担当司祭から:2025年2月(バックナンバーはこちら)
聖女ベルナデッタ
(「道後教会だより」2025年2月号より)
来る2月11日、教会はルルドの聖母をお祝いします。これは、任意の記念日なのですが、ルルドの聖母の出現は有名なので、比較的よく知られている記念日だと思います。今回の教会だよりは、ルルドの聖母に出会った聖女ベルナデッタと彼女が聖母に出会った経緯について書きたいと思います。
ベルナデッタは1844年にフランスのルルドで生まれました。彼女の家は貧しく、さまざまな困難が襲い、苦しい幼少期を過ごしました。ベルナデッタも体が弱く、11歳の時にコレラに感染し、一命は取り留めたものの、これ以降、生涯にわたって喘息の発作に苦しむことになります。さらに追い打ちをかけるかのように、家族の経済状態は悪化し、とうとうベルナデッタは里子に出されることになりました。養母の家でベルナデッタは公教要理を学ぶ約束でしたが、その約束は十分に守られず、ベルナデッタは初聖体を受ける頃でも読み書きができず、三位一体の教義も知らなかったとされています。
そんなベルナデッタは1858年2月11日、昼食の支度のための薪を拾いに、妹と隣家の友人と共に、洞窟に向かいました。そして、妹と友人の二人は先に洞窟に入るための水路を渡ったものの、ベルナデッタは水路を渡るのを躊躇していました。母から水に浸かると喘息の発作が起こると言われていたからです。しかし、ベルナデッタが意を決して、靴下を脱いで水に入った時、大きな風の音がしました。ベルナデッタが前を見ると、洞窟の先のくぼみに白い服を着た女性が手招きしていました。その女性が聖母マリアだったのです。
けれども、ベルナデッタは最初その女性が聖母マリアだと思わず、誰か他の女性の霊であると思い、その善悪を確かめるために、聖母マリアに水を振りかけると、聖母マリアは微笑みを増していくばかりでした。ベルナデッタとともに、奇跡を目にした友人が「お名前を教えてください」と懇願すると、「その必要はない」と言われ、「お願いですが、15日続けて、わたしのもとに来てくれませんか」と答えが返ってきました。
その言葉に従って、ベルナデッタは15日間洞窟に通い続けました。その間、ベルナデッタが見た奇跡に、治安上の不安を覚えた警察署長によって尋問されるなど、紆余曲折があったものの、ベルナデッタは洞窟に通い続けました。そして、9日目にベルナデッタが洞窟の水をすくって飲むと、水はどんどん溢れてきれいになっていきました。この水が今多くのカトリック信者に有名な「ルルドの水」の由来です。
しかし、聖母マリアはいまだベルナデッタに、自分が誰であるかを明かしていませんでした。それを明かしたのは3月25日のことでした。ベルナデッタは人影に名前を聞くと、「わたしは無原罪の御宿りです」と答え、ここで初めて洞窟の人影が聖母マリアであることが明らかになったのです。それ以降、ルルドは有名な巡礼地となり、多くのカトリック信者が今も全世界から訪れています。
ところで、全世界から注目の的となったベルナデッタは毎日訪問者がひっきりなしに訪れることに困惑していました。なぜなら、彼女はまともな教育を受けていないので、方言しか話すことができず、標準のフランス語が理解できなかったからです。そんな彼女を修道会に匿うために尽力したのが、パリ外国宣教会のフォルカード神父でした。「自分にはお金も特技もない」と修道会入りを渋るベルナデッタを「ジャガイモの皮むきができるじゃないか」と説得してヌヴェール愛徳修道会に入会させました。そこで、ベルナデッタは、難病に苦しめられながらも、さまざまな雑用や看護婦として働き、1879年に35才で死去しました。
貧しい家庭に育ち、まともな教育を受けられなかったベルナデッタに聖母マリアが現れたのは、神の導きであったかもしれません。そのベルナデッタによって生まれたルルドの水は、貧しい人に救いを与えるカトリック教会を象徴する大切な信心と言えるでしょう。