山  城  国  分  寺  跡

山城国分寺跡

山城国分寺跡の概要

2000/12/03撮影:
当地は恭仁京の跡であり、恭仁京は聖武天皇によって、平城京より天平12年(740)に(5年間)遷都された都であった。
木津川北岸・海住山寺南方の平野にその跡がある。天平18年(746)遷都とともに恭仁京は山城国分寺に施入される。
現在、田畑中に大極殿(金堂)跡土壇と字塔ノ本に東塔跡と言われる土壇と巨大な15個の礎石が現存する。
かっては東西の七重塔が建立されていたと推定。塔基壇は一辺17m、瓦積基壇であり、塔跡周囲から土塀らしい遺構が検出される。
心礎は径1.2mの柱座と出臍を持つ。ほかの礎石も精巧な加工がなされる。
 山城復元塔模型<京都府山城郷土資料館常設展示>
2000/12/03撮影:
 山城国分寺塔跡1     山城国分寺塔跡2


山城国分寺および山城国分寺塔跡については、恭仁宮跡の調査として、昭和49より現在に至るまで発掘調査が継続中である。
しかしながら、国分寺及び国分寺塔跡の概要については、大正12年 に刊行された「京都府史蹟勝地調査曾報告」にほとんど全てが網羅されると言っても過言ではないであろう。

「大正12年3月 京都府史蹟勝地調査曾報告 第四冊」(瓶原國分寺址)、京都府、1923年刊 より

 瓶原國分寺址ハ相樂郡瓶原村大字登大路ニアリ、泉川ノ北方高臺上ニ位置セル小字中切ニ今マ僅ニ其ノ寺號ヲトゞムル小堂ト古ノ堂塔ノ遺址トヲ存ス。此ノ國分寺址ハ「續日本紀」天正十八年九月戊寅(二十九日)ノ條ニ「恭仁宮大極殿施入國分寺」トアルモノニ當ルヲ以テ、恭仁宮址ト相關聯シテ府下ニ於ケル最モ重要ナル史蹟ト云フ可シ。
・・・以下略・・・

遺跡ノ現状:
 遺跡ハ登大路村落ノ南々東方、北ヨリ南ニ延ビタル高臺上ノ伊賀街道ニ接セル部分ニアリテ、小字中坊ヨリ溝垣内ノ一部ニ亘レリ。此ノ處今マ街道ニ沿ヒテ數戸ノ人家アリ、人家ノ北西ニ接シテ瓶原小學校建チ、マタ道ヨリ入ルコト約四十間ニシテ村社御靈神社ノ杜ヲ存ス。
 而テ小學校ノ北ニ接シテ今マ村役場ノアル處ハ、東西約三十五間、南北十五間、高サ三四尺ノ東西ニ長キ土壇ヲ形成シ、マタ其ノ東南約一町ノ田圃中ニ一邊六間内外、高サ三尺ニ近キ土壇ノ介在セルヲ見ル。コノ兩者即チ國分寺遺址ノ主要部ニ當リ、共ニ礎石アリ。
 (圖版第二十六參照) :山城国分寺遺跡概要図
 前者ハ恐ラク金堂址ナルベク、壇上村役場ト並ビテサゝヤカナル本堂ト鐘樓トニ依テ僅ニ國分寺ノ名ヲ傳フルモノヲ存セリ。其ノ後者ハ現存礎石ノ配列ニ本キ、マタ附近ヲ字塔ノ本ト呼ビ七重塔アリシト傳ヘテ大塔址タルコト疑フノ餘地ナシ。
 二者ノ外關係ノ遺跡トシテハナホ小學校ノ運動場(圖版第二十六ノ地圖ノIIノ位置)ニ一個ノ礎石ノ遺存セルアリ、明治四十一年春、大西源一氏調査ノ際ニハ小學校ノ東南道路ニ接近シタル處ニ礎石一個ノ存セルヲ見、マタ同地奥本氏ガ更ニ南方一町餘ノ田圃中ニモ礎石ノ埋沒セルモノアルヲ注意セシヲ擧ゲ、コレ等ニ就イテ前者ハ中門址ニ當ルベク後者ハ南大門址ト見ルベキカト云へリ。
 但シ現在ニテハ前者ノ位置ニ人家建チテ既ニ礎石ヲ失ヒ、後者マタ地上ニ何等遺跡ノ形迹ナク、發掘調査ヲ行フニアラザルヨリハソノ原形ヲ確メ難シ。

