〜夾竹桃の花咲く頃〜
「われら 夢の甲子園(新潮社)、九十九球史より引用・構成」
昭和45年 夏 千葉大会 決勝戦 天台球場。
銚子商5番、星山の打った打球は、右中間へ。
三塁ランナーが帰り、銚子商の劇的サヨナラ勝ち。
呆然とする成東高 三塁側応援席。・・・銚子商の甲子園出場が決まった。
閉会式に臨む成東ナインの中で、一人下を向き泣きじゃくる選手がいた。
「泣くな 坂、顔を上げろ」監督の松戸は絶叫した。主将の坂瑞夫であった。
叫ぶ松戸の目にも 光るものが・・・。
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ちょうどその2年前、それまで幾度となく甲子園あと一歩で出場できない成東高を思いやって、初老のOBが、
甲子園の出場の祈りと願いを込めた一本の夾竹桃を成東高野球場バックネット裏に植えていった。
しかし、昭和45年夏、昭和47年から昭和50年夏といずれも銚子商に1点差負け。
「もう成東高は、松戸先生は、甲子園に行けないのか。」誰もが思い、嘆きあきらめかけた甲子園。
銚子商、習志野の壁は厚かった。
そして、いつしか「今年こそ 甲子園へ」という声も聞かれなくなっていった。
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時は流れ幾星霜。
平成元年 重なる偶然、いくつもの奇跡が集積し、悲願の甲子園 初出場。
幾多の悲しみや涙 成東高野球部に関わる人々のそれぞれの人生を集約したドラマの完成だった。
平成元年 8月10日 第一試合 朝もや煙る聖地 甲子園。
試合開始前 内山(旧姓 岡沢 昭和51年卒 主将)が、ベンチ前に立つ木下監督に声をかけ、土の入った紙袋を手渡した。
木下が不思議そうな顔をすると、「これは、先輩たちの汗と涙のしみこんだ成東高野球場のグランドの土です。
どうか甲子園にまいてください・・・。」
「これほどまで、OBの想いは、強いのか・・・」言葉にならなかった。
木下は守備につく選手たち一人一人に成東高野球場の土を持たせ、この聖地に汗と涙のしみこんだ成東高野球場の土がまかれた。
そして、選手たちによって持ち帰られた甲子園の土も、成東高野球場にまかれたことはいうまでもない。
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成東高が、甲子園出場を果たした今。
甲子園出場の祈りと願いの込められた入魂の花 夾竹桃は、友情の花となり 成東高野球場バックネット裏に今では十数本が甲子園の季節になると花を咲かせている。
成東高 二度目の甲子園出場も近い。
(敬称略)
注:夾竹桃(きょうちくとう)・・・夏に花を咲かせることから甲子園の花と呼ばれている。