「非効率な民主主義」は、経済成長の誘惑に勝てるだろうか。
http://www.huffingtonpost.jp/yuuya…/post_8828_b_6385766.html
その他大勢の意見を取り入れようとするならば、時間がかかるのは当然であり、時間がかかっていてはこのグローバリズムの時代には生き残れない、こういった 認識は増えつつあり、ならばどうする、というところで、どちらをとるか的な話になる、つまりは民主主義を採用するか、それとも資本主義を採るか。
本来、両立していて当たり前の認識だったのだけれど、経済における国境が体をなさなくなり、両立するという前提が崩れてしまった。
ここで、「生き残れない」の主語、或いは主体は、「その他大勢の一人である私ではない」ということに気づいておかないとならないと思う。
日本語は便利な言語で、主体や対象が曖昧なままでも、なんだか、それなりに文として成り立っているような気がしたりするのだ。
主体に寄り添い、水を掬おうとしても、ざるで掬っているのと同じであるということに気づいているはずなのに、気づかぬ振りをする。なかなか・・・、勇気というものは、元からそこにあるのではなく、零から作り出していかなければならないものなのだろうなと嘆息する。
反省していることがある。
でしゃばり過ぎた。いや、これでもサイトを管理人として好意的な賑やかさの方向へと向かわせようとしたのだ。
ただ、私は人望が無いので誰もついてこないのだ。
結果、一人で踊るはめになったのだ。
こうやって、ぶちぶちと人の見ていない日記を書き綴るくらいが、私にはちょうど良い。
久しぶりに溶接機を引っ張り出す。溶接を始めたが、下手になったなぁと嘆く。
今度、自転車でジビエ料理を食べに行こう。と、思う。
ネスト大原野 美味しそうだ。
今村岳司・西宮市長「偏向報道のマスコミは取材拒否」について思うこと
私はかなりの時代劇好きで、特に1960年前後の、刀で切っても血が流れないチャンバラが好きだ。
むっつり右門、遠山金四郎、大岡越前、大好きだ。
でも、現代には必要ない、法律があるのだから。
内田樹をこの頃、よく読むけれど、現代は、法治主義から人治主義に変わりつつあると喝破する。
今回の事件でも、あえて、これを事件というけれど、
今村岳司・西宮市長「偏向報道のマスコミは取材拒否」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/23/imamura-takeshi-nisihonomiya_n_6535998.html
何故、彼はテレビ大阪を取材拒否としたのか、いや、それをしたのは、自身の思うところでない報道がなされたからだろう。私が言いたいのは、何故、彼が取材拒否という選択をなしたかということだ。
これは、このところ一連の一部後援拒否と重なる部分があると思うけれど、少なくともいい大人が、ここで、取材拒否をすれば、民主主義の崩壊だと叫ぶ人たちも現れるだろう、そもそも論にて、私のように、「これは理にかなっていない」、と思うのなら、テレビ大阪と西宮市が積極的に、一つの場にて討論するのが、もっともだと言うだろう。
何故、彼は討論ではなく取材拒否を選択したのか、また、選択できたのか、まるで大人の対応でない彼の行為が理解できないのだ。
そして、一人くらい、これ、まずいんじゃありませんかと進言する人間はいなかったのかと思う。
ただ、これが役所の基本対応として定着したとき、なんとも息苦しい時代が始まるのは間違いなく、私はそんな息苦しい時代に生きるのは嫌であるし、次の、そのまた、次の世代の人たちに禍根を残すことは避けたいと思う。
「生活保護」は、働いていても、若くても、持ち家があっても、車があっても申請可能です
http://bigissue-online.jp/archives/1017549370.html
幸い、なんとか、生活保護に頼らず暮らしている。ただ、個人事業主であるから、例えば、がんに罹って1ヶ月くらい仕事が出来なくなったらどうなるだろうか、不慮の事故で寝たきりになったとき、どうすれば良いのか。
セーフティネットという言葉すら、一般に使われ始めて数年、それなりに保険にも入ってたりはするが、心許なくはある。
多分、そういう気持ちが後押しするのだろう、ホームレスの人達の支援 ビッグイシューには関心がある。
ただ、なかなか、買いにいけない。京都市西京区、長岡京市や向日市辺りで販売してくれるとありがたいのだが。
さて、私は臆病者なので、もし、なになにになったらどうしよう、こうして、ああすればよいのだろうか。
と、仮定を想定し、次の一歩を組み立てようとする。
ただ、あまり、こういう生き方は多数派ではないようだ。
特に社会問題や政治問題、もしなになにだったら、という仮定をすることをどうも好まれないような気がする。