 上述二個ノ土壇中、前者即チ小學校ノ北ナル一ハ既ニ略記セシ如ク東半ニ村役場建チ、マタ西半ニ國分寺アリ、ナホ南ハ小學校ノ校舎ニ接近シ、東ハ道路通ジテ一部分ヲ削レル爲、形ヲ變ゼル部分洵ニ少ナカラザルモ、東西ニ長キ土壇ノ舊形ハホゞ存セルガ如ク、礎石ハ村役場ノ前庭ニ置ケルモノゝ外、西方隅ニナホ原状ノマゝヲ遺存セルモノ兩三個アルコト注意ヲ惹ク、此ノ原形ノマゝナリト認メラルゝ礎石ハ土壇ノ西端ヨリ約二間内外ノ南北線上ニ位置シテ三個アリト云フモ、今マ中間ニ堂宇アル爲、明ニ認メラルゝ北端ト南端トノ二者、即チ兩隅柱ノ礎ノミナリ。兩石ノ中心間ノ距リ六十六尺五寸ヲ示ス。
 礎石ノ形状ハ南端ノモノ今マ層塔ノ臺石トナレルガ上ニ上面麿削シテ造リ出シノ細部ヲ明ニセザルモ、ヨク原形ヲトゞメタル北西隅石ニ依ルニ、(圖版第二十七ノ(一)及ビ第二十六ノ(I)ノ形状細圖參照)中央ニ徑三尺五寸、高三寸ノ圓形造リ出シヲ設ケ、南ト東トノ二方ニハコレニ壁下ノ材ヲ受クル爲ノ挟石ヲ繰リ添ヘタル式ニシテ、花崗岩加工ノ精巧ナルモノ、奈良時代ノ特色ヲ示セリ。

〇2005年山城国分寺現況:
 山城国分寺跡金堂土壇遠望




2005/04/17撮影:
山城国分寺跡金堂土壇遠望:左図拡大図
北方より遠望:右手の堂宇は国分寺廃屋
山城国分寺跡金堂土壇礎石1
  同              2
  同              3
  同              4
2005/11/05撮影:
山城国分寺廃屋:現状国分寺はこの廃屋一宇を残すのみである。

〇2017年山城国分寺現況:
2017/11/12撮影:
以下遠望は海住山寺参道中腹から撮影、従って国分寺跡を北方から撮影。
 山城国分寺跡遠望1:中央やや下、向かって左から「塔跡」礎石、中央の木立は「鎮守」跡、その右は「金堂」跡土壇。
 山城国分寺跡遠望2:同上
 山城国分寺跡遠望3:同上
 山城国分寺塔跡遠望1     山城国分寺塔跡遠望2
 山城国分寺金堂跡遠望:向かって左は村役場があった場所、中央の石碑は恭仁京大極殿跡碑、左端の堂は国分寺廃屋。

 山城国分寺金堂土壇     山城国分寺廃屋     山城国分寺廃屋内部     山城国分寺金堂礎石
 近世国分寺石塔類
 近世国分寺墓石類:本写真以外にも10基前後の墓石類が残る。おそらくは近世国分寺住僧などの墓石であろう。

 今マ此ノ礎石ノ大サト上擧兩石間ノ中心距離−即チソノ上ニ建テル堂宇ノ一面ニ相當ル−トヨリ察スルニ其ノ建築ノ大サハ大和唐招提寺ノ金堂ニ相似タルモノナルベキカ。而シテコノ堂ガ國分寺ノ金堂址ナリトセバ、マサニ天平十八年ニ施入セテレシ恭仁宮ノ大極殿ニ外ナラザルヲ以テ、ソノ示ス處同宮殿ノ規模ヲ窺フノ資トモナル可シ。

 同ジ土壇上村役場ノ前庭ニ置ケル礎石ハ完形品二個ト破片兩三トアリ。是等ハ附近ノ田圃ヨリ掘出セシ礎石ヲ移セルモノナリト云ヒ、形前者ト異ナリ、圖版第二十六ノIIニ示ス如ク凝灰岩ヲ切リテ作レルモノ、一邊三尺七寸、高サ三寸ノ方形造リノ上部ニ更ニ徑三尺四寸ノ圓形造リ出シヲ重ネ、マタ其ノ方形造リ出シ部ノ一對ノ角ニ約四寸許リノ切リ缺キヲ設ケタリ。本來何レノ堂宇ニ用ヒラレシヤヲ詳ニセザルモ、何レモ同形式ナルニ見レバ同ジ處ニアリシモノカ。
・・・以下略・・・

 次ニ第二土壇即チ塔址ハ田中ニ介在セル高サ約三尺ノ方形芝生ニシテ、今ナホ大小十五個ノ礎石ノ整然トシテ遺存セルハ稀ニ見ル處ナリ。圖版第二十八ノ一ハ西方ヨリソノ土壇ヲ撮影セルモノ、又二ニ其ノ礎石ノ一部ヲ示セリ。
 礎石ノ配列ハ圖版第二十九ノ如ク、徑五尺三寸ノ圖形造リ出シアル大礎ヲ中心トシテ、其ノ周圍ノ對角線上ニ徑三尺四寸ノ圓形礎石二個ヲ放射状ニ並ベ置キ、外側ノ各礎石間更ニ二個宛ノ同形石ヲ配シテ、ホゞ方位線ニ一致スル方形礎石列ヲ作レル式ナリ。今マ東南ノ側石二個ヲ缺クモ其ノ一個ハ土壇中ニ埋沒遺存スルモノゝ如ク他ノ一個ハ破碎サレタルモ一部分ハ同ジ状態ニアリト見ユ。
 圖版第二十九(一) 瓶原國分寺址大塔址礎石配列圖

