神様はとっても厳しい方で、そんな方の御教えに従っていたら面白くも何ともない生活になってしまうことを恐れている人がいらっしゃるようです。
しかし、私たちがどれほどたくさんの罪を犯そうとも、そのお許しさえ願えば、お許しいただける、こんなやさしい方がほかにいらっしゃるでしょうか。私たちの神様は「愛」の神様です。神様の愛の大きさは、計り知れません。
何度も申し上げますが、神様はたった一人のお子様をこの世にお送り下さったのです。それも、私たち人間を救うためにです。私たちを天国に連れて行くためにです。
イエス様が十字架にはりつけになられたとき、地上にたった一人の人間しかいなかったとしても、イエス様は、そのたった一人の人間のためにご自分の命をささげられたでしょう。
それほどまでに、神様はこの世の人間を愛してくださっているのです。
イエス様の御ことばに耳を傾け、イエス様の御教えを信じる人は、死を恐れなくなるのです。
「私を信じる人は、永遠に生きる。」
私たち人間は、おそかれはやかれ、いずれ死を迎える日が来ます。体は、いつか必ず滅びるのです。
親しい人とのお別れは、確かにさびしいことではありますが、イエス様の御教えを信じるものにとっては、死はさほど悲しいことではありません。
死は天国の門なのです。終わりのない幸福の始まりなのです。
こう考えてみると、キリスト教の信者にとって、一番幸せな瞬間は、「洗礼」を受けるときと、そして死の瞬間だということがわかってきます。
イエス様は言われました。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
このことを物語るお話があります。
イタリアの中部、スバシオ山のふもとにアッシジという町があります。この町が生んだ有名な聖人が、聖フランシスコです。
様々な苦労の中にあっても、いつも朗らかで、子どものような天真爛漫なところのある聖人ではあったのですが、なんとこの聖フランシスコは臨終のとき、大きな声で歌をお歌いになったというのです。
その聖フランシスコの歌声を聞いたアッシジの人たちはみんな、フランシスコの病気が快方に向かっているものと思ったそうです。
たしかに、町の人たちがそう思っても不思議はありません。だれだって、臨終に際している人が大きな声で歌うとは思いませんから。
しかし、その聖フランシスコの歌は、自分が天国の門をくぐると知ったときの喜びから出た歌だったのでした。聖フランシスコの、神様に対する信頼とは、いったいどれほど強いものだったのでしょう。彼は、神様を信じて、そして、神様をだれよりも愛していました。
聖フランシスコが臨終の時に歌ったあの歌は、神様への賛歌だったのです。
聖フランシスコは、彼が大声で喜びを歌ってから3日目に、安らかに亡くなりました。
「大切なおはなし」もそろそろおしまいです。
私たち一人一人は、毎日の生活や、このめまぐるしく動いていく社会の中では、本当に取るに足らない存在なのかもしれません。そんなふうに考えて、気が重くなる日もあります。私一人ががんばってみたところで、何も変わるはずがない。そんな想いが頭をよぎることもしばしばです。
病気や苦しみのことを考えて、自分の将来に不安を感じることもあります。
でも、私たちは決してちっぽけな「ひとり」ではないのです。
さあ、勇気を出して神様のもとへ駆け寄りましょう。神様の御教えに耳を傾けましょう。そして、神様にこう申し上げるのです。
「お父さん、ごめんなさい。私は罪を犯しました。これからは私のことをお導きください。」
きっと神様は、ほほ笑みながら私たちのことを許し、やさしく迎え入れてくださいます。
皆様が神様の御教えに心を開き、そして本当のしあわせに巡り合うことができるよう、心からお祈りいたします。
この本を読んでくださった皆様の上に、神様のお恵みが豊かにありますように。