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●延享2年(1745)
●延享3年(1746)
●延享4年(1746)
●寛延元年(1748)
●寛延2年(1749)
高松藩、農民が徒党して城下へ押し寄せること、町人に合力を強要することなどを禁止する通達を出す。
12月15日−高松藩が凶作により藩米3,500石を農民に貸与し,すでに貸し付け分の米・諸説の延納を認める。
●寛延3年(1750)
●宝暦元年(1751)
●宝暦元年(1751)
●宝暦2年(1752)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦7年(1757)
●宝暦8年(1758)
●宝暦9年(1759)
●宝暦11年(1761)
増田休意(きゅうい)・弟高松藩儒者菊池武賢、『翁嫗夜話(おうのうやわ)』を編纂(藩主頼恭[よりたか]
これを『讃州府志』と名付ける)。
高松藩、家臣への知行米渡しを中止し、扶持米渡しを3年間行う。
高松藩、領内に綿運上を課す。疫病流行。
綿運上に反対して領内西部の農民が綿総問屋宅を打ちこわす。
高松藩領内東部の農民が生活困窮を訴えて城下に押しかける。
1月15日−丸亀藩領内多度・三野(みの)・豊田郡の農民約2,000人が用銀
の返還・新規運上の停止などを要求して蜂起する。
高松藩、貸免の制始まる。
閏6月19日−大風と洪水に襲われる。
藩の保護のもとで高松藩領内に甘蔗(かんしょ=さとうきび)栽培が広まる。
7月4日−数日にわたって大風と洪水に襲われる。
6月−高松藩が.財政難のため藩士の禄の半分を徴収する。
高松藩、山田郡屋島の潟元(かたもと)に藩営の塩田を築く(「亥の浜」)。翌年「子の浜」も完成。
7月26日−大洪水に襲われ,堤防が数十か所で崩れて多数の死者をだす。
9月5日,ふたたび大洪水に襲われ,高松城が大破する。
高松藩、はじめて藩札を発行し、兵庫町に札会所をたてる。
西尾縫殿(ぬいど)、高松藩家老となって藩政改革に着手。
高松藩、倹約政治を始める。
高松城東門外に目安箱を置く。
高松藩が平賀源内の仕官さしとめを他藩へ触れる。