沖縄から逃げた知事とやってきた知事


         ― 沖縄県決勝戦秘話―

 昭和19年10月10日 那覇市は、米軍の大空襲をうけた。
 時の沖縄県知事は、すっかり震え上がってしまい、普天間の権現堂の洞窟に内政部長を連れて逃げ込んだまま出勤しない。
 県庁は、出張したまま行方不明の部長や課長も出て無秩序状態となっていた。
 そして、12月24日 知事は、東京に出張し二度と沖縄へは、戻らなかった。
 沖縄の窮地に、内務省も次の知事を決定できない。いかに内務省とはいえ、この時期に沖縄県知事に任命することは、死地に赴かせると同じだからである。
 そんな内務省が、白羽の矢を立てたのが、大阪府の島田叡内政部長だった。
 この時、45歳の地方官のホープであった。
 島田は、知事の打診をされ二つ返事で承諾した。
 妻は、猛反対したが、島田は「誰かがどうしても行かなあかんとあれば、俺が断るわけには、いかんやないか。

 俺は死にたくないから、誰か代わりに死んでくれと言えん。」
 こうして島田は、日本刀と青酸カリを懐に沖縄に単身赴任した。
 米軍上陸 二ヶ月前の事だった。
 島田知事の大車輪の活躍は、その日から始まった。

 二月下旬には、台湾に飛び、県民に食料米三千石も獲得した。
 4月1日 沖縄は、米軍の上陸を受ける。島田知事は、つねに県の職員を陣頭指揮し、住民とともに戦い続けた。
 そして知事は、司令官 牛島満中将が自決した3日後、行方をたった。
 拳銃で自決したとも、入水したとも伝えられた。
 いま、磨文仁の丘に建つ島田知事をはじめ県職員453名の慰霊碑「島守の塔」は、県民の浄財により建立された。
 また、夏の高校野球 沖縄県大会優勝校に授けられる「島田杯」は、島田知事への感謝を込めた記念杯でもある。
 

     ― 太平洋戦争の指揮官たち(新人物往来社  文 平塚柾緒)より要約 ―

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 優勝旗、優勝盾、そして島田杯が贈られるのだ。

 沖縄水産の栽監督は、かつてこう話した。

 「沖縄の高校が、夏の全国大会で優勝しなければ、沖縄の戦後は終わらない・・・・・・・・・」

                                           (敬称略)

 追記、 ついに沖縄の夢 興南が、平成22年夏の全国高等学校野球選手権に優勝しました。

 天国で、裁弘義氏は、どう思っているでしょうか。