神様のおはなし:第4回

 イエス様が十字架にはりつけにされたのは、お昼ころのことでした。そしてお亡くなりになったのは、午後3時くらいのことです。金曜日のできごとでした。
 イエス様が十字架にはりつけにされている間の3時間に、とても不思議なことが起こりました。それまでとはうって変わって、空はどんよりと暗くなり、ちょうど午後3時、イエス様が息を引き取られるその瞬間に、地面が引き裂かれるような音とともに、ものすごい地震が起こりました。
 周りにいた人たちはみな、おそろしくなって、ほとんどの人が逃げるようにその場を立ち去りました。
 イエス様のお母さんのマリア様、イエス様の弟子の中でも一番年の若いヨハネ、マグダラのマリアと、そして弟子たちのうちでも数人の女性がイエス様の近くによりそい、十字架にはりつけにされたイエス様をじっと見上げていらっしゃいました。
 マリア様と数人の弟子たちはその後、イエス様のなきがらを十字架から下ろし、きれいに手当てをなさってから近くのお墓にイエス様をおさめました。
 ちょうど、このお墓の近くにニコデモという有力な人と、アリマテアのヨゼフという人が住んでいました。この2人が自分のために作った新しいお墓を、イエス様のために貸してくれたのです。
 イエス様が、その新しいお墓のなかにおさめられたのは、金曜日の午後6時くらいだったのではなかったでしょうか。

 イエス様は、どんなに偉い人たちに対しても差別することなく、おとがめになるときには、きびしくおとがめになられました。この世の中での「地位」や「豊かさ」が、「魂」を救うのではありません。そのことを、イエス様ははっきりとお伝えになったのです。
 残念なことにその当時、指導的な立場にいる人の多くが罪深い生活を送っていたようです。弱い立場の人を気にもかけず、それでいて自分だけは豊かな暮らしをしてみたり、自分の罪はいっこうに改めずに、人の欠点ばかりをとがめてみたりといったようなことを、必ずイエス様はきびしくお叱りになったのです。
 いつの時代も、権力を持っている人は、自分の持っているその権力を振りかざすようになってしまうものです。
 いつの日かこの国の指導者たちは、イエス様を殺してしまおうと考え始めたのでした。

 次の土曜日は「安息日」でした。
 安息日にはお墓参りをすることもできません。ユダヤ教では、安息日には仕事をすることも、お墓参りをすることも禁じられていましたから、だれもイエス様のお墓に近づく人はいませんでした。
 しかし、イエス様を殺した人たちの心の中は、恐怖でいっぱいでした。
 なぜなら、イエス様は「私は死んでも、必ず3日以内に生きかえる。」ということを、何回も弟子たちにおっしゃっていましたし、イエス様を殺してしまった人たちも、そのことをはっきりと覚えていたのです。
 「死んでしまった人間が生きかえるなんて、そんなことはありえない。」
 イエス様を殺した人々は、そうは思ってみたものの不安はいっこうに消えず、かえっておそろしさが増すばかりだったので、イエス様のお墓の入り口に番兵を立て、昼も夜も厳重にそのお墓を見張らせていました。

 イエス様は確かに亡くなられました。
 十字架の上で息を引き取られたイエス様の御胸を、その処刑場の監督人は、やりで突き刺しました。監督人のやりは、イエス様の心臓をつらぬきました。
 心臓をやりで突き刺された人間が、生きていられるはずもありません。
 ところが、イエス様は亡くなってから3日目の朝、あの暗いお墓の中から出てこられたのです。イエス様は復活されたのでした。
 見張りをしていた番兵もこれには気を失うほどおどろき、そして、おそろしくなって逃げ出してしまいました。
 さらにイエス様はその後四十日のあいだ、たびたび弟子たちのところに現れては、ともにお話をされたり、食事をしたり、散歩をしたりしながら、ご自分が御復活なさったということを弟子たちのあいだにわからせてくださいました。

