思われる正円の円孔があり、さらに珍しい四角形の舎利孔を備えていること、多少欠損しているが、円孔に周囲には微かに柱座らしき削平があることである。
なお、本心礎の前には形70cmの柱座を持つ礎石が置かれている。
もし、この礎石が本心礎と同じ石質であるならば、これらはセットであると考えられ、この礎石と同じ石質・類似の礎石が残る塔跡などがあれば、本心礎の出所が判明する可能性があるかも知れない。

在松永記念館心礎11:左図拡大図
在松永記念館心礎12
在松永記念館心礎13
在松永記念館心礎14
在松永記念館心礎15
在松永記念館心礎16
在松永記念館心礎17
在松永記念館心礎18
在松永記念館心礎19
在松永記念館心礎20
在松永記念館心礎前礎石1
在松永記念館心礎前礎石2
伝大和不退寺礎石:j本礎石は計測せず。  →大和不退寺
おそらく周囲は割られているものと思われ、大きさから「出枘式心礎」と見ることも可能かと思う。
 伝大和不退寺礎石1     伝大和不退寺礎石2     伝大和不退寺礎石3
伝大和長岳寺五重石塔
 伝大和長岳寺五重石塔
 伝大和長岳寺石橋1     伝大和長岳寺石橋2
  なお、京都北村美術館・四君子苑庭園には「長岳寺愛染堂礎石」が蒐集・展示されている。
伝大和東大寺石造蓮池
 伝大和東大寺石造蓮池1     伝大和東大寺石造蓮池2

○「調査報告 松永記念館庭園の石造遺物」斎藤彦司(「小田原市郷土資料館研究報告 bS8」小田原市郷土文化館、2012 所収) より
 調査対象は、一応庭園内の全石造物ということであったが、ひとまずは、奈良・京都の古刹等から移されたものもの14点に絞り込んで調査を実施する。
しかしながら、なぜかは分からないが、本報告書には播磨国分寺心礎及び不退寺礎石については取り上げられていない。
 本報告書では以下の14点の石造遺物の報告がある。
1.(大和)長岳寺五重石塔:総高293.5cm(収蔵庫保管の相輪を含む)、平安期
2.(大和)長岳寺石橋:長297cm、巾90〜107cm、年代は不詳  →大和長岳寺笠塔婆(五智堂)、→大和長岳寺
3.(大和)東大寺石造蓮池(一文字型手水鉢):203×123cm、地上高47cm、鎌倉期   →大和東大寺
4.路地行灯、5.織部型燈籠、6.石灯篭、7.羅漢像、8.石製炉、9.九重塔、10.三重塔(層塔型石灯篭)11.松下亭石灯篭、12.道祖神、13.墓碑、14.円形反花座(石灯篭基礎か)
 なお、庭園内には耳庵の収集したもの以外に、その後随時持ち込まれたものもあるが、何れの場合も設置の経緯の詳細は判然としない場合も少なくはないので、追跡調査が必要であるという。

小田原市郷土資料館(松永記念館)の見解

2023/06月、小田原市郷土資料館にと心礎について問い合わせ
次の回答を得る。(大意)

 播磨国分寺心礎については調査中であり、また調査は継続する予定である。
記念館・郷土文化館の資料中に、購入時期・購入先についての記録などを探すも、現在のところ、発見できていない。
また、小田原市郷土文化館の古参の関係者に本心礎に関する事情を聴くも、経緯を知るものはいない。
従って、本心礎の伝来については現状は全く不明である。
 播磨国分寺心礎とされる石造物については、贋物であるとの指摘もあるであろうが、心礎であることは間違いないと思われる。
その大きな根拠は、松永耳庵は実業家として功をなし、茶人・古美術収集家として古美術品を収集したが、松永耳庵の古美術への鑑定眼・目利きは第一級のものがあったと考えられ、例えば石造品であっても、いわゆる美術品商に贋物を掴まされるということはまずないものと判断される。
 なお、松永記念館展示で心礎を播磨国分寺としている根拠は、記念館開館にあたり耳庵コレクションの「目録」に「播磨国国分寺心礎」とあり、現状ではそれが唯一の根拠であり、それに従ったものである。


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