親愛なるものたちへ  


 

 成東高と安房水産の試合は、2対2のまま延長戦になろうとしていた。

 自分にとって初めての成東高の公式戦観戦だった。

 当時小学3年生だった私にとって試合がどうなっていくのかドキドキだった。

 まさにその時だった。

 父親が「もう、帰んべ」

 私は、その言葉が信じいられなかった。「これからだろう。試合が面白くなるのは・・・」

 私は、やるせない気持ちでいっぱいだった。

 基本的に野球が嫌いで、ジャイアンツが嫌いな父だった。

 翌日の新聞で成東高が、延長16回 4対2で勝ったことを知る。

 昭和44年の夏だった。

                   *

 成東高が、悲運の、悲願のと言われ甲子園になかなか出場できない。

 そして私が、野球に夢中になっていくことが快く思わない父。

 中学で野球部に入っても、一言だけ「勉強だけは、ちゃんとしろよ」それだけだった。

 そんな父と高校へ入ってからますます仲が悪くなる一方だった。学校の成績が悪いこともあったが・・・父への反発もあったろう。大学へ進学してからもますます関係が悪化していく。

 学費をもらい、月々仕送りをもらい、本当なら感謝しなくてはならないのにもかかわらず・・・

 素直になれなかった。留年もした。

 専門学校にも行かせてもらい就職の世話までしてもらいながら・・・不平不満の日々、仕事に対する嫌気、人間関係、人間不信、親に心配や迷惑をかけ・・・本当に嫌なことばかりだった。

 すべては、自分自身に問題があるのに・・・責任転嫁ばかりしていた。

 そんな鬱積した日々の中、成東高に押尾健一という一人の少年を先頭にした巨大な流星群が私の前に現れたのだ。まさしく成東ファンの救世主だった。

 私は夢中で応援をした。会社の夏休みは、すべて応援にあてていた。

 準々決勝、準決勝は、宿敵 銚子商、習志野を連破、そして 甲子園出場。

 応援は、まとまりなかったが、怒涛の応援だった。

                     *

 それから何年か過ぎた。

 私も結婚をし子供ができた。父との関係も多少修復してきた。

 最初の子供が小学校へ入学してからだろうか?

 父が事務所に行く時間が子供が小学校へ登校する前の7時20分ころということに気がついた。

 家の前に車を出し、何かを見ているのだ。私は、最初何を見ているのか分からなかった。

 そして、それがわかる時が来た。

 7時25分に子供が学校に行く。その登校する姿を車の中から見ているのだ。

 姿が見えなくなるまで、それは、ほんの10分程の時間だった。

 孫の姿が見えなくなる。それから、父は、車のエンジンをかけ自分の事務所へ向かう。

 孫の登校する姿を見て「今日も、仕事 がんばるぞ」 そんな気持ちだったに違いない。

 最初に孫ができたとき「あと5年 がんばる」と言っていた父。2人目の孫ができたときもそう言った。孫の存在が、父の元気の源になっていたのだ。

 そんな父も、上の子の中学 入学式の日に他界した。

 亡くなる何日か前 父に言った。

 「花見に、行こうよ。みんなで・・・」

 父は、「花見?・・・行けるかな」

 「行けるよ、花見だったら、靖国神社、千鳥ヶ淵それとも茂原公園?」

と話しかける。

 父に反発していたころは、なかった会話だった。しかし、それもかなわなかった。

                  *

 それから5年の月日が流れた。

 下の娘が、今年の3月 小学校を卒業する。

 娘の小学校登校最後の日 7時20分 私は、門の前に立つだろう。そして娘を見送る。

その姿が見えなくなるまで・・・.

 亡き父のその深い愛情とともに・・・

                       平成22年 早春