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今津灯台 Imazu
Lighthouse
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今津の酒造家「大関」醸造元、長部家五代目長兵衛によって、今津港に出入りする樽廻船や漁船の安全を願い文化七年(1810年)に建てられた灯明台が「大関酒造今津灯台」の起源です。その後六代目文次郎が再建、台石の「象頭山常夜燈」は海の守り神金比羅宮奉納を表し、この高燈籠様式の灯台に、今津の人々は深い親しみと郷愁を感じています。古い行灯式灯台は今も現役で活躍しており、市の文化財指定を受けています。 |
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日本の洋式灯台点灯100年の記念年にあたる1968年(昭和43年)には、航路標識として海上保安庁から正式に承認され、海図や灯台表にも登載される民営灯台となりました。その名も「大関酒造今津灯台」が公認名称です。
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木造の袴腰付灯籠形行灯式灯台で、石の基壇の上に建つ高さ約6.7m、建設当時は油を燃料にしていましたが。大正年間に電化され現在では緑色の光(不動緑光)を、海の安全を守るため照らし続けています。
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左から樽廻船モチーフ、今津港築港二〇〇年記念碑、通船安全碑、福應神社御旅所碑
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港の対岸には今津砲台跡が |
西宮砲台
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今津砲台
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今津の海浜部に砲台が築かれたのは、江戸時代末期の事でした。当時、江戸幕府はたびかさなる外国船の来航に不安を感じ、沿岸防備のため大阪湾岸に多くの砲台をつくりました。砲台の位置は勝海舟が計画し、今津では港の入り口東側におかれました。砲台は文久3年(1863年)に建設が始まり、慶応2年(1866年)後半になってようやく完成されました。砂地に建てるため千本をこえる松グイを打ち込み、瀬戸内海中部の島々から運んだ花崗岩を積み上げました。通常の2倍の賃金で熟練工を集め完成を急いだがあしかけ4年を要する難工事となりました。砲台の大きさは直径10数m、高さ10mから12mで、二層目をめぐる方眼からは、大砲で四方をねらうことができました。大正4年(1915年)、民間に払い下げられたあと石を取るため壊された。ここに置かれた石材は砲台の一部である。 |
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西宮砲台
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砲台の高さ約12m、直径約17m。一階を弾薬庫(床板敷)と井戸。2階は砲眼11個と窓1個があけられ、据えられた大砲二門は全方位に発射が可能だったが実際には使われませんでした。工事は、文久3年(1862年)から慶応2年(1866年)まで続き、あしかけ4年間続きました。土堤でかっこた中央部に、松杭を1000本以上も打ち込んで基礎とし、花崗岩の大岩を組み上げています。
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アクセスまっぷ
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国道43号線、西宮インター交差点を南にまっすぐ、突き当たったところがヨットハーバーその先に以外と存在感を持って鎮座しています。 |