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●延享元年(1744)
●延享2年(1745)
●寛延元年(1748)
●寛延2年(1749)
●寛延3年(1750)
●宝暦2年(1752)
●宝暦12年(1762)
勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)、摂津・播磨・但馬などの国々を巡見する。
4月−摂津・河内・和泉・播磨などの農民約2万人が,年貢増徴
に反対して京都所司代、京都・大坂町奉行,さらに朝廷に訴え出る。
姫路藩主松平明矩、幕命により朝鮮通信使一行を領内の室津で接待する。
通信使応接のため町・村に各1万両の御用金を課す。
姫路藩領内で干魅・暴風雨による凶作のため年貢の減免・延納を求めて、城下近隣の村々の農民
が市川河原(姫路市)に集結する。
松平朝矩(とものり)、播磨国姫路15万石から上野国前橋15万石に移り、酒井忠恭(ただずみ)、
前橋17万2,500石から姫路15万石に入る。
酒井忠恭、前橋から移した藩校好古(こうこ)堂を開設する。
1月15日−姫路藩領内加古郡の農民が凶作のため減免・延納を要求して大庄屋宅を打ちこわす。
7月3日−姫路城下で洪水。300名余が溺死し,田畑583町余が被害をうける。
4月12日−姫路藩が経費節減のため26名の大庄屋を13名に滅らす。
大坂町奉行所、前年の姫路藩領一揆参加者の判決を下し、指導者甚兵衛らを磔刑に処する。
明石藩が藩札を発行する。
天川友親(あまかわともちか)、『播陽万宝(ばんようばんぽう)知恵袋』を著す。
平野庸修(ようしゅう)、『播磨鑑(はりまかがみ)』を著し姫路藩主に献上する。