蝦夷年代リンク
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蝦夷(天明・寛政・享和年間)

●天明2年(1782)
国後の首長ツキノエが抵抗から和親へ戦術を変え,蝦夷との交易を行う 飛騨屋が6年ぶりに国後へ商船を派遣する。

●天明4年(1784)
春−江差地方の鰊漁が連年不振のため,鰊を追って北上する追鰊漁が始まる。

●天明5年(1785)
2月−幕府が,蝦夷の物産と地理の調査,ロシアとの交易の可能性を探るため 調査隊を二手に分け、東西蝦夷地調査隊を派遣する。

●天明6年(1786)
5月−幕府調査隊の最上徳内らが得撫島、エトロフ島へ、大石逸平らが樺太へ到る。

●天明7年(1787)
8月−フランス人ラ・ペルーズが日本北方を探検し、樺太が島であることを確認する。

●天明8年(1788)
古川古松軒が幕府巡見使に随行して奥羽・蝦夷を巡り,紀行文「東遊雑記」を著す。

●寛政元年(1789)
5月5日−国後島と目梨(めなし=根室付近)のアイヌが蜂起する、和人らを殺害する。

●寛政2年(1790)
8月−4月に、松前藩から前年のアイヌ蜂起の事後処理報告をうけた幕府が, 町人を使った蝦夷地での事業経営方法について松前藩を譴責する。 冬−蝦夷・松前藩士蠣崎波響(かきざきはきょう)が,アイヌの風俗などを 描いた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」12図を描く。

●寛政4年(1792)
4月24日−後志(しりべし)地方が地震と津波に襲われる。
9月3日−ロシアの使節ラクスマンが,漂流民大黒屋光太夫らを伴い根室に来航、 交易を求める。
幕府が,アイヌとの交易の公正化をはかるため最上徳内らを宗谷・石狩に派遣し、御救交易を行わせる。

●寛政5年(1793)
6月27日−幕府代表がロシア使節ラクスマンと松前で会談し、外交交渉の窓口長崎への 入港許可証を与える。

●寛政8年(1796)
8月17日−ブロートンが指揮するイギリス船が、海図作成のため日本沿岸測量の途中、室蘭へ寄って 薪水の供給をうける。

●寛政9年(1797)
10月2日−幕府が津軽藩へ松前警備を、南部藩へ箱館警備出兵を命じる。
11月−ロシア人がふたたぴ択捉島へ上陸する。
ブロートン指揮のイギリス船がふたたぴ室蘭へ入港する。日本海をぬけ宮古島沖で坐礁、島民の救助を えて那覇港へ入る。

●寛政10年(1798)
3月14日−幕府が、近年の外国船出没などにより,最上徳内や近藤重蔵を含めた180名から なる大調査団を蝦夷地へ派遣する(11月15日、江戸帰還)。
7月27日−近藤重蔵がロシア人居住のエトロフ島にわたり、「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
12月27日−幕府が蝦夷地取締御用掛をおく。

●寛政11年(1799)
1月16日−幕府が、蝦夷地取締御用掛を拡充し、東蝦夷地を7年間仮直轄とし、各場所の請負人を 廃止する。
7月19日−高田嘉兵衛が択捉島への航路を開拓し島に到着する。
南部・津軽の両藩に、東えぞ地の警備を命ずる。

●寛政12年(1800)
3月−武蔵・八王子千人同心の子弟100人が、勇払(ゆうふつ)と白糠(しらぬか)に、警備と開拓に従事 することを許される。
7月−幕命をうけた近藤重蔵が高田屋嘉兵衛と択捉島へ渡り、アイヌの「同化」政策をはかる。

●享和元年(1801)
6月28日−幕府役人富山元十郎らが得撫島に「天長地久大日本属島」の標柱を立てる。

●享和2年(1802)
2月23日−幕府が蝦夷奉行を設置し,戸川安論・羽太正養を任命する。
5月11日−蝦夷奉行を箱館奉行と改称する。
7月24日−幕府が、松前藩から東蝦夷地を上知する。