 イエス様は、本当に美しいお姿になられて、あの暗い墓から出てこられたということです。
 マリア様と数人の弟子たちがイエス様のなきがらを手当てなさったときには、そのお体は傷だらけでした。しかし、御復活なさったときのイエス様のお体には、十字架にくぎで打ちつけられたときの手と足の傷、そして、やりでつらぬかれた時の傷以外には、傷は残っていなかったそうです。
 イエス様は、このようにして御復活された後の40日の間弟子たちとともに過ごされ、今のカトリック教会の基礎をお作りになったのです。
 40日の間、イエス様は、弟子たちに優しく語りかけ、そして、かつては弱かった弟子たちの信仰をゆるぎないものとなさいました。
 ある日弟子たちはイエス様に連れられて、オリベト山の上に行きました。
 イエス様はここで最後のお話をなさいました。弟子たちは、イエス様の限りないやさしさに、身も心も包み込まれました。
 話が終わるとイエス様は、弟子たちを祝福なさいました。そして祝福しながら彼らを離れ、天に昇って行かれたのです。平和と愛をこの世にいっぱい残されて、イエス様は天の御国へとお帰りになったのでした。
 このときにイエス様が弟子たちに残された御ことばは、聖書に記録されています。
 その御ことばとは、「あなたがたは、全世界に行ってすべての人を私の弟子にしなさい。そして、彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて、守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と、ともにいる。」というものでした。

 イエス様のこの御ことばの通り、弟子たちはいくつもの国へ出かけていっては、イエス様の御教えを広めました。弟子たちの努力は今世界の人々の、およそ3分の1がキリスト教徒であるという、大きな実りとなって表われています。世界の人々の、3分の1が洗礼を受けて、そして毎日イエス様の御心にふれて生きていらっしゃるのです。
 一方この日本ではどうかといいますと、今のところ、多くの方がイエス様の御教えを、いまだに知らないままに暮らしていらっしゃるのが現状のようです。しかし、日本でのキリスト教の歴史が浅いのか、というと意外とそうではなく、江戸時代以前には諸国の大名のうち、20人以上が洗礼を受けていた実績があるようですから、かつての歴史上では、活発な布教が行われていた時代もあったのです。
 しかし、日本ではこの後キリスト教に対する激しい迫害が行われ、幼い子どもたちを含む、多くの信者さんの命がうばわれました。キリスト教の布教の再開は、明治時代の幕開けを待たねばなりませんでした。
 今はまだ少ないキリスト教の信者も、今後はいっそうその数を増すにちがいありません。なぜならイエス様がそのようにお望みになったからです。
 「私の教え、私の定めた宗教、まことの幸せへの道は、いつか広く世界に知られるようになります。」

 幸せなことに、私はイエス様の御教えを耳にすることができました。
 もしこの本をお読みになった皆様が、どこかでイエス様の御教えをお聞きになることがありましたら、その時までのご自分の行いに思いをはせ、これから先のご自分の命や人生について、1歩立ち止まって考えてみられることをおすすめいたします。
 そして、できることならばイエス様の御教えに、すなおに心を開いてみてください。
 その時あなたにも、今日という日のすばらしさを、きっと感じていただけるにちがいありません。

 神様とは、いわば私たち人間の生みの親です。私たちの親の、そのまた親の、さらにまた親の生みの親です。
 宗教を定めるのは、それは人間の仕事ではありません。神様ご自身がなさることです。そして、イエス様とは神様のたった1人のお子様が、私たち人間の救いのために、この地上で私たちと同じ人間となって、私たちに本当の幸せにたどり着ける道をお示しになるために、この世に来られた方なのです。
 もし、私が皆様のお宅に行こうと思ったならば、皆様のお宅へ行くための道順の地図を、皆様ご自身に書いていただくのが間違いのない方法だと思います。あるいは、皆様ご自身に、私をお連れいただくようお願いするのが良いでしょう。これに勝る方法はない、と思いませんか。
 これと同じように、天国への道を間違えずに知りたいならば、天国からいらっしゃった方に、天国までの道しるべをお教えいただくのが最善の方法だと思いますし、もっと良いのは、天国までの道をイエス様に、一緒に歩いていただくのが一番です。みなさんもそう思われませんか。

 天国に1度もいらっしゃったことのない方に書いていただいた地図を頼りに歩くのは、少し不安です。そして、私たちが知る限り天国からいらっしゃった方はイエス・キリスト以外にはないのです。
 イエス様は私たちに、まことの幸せにたどり着く道、つまり、天国への道をお教え下さろうとして、わざわざこの世にお生まれになられたのです。
 そしてその地図こそ、聖書なのです。聖書に示された御ことばは私たちに、間違いなく本当の幸せに向かって歩いていける道を示してくれます。
 では、正しい人だけが天国への道を歩けるのでしょうか。
 正しい人にしか、天国の席は約束されないのでしょうか。