 

〇山城国分寺塔跡遠望

2005/04/17撮影:
山城国分寺塔跡遠望:左図拡大図
西方より撮影
山城国分寺塔跡遠望2

 各礎石中心間ノ距離ハ側礎ノ中間區十一尺四寸、兩端區十尺四寸乃至七寸ヲ示セリ。一々ノ礎石ノ形状ハ圖版第二十九ニ載セタルヲ以テ今マ其ノ説明ヲ省略スルモ、石質ハ花崗岩ニシテ、ソノ側石ニハ二重ノ繰リ出シノ外ニ「挾石」ヲモ造リ出セルト、中心更ニ六寸五分内外ノ突起ヲ設ケタル複雑ナル形状ヲ示セルヲ擧ゲ置ク可シ。
 圖版第二十九(二) 瓶原國分寺址大塔址礎石細圖

2007/09/10追加:
○「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より
 山城国分寺塔跡

 

〇2005年山城国分寺塔跡現況
山城国分寺塔跡礎石
2005/04/17撮影:
山城国分寺塔跡礎石1:南より撮影 :左図拡大図
  同         2:東北より撮影
  同         3:心礎
  同         4:心礎
  同         5:心礎
  同         6:心礎
  同         7:西側四天柱礎
  同         7:心礎・四天柱礎
  同         8:西南隅 側柱礎
  同         9:西北隅 側柱礎
「日本の木造塔跡」:
心礎・四天柱礎4、側柱礎10(東南隅とその北の2が不詳)
の合計15個が地表に出ている。東南隅礎石はおそらく横倒しで地中にあるようにも思われる。またその上の礎石も残欠が地中に残っているようにも思われる。
心礎は2,2×1.9mで、外径180cm、内径127cmの円形柱座(高さ15cm)を造り出し、径36×14cmの出枘を造る。
〇2017年山城国分寺跡現況
2017/11/12撮影:
 山城国分寺塔跡3     山城国分寺塔跡4
 山城国分寺心礎1     山城国分寺心礎2     山城国分寺心礎3     山城国分寺心礎4     山城国分寺心礎5
 心礎・四天柱礎1      心礎・四天柱礎2
以下いずれも北側から撮影:
 国分寺塔跡西側礎石     国分寺塔跡西2列礎石     国分寺塔跡東2列礎石     国分寺塔跡東側礎石
以下2写真は東側から撮影:
 国分寺塔跡北側礎石     国分寺塔跡北2列礎石     国分寺塔跡礎石その1     国分寺塔跡礎石その2

 此ノ塔址ハ礎石ノ示ス大サト手法トニ依リテ恐ラク五重塔カ若シクバ土人ノ傳フル如キ七重塔タリシナルベク、今モナホ附近ニ古瓦片ヲ多ク遺存シ、平瓦ニ押型ノ人銘アルモノヲ混ジテ本塔ノ建築ニ多數ノ人士ノ力ヲ合セタルヲ物語レリ。コノ古瓦ノ事後ニ記ス可シ。

 最後ニ瓶原小學校ノ運動場ニアル礎石ハ圖版第二十七ノ(二)ノ寫眞ノ如ク、長サ四尺一寸、幅三尺二寸ノ長方形ノ切石ノ上邊ニ長軸ニ並行シテ幅一尺八寸ノ挾石ヲ繰リ出シ、此ノ中央部ノ片側ニ圓形ノ造リヲ、マタ他方ニ同ジ幅ノ方形挾石ヲ造リ出セル特殊ノ形ヲナセリ。コノ礎石マタ後ニコゝニ移サレタルモノナレバ原位置ヲ詳ニセザルモ形ノ上ヨリ見レバ、或ハ門ノ側礎ノ一ニテモアルベキカ。石質ハ凝灰岩ナリ。

