はじめに  

 

 友よ 再び

 なぜ成東高野球部なのか?

 それは、子供のころから、受けた母親の影響が大きいと思う。母は、昔から高校野球、バレーボール、相撲、なんでもスポーツ観戦が好きなのである。

 今でも夏などは、予選から高校野球中継のテレビをつけっぱなしだ。

 私が子供のころは、銚子商の木樽投手が甲子園で準優勝した時(昭和40年)は、国道126号線のパレードに母に連れて行かれたし、静岡商の一年生エース新浦投手を熱狂的に応援していた。

 その翌年は、あの伝説となる松山商と三沢高 延長18回再試合もあった。

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 また母は、中学の美術教師として、九十九里東部中(現 九十九里中)

 成東中に在職し、教え子たちの中には、成東高野球部の主将になる生徒、主軸を任される生徒たちがいて、必然的に私自身も、成東高を応援するようになった。

 母が中学教員だった時代は、バレー、バスケ等の生徒たちの応援に私もよく連れて行かれたし、本当にスポーツを応援することが好きだった。教師として人として・・・

 そんな母から最初に教えてもらった歌や話は、「・・・杉野は何処、杉野はいずや・・・・・軍神 広瀬とその名を残れど」の広瀬中佐の歌だったり、乃木希典大将の幼少期の頃の話だった。

 戦後の色がかなり残っていた時代だった。軍人に憧れていた母にとって学校で学んだ日露戦争時代のころの話を私に聞かせたかったに違いない。

 私自身も、高校野球だけでなく、大学野球、プロ野球、高校サッカーなど観戦する。特に、母の教え子が活躍した成東高野球部だけは、特別な思い入れが強い。悲運の成東時代の試合をほとんど観戦しているから・・・成東高で野球をやることを希望していたのに中学野球で野球を終えてしまったことも成東高を応援することに拍車をかけている。

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 だが、自分自身の人生のなかで、挫折したり、心が折れそうな時、いつも心に「死んではいけない仲間たちの死があった。」

 そんな仲間たちに私は、声をかけたい。

 「いつか、この世界で巡り会うことができたら、あの時代に戻って、一緒に成東高で野球をしょう・・・今度こそ。」と