遠い日のアルバム  


 

 私は、4歳のころ成東町に住んでいた。そして浪切不動尊の近くの保育園成東愛児園に通い、その後 成東町立大富幼稚園へ入園。

 友達も多くでき、成東小学校へ入学するものだとばかり思っていた。

 しかし、父の仕事(国家公務員のち自営)の関係で、東金へ引っ越しをしなければならなくなった。

 私は、落胆した。子供の私には、どうしようもない事だった。

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 私の通った東金小(現 鴇金小)は、1,2年生は、東金分校、田間分校、嶺南分校、城西分校へ通い、3年生から本校に進むようになっていたマンモス小学校だった。

 本校は、毎朝8時15分になると「国旗掲揚の時間になりましたので、全員 国旗に向かって注目」と放送が入り、その時点で生徒が廊下にいようが、グランドにいようが、教室にいようが国旗掲揚台の方向に向かって直立する。そして「君が代」が流れるのである。

 今考えると、学校の教育方針とはいえ、子ども心に自分たちが「日本人である」という意識を強くさせられたことは、間違いない。

 「日の丸、君が代」は、私たちにとって、当たり前のことだったのである。

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 小学2年生のころから、野球に興味をもちはじめ、グローブとバットを買い与えられた。

 というか父親が、木の棒をバットがわりに年中振り回している私を見てあきれ返り、買ってきたというのが実際の話だった。

 成東高の応援し始めたのも小学3年生からであり、成東高が全盛期に入ったころであった。野球が好きな子供たちは、必然的に地元の成東高を応援するのであった。

 当時は、現在のような少年野球チームもなく、基本的には、ソフトボールが主流だった。人数が5,6人であれば、三角ベース、ある程度そろえば、本格的なソフトボールをしたのである。今思えば、純真に、真剣に、打ちこんだものだった。

 小学校5年になると必然的に子供会のソフトボールチームに誘われた。てる、修ちゃんと一緒に入った。

 6年になると「悲運の成東高」も最高潮に達し、千葉県高校野球もかなりの熱気に包まれる。私は、ソフトボールチームの主将となり子供会のソフトボール大会地区大会へ臨む。当時は、子供会のソフトボール大会が最大の大会だった。

 地区大会は、圧勝につぐ圧勝で優勝、市内大会も優勝。そして第一回山武郡子供会ソフトボール大会開催。

 その大会で私たちのチームは、優勝するのである。

 「みんなで、成東高へ進学して甲子園だ」私たちの壮大なる夢は、膨らんでゆく。(笑)

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 東金小を無事卒業した私であったが、卒業生たちは、東金一中、東金二中と分れなければならなかった。

 私は、東金二中へ入学となった。ただ統合中として決定していたため二学期からは、正式に東金中となるのであった。

 中学入学式の後、どう野球部に入部するのかと仲間たちと考えていたところ

 一年先輩のAさんが、「あそこに立っているのが、主将のOさんだ。行ってこいよ」

 Oさんは、180センチちかくありほとんど大人の体格だ。ズボンは、ラッパズボン、学生服の袖のボタンは、9個もつけて、切りツバの学生帽は、ペシャンコにしてかぶっている。正直 「えらい人が主将をやっている、こりゃ大変なことになりそうだ」期待よりも不安のほうが大きかった。

 成東高へ行って甲子園だ」と大いなる夢をもっていた私たちであったが、その現実のまえにつまずきそうになる。

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 東金小のスターで2年先輩のDさん(のち 成東高野球部主将)1年先輩のAさんなど知っていたので心強かった。

 しかしIさんは、野球選手というより柔道の選手の体格があり体全体からオーラが出でいた。ほかの3年生も体格がよく自分たちは、やっていけるのだろうか?1年生の誰もが思っていたことだろう。

 4月は、お客さん扱いだったが、5月の連休あたりからケツバットも日常化していった。だがそれは、ある程度手加減されていた。

 ところが、5月の下旬、前の日の雨でぬかるんでいたグランドでいつものように練習をし、

 Oさんがノックをしていた時だった。ひとりの先輩が、いきなり「1年チンタラやってんじゃねえぞ」私たち1年にケツバットをやりははじめた。

 「ビシッ バタ」「ビシッ バタ」と1年生は、次々と倒れていく。それは手加減してるように思えなかった。私もケツバットをうけ倒れる。

 やがて私たち1年生は、グランド整備ほかかたずけに入る。みんな暗い表情だ。

 夕闇の中、着替えの終わった主将のOさんが1年生全員に集合をかけた。

 そしてOさんを囲むように座った。

 「お前ら、なんでケツバットやられたかわかってんな。でもなこんなことでやめんなよ。お前たちがやめたら東金二中の野球部の伝統がなくなってしまうんだ。お前たちが、二中の伝統を創っていくんだよ。だからぜったい やめんなよ・・・・・」「押忍」

 私たち1年生は、みんな聞き入っていた。

 帰り際 Oさんから「伯耆原」と呼ばれた。私は全力疾走でOさんのもとへ行くと、サイフから3千円ほど手渡し「これで1年みんなでなんか飲めよ」

 「押忍」

 その当時の3千円は、今の価値からいくと1万円は、軽く超えているだろう。

 Oさんのその度量の広さとその渡された金額に私たち1年は、驚きを隠せなかった。

 学校の近くの石田商店で飲み食いした。

 みんな「Oさんってすげーな」と感動していた。

 そして私たち1年生は、また厳しい(?)練習に励むのであった。

 「成東高野球部、そして甲子園」は、私たちにとって遠い遠い夢物語だった。

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 東金二中から東金中へ統合。2年生の秋には、6番セカンドで新人戦優勝。

 3年の4月から大いなる夢をもって茂原市の野球の名門 富士見中に転校してゆく私であった。

 悲運の成東も終わることもなく・・・

                        つづく