戦禍の高校野球  

 

 時代(とき)を超えて

 昭和20年10月

 武原雄平(昭和17年主将)は、成東中(現成東高)野球場にいた。

 「武原、たけはらー」

 武原は、振り返った。

 「小川じゃないか、復員したのか?」

 「ああ・・実家へ行ったら、グランドへ行っているって聞いたから」

 「山木が戦死したんだってな」

 「やつは、特攻隊志願したからな。」

 武原は、理系の大学へ進学していたため、学徒出陣は、免れていた。

 「すっかり、イモ畑にされてしまったよ」

 武原は、グランドにローラーをかける後輩たちを見ながらつぶやいた。

 「予科練、七つ釦か・・・あの戦争は、俺たちにとって何だったんだ」

           *

 昭和16年12月8日 太平洋戦争に突入。

 野球は、敵性スポーツとされ、野球することが大変な時代だった。

 ストライクが「よし」ボールが「ダメ」アウトが「一本」と野球用語まで変えられてしまった。

 とうとう昭和17年 甲子園大会も中止に追い込まれていた。まさに暗黒の時代だった。

 甲子園大会に代わり、明治神宮壮行大会へとなり、武原を主将とする成東中学は、千葉県大会を優勝した。

 戸塚球場で、横浜商工と戦い延長戦で敗れたが、成東の名が初めて全国紙に載った。それは、成東高にとって画期的なことだったが、最初の悲運であった。

 昭和17年秋 野球部解散。

 部所有の用具をひとまとめにし、グランド北側の倉庫へ収め、いつでも野球が再開できるようにボールもできるだけかき集めた。

 武原は言った「いつか戦争も終わり、みんなとまた野球ができる日がかならずくる。だからみんな絶対死ぬな、生き抜くんだ」

 部員たちは、みんな下を向いて聞いていた。嗚咽するものいた。

                 *

 昭和20年8月15日 戦争は、終わった。

 勤労動員された生徒たちも学校へ戻ってきた。食糧難、国策のためイモ畑されていたグランドをローラーでならした。

 教科書もノートも鉛筆も満足にない、食料も乏しく、生きるのがやっとの時代だった。

 内山先生の熱心な働きかけで10月、野球部がほかの部にさきがけて再開された。

 グローブといっても今の園児が使うグローブよりも粗悪品であり、ヘルメット、レガースも当然なかった。バットには、「一億一心」「米英撃滅」といった焼印がおされ、ユニフォームもなくボロの下着、地下足袋、素足といった状態で、平成のモノ余りの時代では、考えられない想像の超えたものであった。

 しかし、これこそが戦後 成東高野球部の第一歩であった。

 また、昭和 戦後の時代 成東高野球部の幾多の悲運の序章にすぎなかった。

 武原は、成東高の甲子園出場の夢を追い、力の限り応援した。

 そして、夢叶わず、昭和51年 帰らぬ人となった。

            *

 時は流れ、平成元年 悲願の甲子園出場。

 先輩たちがなしえなかった甲子園の道が創り出された時だった。

 私は、武原雄平の子息 靖司とその恋人と決勝戦を観戦していた。

 時の高野連会長 松村(元成東高校野球部監督)は、挨拶で「・・・・・OB600余名の夢をよくぞかなえてくれた。錦上 花を添えたことを喜びとする・・・」とまで言い切った。

 それは、神の声といえた。

 優勝の興奮をそのまま、成東町へ車を走らせる。町は、優勝パレードを待つ、人、人、人であふれかえっていた。

 老婆は、言う「銚子商の木樽が、準優勝した時よりすごい人だよ・・・」と

 成東駅では、号外をもらい、優勝報告会へ・・・

 武原の家へ着くとすでに仏壇に号外が。

 「近所の人が持ってきてくれたよ」と靖司の母、秀子が言った。

                   *

 翌日、秀子は、夫雄平が眠る最福寺へ甲子園出場の報告に訪れた。

 墓前にて「雄平さん、ようございましたね。母校が優勝しましたよ 甲子園に出場するんですよ・・・」と語りかける。

 その時、秀子には、雄平の声が聞こえたような気がした。永い時代(とき)を超えて 武原雄平に届いた甲子園出場の報告だった。

 ふと空を見上げる。その空は、雄平との約束の地甲子園へ広がるすみきった碧だった。

                実話にもとづいたフィクションである

                  引用資料 九十九球史