悲運の成東 悲願の甲子園 


 平成元年7月、拓大紅陵との決勝戦前夜。
 成東高野球部、陰の監督、鬼の土屋こと土屋正守は、準決勝の拓大紅陵と八千代松陰の試合のビデオを何度も繰り返し見ていた。
 どうしたら甲子園にいけるのか、相手チームを分析した。
 特に4番冨田、5番長谷川は、注意をはらわなければ・・・
 そして、押尾の攻め方を考え、攻略メモを書き終えたとき、外はすっかり明るくなっていた。
 成東高と拓大紅陵との決勝戦は、鬼の土屋と名将の小枝の戦いでもあったのだ。


 当日のミーティングの際、押尾に攻略メモを手渡した。
 4番の富田には、カーブ勝負だと念を押した。
 試合は緊迫した投手戦となり、一進一退の攻防の中、成東が一点を取り、逃げ切りの様相を呈してきた。
 4番の富田は、押尾のカーブに、4三振と完全に押さえ込まれた。
 1点差で迎えた9回裏。最後のバッターもツーストライクまで追い込んだ。
 「あと一人」から「あと一球」へと応援の声が変わった。
 異様なまでの興奮状態が球場全体を包んでいた。
 押尾は、三塁側応援席に陣取る土屋に鋭い視線を送る。
 土屋の隣には、父親が座っているのがはっきりわかった。
 押尾は、キャッチャー八角のサインをのぞく。
 カーブのサインだった。
 押尾は大きく頷いた。
 押尾は渾身のカーブを投げ込んだ。
 そしてバットは、大きく空を切った。
 ・・・一瞬、時間が止まったかのようだった。
 ほんの少しの間をおいて大歓声に球場全体が包まれた。
 波打つスタンド、あちこちで抱き合い、涙し、万歳の嵐が巻き起こっていた。
 創部88年目の快挙だった。


 土屋は、まだ熱気に包まれる球場をあとにし、成東町の成川家へ向かった。
 成東高校野球部を物心両面から支え続けてきた成川 浩義氏(故人 歯科医師)へ報告に行くためだった。
 夫人が「もう半年生きていてくれたら・・・」と嘆くように話した。


 土屋は、甲子園出場報告会のあと、ただ一人、夕闇迫る成東高野球場にたたずんでいた。
 幾多の悲運、そしてあと一歩で逃し続けた甲子園。涙が頬をつたう。
 土屋は心の中でつぶやいた。「後輩よ ありがとう 球友よ ありがとう」
 そして、「白球よ ありがとう」と。
                                             (敬称略)

                   −九十九球史より引用・一部フィクションである−