白球よ何処へ


    (力投する成東高押尾投手)

 私の子供の頃(小三から中三にかけて)、千葉県高校野球界において、成東高校は全盛時代だった。
 小三の時、千葉寺球場(現青葉の森球場)へ近所の仲間達と銚子商の試合を観に行った。これが、私にとって最初の高校野球観戦であった。
 印象的な試合は、小学校4年の時の夏 春の選抜 ベスト8の千葉商と成東の試合で、4対1で成東高の快勝。そして決勝戦 銚子商と成東高の試合も観戦した。
 成東高校のエース鵜沢は、この年 ドラフト4位指名(大洋ホエールズ)。
 試合は成東高先制するも、中盤同点に追いつかれ、最終回劇的サヨナラ負け。
 私の心に、いつか自分も成東高で野球をやろうという気持ちが芽生えた瞬間だった。
 翌年からは、千葉高校野球史上に名を残す 悲運の好投手 成東高 鈴木孝政(のち中日 ドラフト1位)の大活躍が始まった。
 銚子商 根本隆(のち 大洋 ドラフト1位)との激闘は、球史に燦然と輝く。
 最高の思い出(最低でもある)の試合は、小学校六年の夏 東関東代表決定戦 成東高と銚子商の一戦。
 天台球場での試合は、球場に入れなかった人が3,4千人いたというほどだった。

(後、ドラフト1位の投手の対決は、おそらく今後はないだろう)

 私も、仲間とこの世紀の一戦を観戦した。 1点を争う試合は、銚子商が 1対0で勝利した。
 中学になり野球部に入ってからも、成東高と銚子商、習志野は、しのぎを削ってきた。しかし、球運なく成東高は、悲運の成東と言われたのであった。
 成東高が、あと一歩で甲子園といわれている中、私は、中三の夏の終わり、成東高で野球をすることを断念した。
 中学野球で、燃え尽きてしまったのである。
 そして、私の投げた白球は、いまだ落ちるところが判らないままなのである。

                                               (敬称略)

 『青春をかけて 対決 二人のエース』 昭和47年7月13日 千葉日報

対決する二人のエース