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●延享元年(1744)
●延享3年(1746)
●寛延元年(1748)
●寛延3年(1751)
●宝暦3年(1753)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦8年(1758)
●宝暦9年(1759)
伊勢亀山藩主の板倉勝澄が備中松山藩に移封され5万石を領す。
松山藩が本町に学問所を創立する。
勘定奉行命の備中地先干潟新開目論見をうけ倉敷代官千種清右衛門の備前・備中国境確定に際し、両国住民が激しく対立。備中側の国境相論に発展。
9月−幕府、備前・備中国境相論に備前側主張にそって裁許。
石井了節が地誌「備中集成志」を完成する。
7月−備中都宇郡2か村が,備前児島郡22か村を相手どり,児島湾の干潟をめぐり再度、国境争いをおこす。
新見藩が藩校忠誠館(しせいかん)を建てる。
6月−幕府が児島湾干潟をめぐる相論を裁許し備前・備中の国境が最終的に確定する。
2月15日−鳥取藩が、備中の者を米子での偽札使用の罪により備
中三原村で捕らえ,鳥取へ連行。8月26日、その者が自殺したため,伯耆と備中の国境に首をさらす。