 以上ハ遺跡ノ現状ナルガ、其ノ礎石ハ何レモ奈良時代ノ特徴ヲ備ヘテ草創當時ノモノナルヲ示セリ。今マコレヲ奈良朝時代ノ佛寺ニ於ケル堂塔配置ノ明ナルモノニ參照シテ二個ノ土壇ヲ見ルニ既ニ初ニ一言セシ如ク前者ハ金堂址ニシテ後者ハ東塔址ニ相當ルベク、大西氏ノ見タリト云フ一礎石ハマサニ中門址ノ位置ニ存セシナリ。
 堂塔中同ジク重要ナル部分ヲ占ムル講堂址ノ全ク存スルナキハ一見或ハ七堂伽藍ノ完成ニ至ラザリシ爲カトモ思ハレ、西塔ノ存在マタ疑問ヲ挿マシムルモ、翻ツテ考フルニ現存礎石ノ壮大ト金堂土壇址ニハ他ヨリ移セル別個ノ礎石ノ遺存セルコト上述ノ如キトヲ以テセバ寧ロ是等ハ早ク破壞ニ遇ヒ址ヲトゞメザルニ至レリト解スルヲ穏當トスベク、特ニ塔址ガ中門金堂ノ中心線上ヨリ著シク東ニ偏在スルノ事實ハ西塔ノコレト相對スル西方ニアリシヲ推定セシムルモノナリ。
 而シテコノ偏在ハマタ他方ニ於イテ中門、金堂、講堂ヲ連ヌル廻廊建築ノ存在ヲ想定スル時ニ大和大安寺ノ伽藍及ビ東大寺ノソレノ如ク塔ハソノ外方ニ設ケラレシモノナルヲ示スニモ似タリ。


2013/10/26追加:
○「山城国分寺跡の調査」(恭仁宮跡発掘調査報告U」京都府教育委員会、2000 より
 山城国分寺塔院発掘図     山城国分寺塔跡発掘図
心礎には直径1.2mの柱座を有する。塔一辺は9.9m(中央間3.5m、両脇間3.2m)。側柱礎石には地覆も造り出される。
基壇は瓦積基壇で裾には幅60cm石敷の犬走りが設けられる。基壇端から約5m離れた周囲に幅1.5mの溝跡と共に塀の跡が検出され、塔院が形成される。

その後の山城国分寺

2017/11/27追加:
「京都の文化財(第25集)」京都府教育委員会、平成20年 より
恭仁京の「廃都」により、恭仁京大極殿を山城国分寺金堂に施入して、山城国分寺を整備する。
平安中期頃より、山城国分寺は南都興福寺支配となる。
 ※ただし、興福寺支配というのは「興福寺官務牒疏」に基づくもののようであるから、慎重に扱う必要がある。
 ※「興福寺官務牒疏」椿井政隆の信憑性については→椿井文書・興福寺官務牒疏を参照。
鎌倉期に入ると寺域は縮小され、寺域は耕地に変わっていく。
近世初頭、浄土宗の僧が阿弥陀仏を本尊として再建という。(「山州名跡志」)
明治維新の頃は山城国分寺は無住で粗末な庵が建つのみであった。維新後、海住山寺の住職が旧仏生寺の建物を移築し、山城国分寺を末寺とする。(「海住山寺所蔵文書」)
そのため、大極殿跡の基壇上には、本堂・庫裡・鐘楼が建つ状態であった。
昭和初期瓶原村役場庁舎が基壇の一画に建設される。
昭和15年、紀元2600年記念事業である「聖跡保存」事業の一環として、基壇上の国分寺庫裡・鐘楼及び瓶原村役場庁舎を撤去する。

山城国分寺異説

1)在平安京羅生門左・山城国分寺
〇「山城名勝志」記事:
「東宝記」に云う。羅生門の左に元山城国分寺あり。
今竹田村に小堂あり国分寺と号す。旧額を有す。
 桓武天皇平安京羅生門の左右に東西両寺を建立。左大寺(東寺と号す)は元山城国分寺の旧地に建立す。
  ※この「東宝記」の「羅生門左に山城国分寺があった」との記事は信ずるに足らずとの説が有力である。

2)在山城紀伊郡竹田・山城国分寺
〇「雍州府志」記事:
国分寺竹田にあり、本尊阿弥陀如来なり。旧額は堂楣(庇)にあり。

〇「都名所圖會」記事:
竹田里にあり。本尊阿弥陀仏。
又相楽郡に国分寺旧跡あり。後世此の所を移したるか。
 都名所圖會 ・国分寺:最下段の中央に竹田山城国分寺の屋根が描かれる。

〇「新撰京都名所図絵」記事:
国分寺跡:山城竹田安楽寿院の東約300m竹田小学校の南の地とする。
山城国分寺は南山城(相楽郡瓶原)の恭仁宮跡地と云われるが、江戸時代にはこの地(山城竹田)も国分寺跡といわれた。
明治7年竹田の国分寺は廃寺となり、附近の安楽寿院に合併される。
安楽寿院には国分寺木額と国分寺旧仏と伝える阿弥陀如来(藤原初期)が受け継がれる。

2007/12/14追加:
〇「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
附近の安楽壽院に「元暦元年(1184)仲秋吉辰」の偽銘のある木額ともと国分寺の本尊と伝える高さ60cm位の木像を蔵する。  


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