木製バットにこだわった男  

  

 知人の社長の紹介で篠塚和典(利夫)氏と会う機会があった。篠塚和典氏は、改めて説明するまでもないが・・・高校野球(銚子商)二年でサード、4番バッターとして甲子園でホームラン2本を放ち、夏の甲子園大会で優勝。のちジャイアンツにドラフト1位指名、プロでは、首位打者2回獲得、安打製造機と呼ばれた。

 その篠塚氏に聞いてみたいことがあった。それは、篠塚氏が2年生のときは、

金属バットが解禁であった。しかし篠塚氏は、一人木製バットを使用していた。

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そのことについて聞いてみた。

「新聞等では、プロでやるため、あえて木製バットを使用しているとのことでしたが、実際のところ、斉藤監督に言われてマスコミ向けの発言だったのでしょうか?」。

 篠塚氏は、「斉藤監督からは、特に言われてなかったです。むしろ斉藤監督は、金属バットを使うようにと指導していました。ですから、木製バットの使用は、自分の意思、プロでやるためだったんです。」

 そして、私は、続けて「成東高について、どう思われてましたか?甲子園での優勝は、圧倒的な強さでの優勝でしたが、県大会の成東戦では、延長12回 

2対1と接戦でした。試合中 負けるのではと考えませんでしたか?」

 その問いかけに「成東高との試合は、確かに、接戦でしたが、試合中に負けるのでは、と考えませんでした。負けると思った時、その試合は負けなんです。私たちの時代は、成東に勝つというより、習志野に勝つことが目標でした。ただ、成東には、孝政さん(鈴木孝政 中日)の時代がありましたから・・・」

 そう 成東高の鈴木孝政(のち 中日)が活躍していた頃の銚子商は、根本隆(のち 大洋)の時代で篠塚氏の上の世代だった。あの頃は、本当の意味で、成東と銚子商は、ライバル関係だった。

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篠塚氏との会話は、短いものだったが、篠塚氏の「野球をやる上で、一番大切なこと、それは、道具を大切にすることです。」の言葉は、心に染み透る言葉となった。

 篠塚氏のその瞳の光の奥から、「武士(もののふ)のような勝負師としての心の在り方」を教えられたような気がした。

                 平成23年 初冬(1月)

 追記  篠塚氏が、全国優勝した時、甲子園大会において、1回戦PL学園戦では、5対1、その後 決勝戦までは、すべて5点差以上での勝利で圧倒的強さの優勝でしたが、県大会での準決勝 成東戦では、延長12回 2対1の辛勝であったため、「成東高に、全国第2位の称号」と新聞に載っていた。

 また、篠塚氏の3年の夏は、銚子商 佐藤、一谷 習志野 小川(現 ヤクルト監督)成東 豊田、長島という好投手が揃っており、どこが甲子園に出場してもおかしくなかった。

 当時 銚子商は、習志野に苦手意識があり、習志野は、成東に練習試合では3連敗し、成東は、銚子商になかなか勝てない歴史があった。

 結局 習志野が甲子園出場し、全国制覇。

銚子商、習志野が甲子園連覇し、千葉 高校野球王国の時代だった。

               

                         (文中 敬称略)