神様のおはなし:第6回

 だから皆様、よくお聞き下さい。
 もし私たちがイエス様の御教えに心を開いて、イエス様をたったひとりの救い主であると心から信じて、イエス様に心から感謝して「洗礼」という、きよめ、もっとはっきりと申し上げるならば「新しい自分に生まれ変わる」ための秘跡を受けたならば、その時に自分の罪はもちろんのこと、その罪のために残る「つぐない」までも洗いきよめ、きれいに許していただくことができるのです。
 そしてこのことは同時に、天国のなかに、私たちのための席が準備されたということを意味するのです。天国に入る権利をいただいて、「まことの」幸せへつながる道にたどり着いた、ということなのです。

 私は多くの方の、洗礼の場面に立ち会ったことがあります。
 その中には、洗礼を受けたとたんに泣き出す方もいらっしゃいました。
 うれしさのあまり、洗礼式の途中からなみだを流される方もいらっしゃいます。
 洗礼を受けたときの気持は、特別です。完全な幸福、終わりのない幸福、そういった一言では簡単に言い尽せない幸せが体じゅうを包むのです。
 神様の両腕に、私の体をしっかりと抱きしめていただいた、そんな限りない幸せの中にすっぽりと包み込まれるのです。

 私はかつて40才くらいの、男の方の洗礼式に立ち会ったことがあります。
 その同じ日に、その方の奥様も、そして、子どもさんたちも洗礼を受けました。
 洗礼式のあと、その男の方は教会のベンチにひとりうずくまり、両手で顔をおおって、はげしくむせび泣いていらっしゃいました。
 私はおどろいてその方に、思わず声をかけてしまいました。
 「どこか、お体の具合でも悪いのですか。」
 その方は、首を横に振りながらこう答えてくださったのです。
 「いいえ、具合が悪いなんてとんでもない。ただ、うれしいんです。女房も子どもたちも一緒に天国に行けるなんて、もう、そう思っただけでうれしくてたまらないんです。カトリック教会に来てよかった。本当に、よかった。」
 声にならない声を絞り出すようにして、その方は、こう答えてくださったのでした。
 私はいつまでもその方を忘れることができません。

 神様は天国での終わりのない幸せを得させるために、わざわざ私たちに「命」をお与え下さいました。
 イエス様の御ことばによれば、私たちの魂だけではなく、自分の体までがこの世の終わりには生きかえって、もとの魂と一つになって美しい天国に行くことになっています。
 それはちょうどイエス様が御復活なさったとき、墓から出てこられたように、私たち人間もみんな、世の終わりの時には墓から出てくるということなのです。
 そしてその時には、私たちは善人も悪人も、豊かに暮らしたものも貧しかったものも、知識を誇ったものもそうでないものも関係なく、イエス様の御前に立ち、イエス様のおさばきを受けなければならないのです。
 イエス様の御教えに耳を傾け、悔い改めながら生きた人々はイエス様の、御復活のときのような美しい姿で、そして美しい霊魂で、イエス様といっしょに、天国でいつまでも楽しく暮らすことができるのです。
 天国での暮らし、それは言いかえれば、私たちが生きている今の暮らしの次に準備されている暮らし、私たちが死んでから後の命のことです。これは永遠に続くのです。この世の命のように、限りがあるわけではありません。
 この世での命は、短いものです。
 私たちの、この世の命の次にくる命の長さに比べたら、この世の命など本当に取るに足らないほどの長さでしかありません。しかし、ほんのわずかな命だといっても、この世での私たちの命は、もっとも大切なものです。
 そしてこの命を生きていくことの重大さは、生きることとは後戻りができないことなのだ、と知ることで簡単に理解できます。
 今の命を大切に生きること、これに失敗は許されないのです。

 私たちの人生が静かにその幕を閉じようとするとき、「死ぬとき」こそ、人間である私たちにとって一番重要なときです。
 このときにもし、私たちの心の中に神様に対してそむいていることがあったならば、次に準備されている命は永遠に続く命なのですから、次の生活では永遠に神様にそむいた状態で過ごさなければならないこととなります。
 生きている間の私たちには「自由意志」が与えられています。
 生きている間には、自分の意志で「善」を行うこともできれば、「悪」に染まって生きることもできます。どちらを選ぶかは、その人それぞれの自由なのです。
 しかし死んでから後には、この「自由意志」はありません。死んでから改心しようとしてもできないのです。

 天国に行った後の私たちが苦しむことは、ぜったいにありません。
 天国は私たちの理想郷なのです。これはすごい、と思えるような地上のどんなすばらしい家であっても、天国の一番みすぼらしいところよりも、もっとみすぼらしく見えると言われています。
 イエス様の御ことばによれば、天国にもいろいろな段階があるのだそうです。
 たとえば、ある人がこの世で大変な苦労をしながら、神様のお手伝いに励んだとします。その人がさらに病気の苦しみを背負い、それでも不平不満の一つも言わず、自分の犯す罪のつぐないばかりだけではなく、周囲の人の幸せまでも願って生きるようなひとを神様がほうっておかれると思われますか。こういった努力を重ねた方は、必ず天国で大きく報われるのです。
 このような人の生き方こそ、イエス様の生き方にならった生き方なのです。

 イエス様はご自分では何一つ罪を犯しませんでした。でも、イエス様は当時の指導者たちの手にかかって、十字架にはりつけにされて無残に殺されたのです。
 マリア様もまた、ご自分では何一つ罪を犯さなかった方なのに、目の前でご自分のお子様が殺されるのをご覧にならなければならない苦労をなさいました。
 たくさんの聖人たちは、大きな罪を犯すことなくこの世で暮らしたのにもかかわらず、この世での苦しみをどんな人よりも多く背負った人が多いのです。
 苦しみを、神様からいただいた試練として耐え忍び、生きていく人は断じて、損な生きかたをしているわけではありません。
 その苦しみを耐え忍ぶことによって、天の国に自分の徳を積んでいるのです。
 キリストの道を歩いている、しっかりとした信者ならば苦しいときに不平を言わないものです。この世の苦しみこそ、天国での幸せの種となるからです。
 終わることなく続くように思えるこの世の苦しみであっても、それほど長く続くものではありません。私たちが死んでからの幸せの期間と比べたら、この世の苦しみの期間など取るに足らないほどの長さなのです。
 だから、できることならば、この世でどんな苦しみに直面したとしても、少しばかり気にいらないことやつらいことがあったとしても、私たちは神様に感謝したいものです。この世の苦しみこそ、来たるべき世の幸せの種なのですから。

 イエス様はまた、こんなこともおっしゃっています。
 「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」
 イエス様の御教えはすべて、限りない神様の愛にもとづいています。
 まず、神様は私たちが神様を愛するより先に、私たちを愛してくださったことを知る必要があります。そして、そのことに気づいた私たちは、なににもまさって神様を愛することができるようになるでしょう。
 さらに私たちは、私たちの隣人を、自分と同じように愛さなければならないのです。これは、イエス様の御教えです。
 キリストの掟なのです。キリスト教、カトリック教会にはこの掟しかありません。
 「互いに愛し合いなさい。」