担当司祭から:2021年10月(バックナンバーはこちら)

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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ヨハネ23世と第二バチカン公会議

ヨハネ23世 10月11日は聖ヨハネ23世の記念日にあたります。任意の記念日のため、一般の信者にあまり馴染みがないと思いますが、教会の歴史を知る者にとってヨハネ23世は偉大な教皇として誰もが知る人物です。というのは、ヨハネ23世こそ第二バチカン公会議を開催した教皇であり、この公会議によって、カトリック教会が一大転換を遂げたからです。
 公会議というのは主として信仰の問題に関する事柄において、教会内の合意を得るために開かれるものです。この会議で決定されたことは「不可謬」、すなわち誤りがないものとされ、教会の教えを形づくってきました。また、公会議は基本的に前の公会議で決められたことや出された文書を踏まえて行われるのが前提です。最初の公会議は318年に開かれたニケア公会議であり、最後に開かれた公会議が1962年の第二バチカン公会議で、今まで合計21回開かれています。その最後の公会議を開いたのがヨハネ23世なのです。
 わたし自身は第二バチカン公会議後に生まれたので、その影響を実際に体験したわけではありませんが、第二バチカン公会議前の教会を知る人にとって、第二バチカン公会議はまさしく教会の一大転換と言える出来事でした。後ろ向きでラテン語でミサをしていた司祭が会衆の方を向いて母国語でミサをするようになったのは、もっとも分かりやすい例ですが、第二バチカン公会議はこれ以外にも教会に多くの転換をもたらしました。その公会議を開いたヨハネ23世の経歴を最初に紹介します。
 ヨハネ23世は1881年にイタリアのベルガモで貧しいけれど敬虔な農家の家に生まれました。アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリと名付けられた彼は、11歳で教区の小神学校に入学し、1904年に司祭に叙階された後、教区の神学校で教父学、教会史、護教論などを教えました。その後、1915年イタリアが第一次世界大戦に加わると従軍司祭として野戦病院で働きました。それから1925年以降、1944年にフランス教皇大使に任命されるまでの20年近くブルガリア、トルコ、ギリシャなどの東方正教会の地域に教皇使節として派遣され、東方正教会とカトリック教会の関係調整に尽力しました。そして、1953年にヴェネツィア大司教に任命されました。
 この経歴は、当時のカトリック教会において教皇になる人物のものではありませんでした。なぜなら、伝統的に教皇はイタリアの大都市部(ミラノ・ヴェネチアなど)で働いている大司教、あるいは教皇庁で役職に就いている司教や枢機卿から選ばれるのが一般的だったからです。ジュゼッペ・ロンカリがヴェネチアの大司教になった時はすでに72歳であり、その4年後に教皇に選ばれましたが、それは適任者と目された人が見当たらずに有力者が出てくるまでの中継ぎという意味合いが強かったのです。
 ところがヨハネ23世は気さくで普通に街中に出て人々と交わり、多くの人に親しみを与えました。多くの人にとって当時のカトリック教会は代わり映えのしない古い組織だと思われていたので、ヨハネ23世の姿は教会の変化に期待を寄せるに十分な影響を与えました。その期待は、ヨハネ23世が公会議の開催を1959年に表明したことによって頂点に達しました。
 公会議は1962年に開始されました。ヨハネ23世は教会の刷新を意図していましたが、当時のバチカンの教皇庁で働く枢機卿や司教の多くは、それに反対していました。そこで彼らはこれまでの公会議の伝統に従って、教会の教えを定義して、それに従わない者は「異端」であるとする文書を予め用意していました。ところが、公会議開催日にヨハネ23世は演説で教会の刷新に努めるように司教団を力強く励ましました。これによって、公会議の流れは教会の刷新へと方向づけられました。
 教皇庁は頑なに刷新への流れに反対しましたが、教皇自らが議案の差し戻しを行うという思い切った介入により、公会議で発布された文書はこれまでにない新しい教会像を提示しました。ヨハネ23世は1963年6月の会議中に死去しますが、ヨハネ23世の意思を受け継ぐパウロ6世によって刷新の流れは続き、第二バチカン公会議は1965年に閉幕しました。今わたしたちが参加しているミサ、エキュメニズム(キリスト教一致運動)を初めとする教会活動、さらには信者の誰もが聖書に親しむこと、さらには現代世界に開かれた教会像が提示されたのです。そして、この公会議の文書には今までの公会議文書にあった「教えに反する者は『異端』とされる」という言葉が全く使われなかったので、今までの公会議の歴史には例を見ないものであり、カトリック教会のイメージを刷新することになりました。
 ところがこの大きな刷新には当然負の側面も生みました。わたしが神学生時代に司牧実習していた教会の主任神父様は第二バチカン公会議の前に叙階されましたが、その方は「第二バチカン公会議の後で多くの司祭が辞めた」と言われました。それは第二バチカン公会議で出された文書が多くの司祭にとって躓きとなったから司祭をやめたと言えます。また、今でも第二バチカン公会議以前の典礼や祈りに必要以上に固執する司祭や信者も少なからずいます。
 けれども、第二バチカン公会議で出された文書はカトリック教会が時代の流れに沿って歩むことを確かに示しました。公会議が終わって40数年が経ちますが、バチカン公会議の精神は十分に理解されていないとわたしが教わった神学校の教授は常々言っていました。わたしも教会の司牧に携わってまだ10年ちょっとですが、同じ思いです。教会が現代社会の中で生きるために、一人ひとりの司祭・修道者・信者が信仰の道を歩み、社会に迎合することなく、社会の中で歩むことが大切なのです。ヨハネ23世の精神がこれからの教会に生かされるのは、ひとえにわたしたち一人ひとりの歩みにかかっていると言えるでしょう。