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●天明2年(1782)
●天明5年(1785)
●天明6年(1786)
●天明7年(1787)
●寛政2年(1790)
●寛政8年(1796)
●寛政10年(1798)
●享和元年(1801)
夏−津藩、風雨、洪水での減収が14・5万石にのぼる。
神昌丸(じんしょうまる)の船頭大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら17名が江戸へ向かう途中、遭難し漂流する。
桑名藩で検地反対の一揆が起こる。
12月29日−尾張・美濃・伊勢の3国で銀箔の隠れ打ちが横行しているため、
幕府が銀類の専売厳守を命じる。
長島藩が藩校文礼館講堂を設置する。
亀山藩が藩校明倫舎を設立する。
秋−津藩、大風雨、水害などで領内大打撃を受け、米価暴騰、農民の窮状は悲惨を極める。
12月−本居宣長が藩政改革について「玉くしげ」「秘水玉くしげ」を著し,
紀州藩へ献上する。
3月18日−文人の庇護者である大坂の木村兼葭堂(けんかどう)が,本業の酒造業
での酒造高超過を咎められて地所・財産を没収され、伊勢へ移る。
12月16日−幕府が,一種の紙幣である山田羽書(はがき)の管理を三方会合所(さんぽうえごうしょ)から山田奉行に改める。
ロシア使節のラクスマンに伴われ、大黒屋光太夫ら3名がロシアから帰国し、翌年、
11代将軍徳川家斉に謁し、その前で審問をうけロシア事情を伝える。
津藩の土地均分策に反対して、津城下で3万人を動員、百姓一揆が起こる。(安濃津地割騒動)
本居宣長が主著『古事記伝』を完成させる。
本居宣長が72歳で没し、松阪の山室山(やまむろやま)に葬られる。