「そんな、縁起の悪いことを言うな、仮定の話をするな」で押さえ込まれてしまうこともある。
日本は言霊信仰というのが多分根深い。
悪い言葉を発すると、悪い事態を呼び寄せてしまうとするのだ。
ま、これはあながち、すべてを否定することは出来ない。というのも、例えば、「これから経済はどんどん悪くなっていくぞ」と言う人がいた場合、100パーセントではないだろうけれど、経済が悪くなることをいくらかは期待する。だって、悪くなれば、ほら見たことかと自説が証明されるのだから。
そんな人たちが増えれば、大きな潮流となる。
この辺の考え方は、内田樹氏の書籍を読むとわかりやすい。私も彼の文庫本はほぼ読んだ。
ただ、それだけでは、仮定を前提とした本来の議論を好まない国民性とでも言おうか、その説明には足りない。
もう一つは、流れにおもねる方が得であると学習した太平洋戦争敗戦という大事件をあげる必要がある。
開戦時、国民の多くはある種の熱気のもと、戦争に沸いた。
そして、敗戦でどうしようもない敗北を味わった。
太平洋戦争をどの時点で始まりとするか、人によって違うけれど、おおよそは、5年続いたとされていると思う。
戦争だ、頑張るぞと言っていたのだが、それから5年目、私たちの三世代ほど前の人たちは、1945年8月以降、なんとしても、私たちも被害者であるという姿勢を見せなければならなくなったわけだ、この辺りは、「拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙」を読むとわかりやすい。
つまり、マッカーサー元帥を救世主、私たちをひどい軍部から救ってくれた人という構図を作ることで、加害者にならぬよう図ったのだ。
さて、それと同時に、強烈に学んだのが、時代の変化を機敏に見て、「流れにおもねる」、「仮定を元に考えるのではなく、流れに添って考える」ということだ。
ここまで、書いて、なんだか、本名でタブーっぽいことを書きつつあるなぁとびびってきたので、また、何処かで、続きを書こう。そのときは、しっかりと推敲もする。
「身代金、自分で払わせれば良い」「危険承知していた」 拘束された2人にネットで吹き荒れる「自己責任論」- J-CASTニュース(2015年1月21日18時31分)
http://news.infoseek.co.jp/article/20150121jcast20152225847
自己責任という言葉は使ってはならない。
ま、自分のけつは自分で拭け、とは思うのだけれど、でも、自己責任論を展開することは許されないと思っている。
いくつか理由はあるのだけれど、まずは自分のため、ということか。
昔、とある政治家は人の命は地球より重いとか、おっしゃったらしいが、多分、彼も本当にはそう思っていなかったろう。私も、重いんだよとは、ちと、言いづらい。
でも、人の命は地球より重いと言うし、そのような行動を真摯に続けなければならないと思う。
単純に言って、命ってのはとっても大切なんだよという社会であるほうが、幸せに生きていけるのだ。
歩行者信号が青になって、老若男女、道路を渡る。左右を見ながら注意して歩く人はほぼいない、スマホみたり、俯いたり、前しか見ていなかったり。
なんて、緊張感の無さだとは思うのだけれど、その緊張感の無さでも、滅多に事故にあわない、命を落とすことがあまりない
というのは、なんと幸せなことかと思ったりするのだ。
つまりは、私たちは、私たちのために、自己責任という言葉を発することは、それを受け入れてしまうことは、とても危険だと思っている。
大根消費に困ったら...レパートリー広がる大根レシピを大公開!
このところのイスラム国の報道を見ていて、満州について再考したいと思ったのだけれど、夜中、お腹が減った、大根おろしの湯豆腐が食べたい。
これ以上、身体を悪くしても困るので、写真だけで満足しておく。
いかに軸となる側の足裏を浮かせるか。
体重の載っている側の足の裏を浮かせることができるか。
波脚を身につけるための基本練習の開発など。
回転掌の変化とか。
趣味でお話を書いています。
権利の主張とか、そういうのよくわからないのですけど(それなりになにか権利とかは私にあるだろうとか思ってはいますが)、書いた本人は、わりと気楽にたくさんの人に読んでもらえたら嬉しいなぁとか思っていたりします。
今のところ(2013年8月10日現在)、依頼により書いたものと、堰守物語は演じていただくのはだめですけど(権利関係がはっきりしていませんから)、それ以外は、お問い合わせいただきましたら、かなりに前向きに対応するかと思います。
物部俊之 czb17546@nifty.ne.jp
更新 2014.06.16 以降、当分、更新はお休みします
オーディオドラマシナリオ
舞台脚本
他人の文章を題材に、思ったことを書いています(50音順)。