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●寛永5年(1600)
●寛永7年(1630)
●寛永8年(1631)
満濃池の全工事完成する。
●寛永16年(1639)
●寛永17年(1640)
●寛永18年(1641)
●寛永19年(1642)
西島八兵衛、満濃池の築造工事に着手する。
8月−徳川秀忠、慶長5年の朱印状通り塩飽(しわく)1,250石の領地を船方衆650人に安堵する(人名[にんみょう]制)。
8月15日−徳島藩と高松藩が逃散農民の相互引き渡し協定を取り決める。
藩地の生駒帯刀と江戸藩邸の石崎若狭らの対立が拡大する。
7月26日−幕府が播磨山崎藩主池田輝澄・讃岐高松藩主生駒高俊の領地を没収し,配流する。
石崎若狭ら一党の国元侍175人高松を退く。そのほか総勢3〜4,000人が家中を退く。幕府、生駒藩騒動
の処分として生駒正俊の封地を没収し、出羽国矢島1万石に移す。石崎若狭・前野次大夫らは切腹、
生駒帯刀は大名預けとなる。
讃岐は三分され、伊予大洲藩主・加藤出羽守、今治藩主松平美作守、西条藩主一柳(ひとつやなぎ)丹波守が
統治する。
山崎家治(肥後天草領主)、西讃岐の地5万3,000石に封ぜられる。山崎氏、丸亀へ入部。
水戸藩主徳川頼房の子松平頼重(常陸国下館5万石領主)、讃岐国東部12万石を与えられ高松城に入る。
山崎家治、丸亀城再建の工事を起こす。