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●延享2年(1745)
●延享3年(1746)
●延享4年(1747)
●寛延元年(1748)
●寛延2年(1749)
●寛延3年(1750)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦6年(1756)
●宝暦7年(1757)
●宝暦9年(1759)
5月6日−藩主吉徳、金沢着。
6月12日−吉徳死去。嫡子宗辰が相続。
7月2日−前藩主御側御用人・大槻内蔵允朝元、月番年寄横山大和守より蟄居を申し渡される。
12月8日−藩主宗辰死去。
1月−吉徳次男重煕(しげひろ=鏑木氏多見のお腹)が相続。前田家八世の藩主となる。
11月9日−加賀藩が藩士に妾を妻とすることを禁じる。
12月18日−大槻内蔵允、流刑を申し渡される。大槻養母・実母、男女7人の子供はそれぞれにお預け。
大槻自身も成瀬内蔵助にお預け。
4月18日−大槻内蔵允、越中五箇山の配所へ送られる。
6月26日−江戸屋敷御広式の御台子の間で、7月4日広式御能で、釜の湯に毒混入の疑いが医者
中村正白の調べで発覚。楊姫様付きの中老・浅尾に嫌疑がかかり、側用人・富田治太夫、牧彦左衛門、淨珠院
付きの御広式頭・大場三左衛門が詮議することになった。
7月11日−江戸本郷上屋敷にて浅尾が「真如院様より、少将様(重煕)・淨珠院様を毒薬で殺すよう
にと申し付けられました」と自白。10月4日に浅尾を金沢に送り、縮長屋に収容。
7月11日−真如院、金沢着。
7月14日−江戸表から浅尾自白の報が届き、真如院を金谷の御広式の続きの縮所に禁固。
9月12日−大槻内蔵允、配所越中五箇山の加賀藩縮所内で自害。
12月2日−大槻内蔵允兄、長左衛門、揚り屋で死亡。
2月14日−真如院、金谷の縮所で死亡。
8月−大槻内蔵允実母・恵照院(上田喜兵衛の娘)、揚り屋で死亡。
大槻朝元の一族および関係者の処分がおわり、加賀騒動が決着をみる。
加賀藩が財政窮乏のため、不換紙幣てある銀札を発行する。
銀札発行によって米価が高騰し、金沢で打ちこわしがおこる(宝暦の銀札くずれ)。
4月27日−加賀藩が,偽の藩札を使った町人を処罰する。7月25日には銀札の通用を停止する。
5月29日−大雨により,金沢城下で多数の家屋が倒壊する。
4月10日−金沢城下で大火がおこり、城下の1万余戸が焼失。城郭も全焼したため、5月22日,
幕府は5万両を貸し与える。