神様のおはなし:第5回

 残念なことですが、人間はだれしも多かれ少なかれ罪を犯しながら生きていくのが常のようです。どんなに正しいことしかしない、と心に決めていても罪は人間がこの世で生きていく以上、ついて回るもののようです。
 罪とは、わかりやすく申し上げれば「神様にそむくこと」です
 たとえば、腹を立ててしまうとか、嘘をついてしまうとか、あるいは人を憎んだり、うらんだりすることなど、この世には罪の原因になるようなことがたくさん存在しています。
 ちょっとした人の欠点を冗談まじりにおしゃべりのネタにしたり、ずるいことをしてほかの人を出し抜いたり、このようなこともすべて、神様にそむくことなのです。
 かといって、やれやれ、これではとても正しくなんか生きられない、と悲嘆にくれるのは早合点すぎるのです。
 こんなときこそ、神様に正直に許しを願いましょう。あわれみ深く、限りなくやさしい神様はきっと私たちのことを許してくださるにちがいありません。
 しかし、子どものころ、こんなご経験はありませんか。
 仲のいい友達とけんかしてしまった。自分が悪いのだとわかっていても、今までの仲の良さがかえってじゃまをして、なかなかすなおに「ごめんなさい」が言えない。
 実は、こんな方も数多くいらっしゃるのです。神様に向かって、すなおに「ごめんなさい」ということができない人です。
 「私は別に悪いことはしてない。」とか、「神様なんか、いるわけがない。」とか、考えられる限りの言い訳を並べ立てて、神様の愛に対して心を閉ざそうとされます。
 ずっと昔に犯した罪など、忘れている場合もあります。もっとも、これは私たち人間の勝手な言い分でしかありません。
 神様が人間のする良い行いも、悪い行いもそのすべてを覚えておられるとしたら、みなさんはどうしますか。
 さらに、いつの日か私たちが、この世での仕事をすべて終えて、神様の前に立ったとたん、神様から「あなたはこの罪を犯したときに、どうして反省しなかったのですか。」と質問される時がくるとしたら、どうなさいますか。
 できればその時までに、私たちが知らず知らずのうちに犯してしまう小さな罪や、心の底から後悔し、生活態度や考え方、生き方のすべてを改めなければならないような罪まで、すべてを神様に正直にお話して、許していただきたい、とお考えになるのが当然のことなのではないでしょうか。
 今までの行いを心から反省して、そしてこれからの生き方を改めること、これはなによりも大切なことです。
 そして、このことにお気づきになった方は、もはや神様からの愛をじゅうぶんお分かりいただいているといっても、過言ではないのです。

 けれども皆様は、ここで気がつくのではないでしょうか。
 たとえば私たちが車を運転していて、ちょっとした不注意から、前の車にゴツンとぶつけてしまったとします。前の車にはへこんだあとが、はっきりと残っています。
 ここで、法律的な手順は別として、まず、最初にしなければならないのは、前を走っていた車のドライバーに「ごめんなさい」を言うことでしょう。その次には当然、自分の不注意で作ってしまった相手の方の、車の傷を修理しなければなりません。いわば「罪のつぐない」です。

 ちょっとしたことなら、なんとか自分の力だけで解決できるかも知れませんが、その時の事情によっては、どなたかの助けをお借りしないとつぐないきれない場合もありますし、つぐないたくてもつぐなえないような、そんなとりかえしの付かないことになってしまう場合だってあるのが現実です。
 これと同じで、もしかすると自分では気づかないうちに、私たちは何度も何度も罪を犯して、神様にそむき、自分の力だけでは、つぐないきれなくなっている場合だって考えられるのです。こうなったら、だれかほかの方にお願いして、罪のつぐないを手伝っていただくよりほか、方法はありません。

 神様にそむくということは、実はとても重い罪なのだということを申し上げなくてはなりません。なぜなら、神様はいつもかわりなく、私たちを愛し、そして導いておられる方なのです。私たちのほうが、どんなにそっぽを向いて見せようと、神様が私たちに注いでくださる愛の大きさには変わりがありません。
 このような「神様の愛」にそむくことはやはり、良くないことでしょう。
 ですから、神様にそむいたことを私たちの力だけでつぐなうのは、時には無理なことなのです。では、どうしたらいいのでしょう。

 イエス様がなぜ、この世にお生まれになったのか、もう一度良く考えてみましょう。
 イエス様は神様でありながら、人間の姿をされて、この地上にお生まれになりました。そして私たち人間に、本当の幸せを手にする方法を教えようとしてくださった方なのです。
 私たち人間は、特にイエス様と同じ時代に生きた、豊かに暮らす知識人たちの多くが、このことを理解しようとはしませんでした。罪を重ねて生きている自分たちの生活を改めようともせず、イエス様をねたみの心から憎み、そして十字架にはりつけにして殺してしまったのです。
 イエス様は十字架の上で苦しまれました。その苦しみのなかで息を引き取られました。
 このイエス様の苦しみこそ、全世界の人間の罪をことごとくつぐなってくださるために、神様にささげられた苦しみだったのです。
 全世界の人間が神様にそむくことで犯した罪の数々を、神様のたった一人のお子様であるイエス様が、苦しみながら亡くなってくださったことで、つぐなってくださったのです。
 神様はそれほどまでに、私たち人間を愛してくださっているのです。
 一番大きな愛とは、ほかの人のために命を捨てることです。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。」