担当司祭から:2020年7月(バックナンバーはこちら)

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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新型コロナウイルスによって変わった世界

 新型コロナウイルスの感染者数は世界で900万人を突破し、今も増え続けています。日本においては感染の広がりがある程度抑えられたと判断され、緊急事態宣言が解除され、社会は少しずつ日常を取り戻しつつあります。緊急事態宣言中、外に出かけることが厳しく制限され、多くの行事が中止されました。プロ野球が6月19日に開幕し、その他のプロスポーツも徐々に再開するようですが、無観客での開催で始まり、状況を見ながら少しずつ観客を入れていくようです。
 カトリック教会は、高松教区で5月31日にミサが再開されました。ただ、松山市では病院でクラスター感染が起こったため、1週間ミサの再開を遅らせ、6月7日からミサを再開しました。しかし、聖堂の座席に座るのは距離を置き、使用したマイクはアルコール消毒を徹底し、さらには歌を歌わないでミサを行います。このような制約のもとでミサを行うのは、ミサの準備をする信者の方々やミサを行う司祭も神経を遣います。今までに経験がない苦労だからです。
 それでもミサに集う人々には喜びや安堵の表情がありました。特に高齢の方は「やっと人に会って話ができた」という喜びがありました。多くの高齢者は現代社会で用いられているインターネットやSNSを使うことが難しく、新型コロナによる自粛期間の間に「孤独を感じた」と言われます。
 今、社会において「新型コロナは終わった」かのような雰囲気が見られ、また「新型コロナ後の経済」を論じる報道がありますが、東京での感染者は依然として50人程度を数える他、クラスター感染が起こる地域もあります。何よりもまだ新型コロナに効き目のあるワクチンがまだないのです。わたしたちはまだまだ気を緩めることなく、ソーシャルディスタンスを保ちながら、生活する必要があります。
朝顔 新型コロナによる自粛期間中、それまでできていたことができない状況の中で生活を楽しむ工夫みたいなものがメディアで取り上げられました。「料理」「映画鑑賞」「ものづくり」「ストレッチ」「SNSでのやり取り」等々、それらは今までにあったものでも、それらを活用して「新しい」生活を送ろうとする努力と言えます。それは新型コロナの影響によって新たなものを見出したと言えるでしょう。
 その反面、外出自粛期間中に良くないこともたくさん起こりました。その最たるものは通称「自粛警察」です。新型コロナの感染中に営業している店に対して「営業やめろ」という張り紙をする動きのことであり、全国であちこちで見られました。それが営業している店が新型コロナの感染に配慮しているかしていないかに関係なく行ったのです。こういった人たちは「自分たちが悪いことをしているつもりはない」という意識を持っていることがほとんどであると言われます。
 イギリスのチェスタトンという有名な作家は次の言葉を残しています。「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」チェスタトンの言わんとしているのは「自分の考えを絶対化する人間はもはや正常ではない」ということです。この言葉は自粛警察によって他者を攻撃する人たちの内面をズバリ指摘していると言えるでしょう。
 自分の考えを正当化するとき、わたしたちは他者への攻撃へと向かいます。しかし、それは決して社会を良くすることになりません。新型コロナによって、わたしたちはそれまで感じることがなかった様々な限界を思い知ったからこそ、他者との協力、他者への配慮などが必要であり、「他者を攻撃する」ことではないのです。
 新型コロナの感染の広がりは、現代社会の「自分さえ良ければいい」という考えの限界をわたしたちに伝えたと考えることが出来ます。これは「教訓」とするのはあまりにも甚大なものですが、この新型コロナの感染によって得た教訓を活かすために、わたしたちは他者との協力を心がけていく必要があるでしょう。そして、その協力は「神」に対する信仰によってのみ、確かなものになるのです。人間同士の協力には打算がつきものですが、神への信仰はその打算を乗り越える力となるのです。互いの利害を乗り越える神への信仰がわたしたちにとって大切であると、わたしはこの文章を読まれる方々に強く訴えたいと思います。