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広報紙「のぞみ」 第17号(2020年3月8日発行)
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勇気をえた弟子たち 4月12日 復活祭
今からおよそ2000年前にイエス・キリストはユダヤの宗教指導者たちの嫉妬によって、十字架刑に処されました。そのときイエスにつき従っていた弟子たちは一人を除いて、みんなイエスのもとから逃げてしまいました。彼ら弟子たちは、自分たちも殺されるかもしれないという恐怖と、神であると信じていたイエスに裏切られた、つまりイエスはただの人間でしかなかったのではないかという疑いとに苦しめられながら、隠れ家にこもって震えおののいていたのです。しかし、しばらくすると不思議と彼らは勇気をえて、迫害を受けながらも、イエス・キリストの教えをユダヤ全土や周辺の地域に布教していくのです。そして最後には、ほとんどの弟子が殉教によって命をささげました。
なぜ、勇気も信仰も足りなかった彼らが、一転して、勇敢で信仰深い者になったのでしょうか。
その質問にたいする答えは、「イエスが復活して、彼らの前に現れたから」だと考えられます。彼らは最初、イエスの死によってすべての希望を失い、何もかも終わったと思っていました。しかし、死んで三日目によみがえったイエスが、たびたび弟子たちの前に現れたことによって、イエスが死を克服する方で、イエスの死には意味があったことを彼らは知らされました。死んだ人がよみがえるという、常識を超える衝撃的なできごとによって、彼らの目は開かれたのです。イエスの復活のお祝いのミサに皆さんも参加されませんか。
〈復活祭ミサご案内〉
徹夜祭 4月11日(土)午後7時
主日ミサ 4月12日(日)午前10時
十字架の道行の祈り ⑤
道後教会の壁面にはキリストの受難の14シーンを描いた陶製レリーフが掛けられている。受難の季節にスペイン製のレリーフをシリーズで紹介する。
◆第Ⅸ場面=イエス3度倒れる。
ゴルゴタの丘はきつく、最後の力をふりしぼって登られたが、ついに力つき3度倒れられた。
◆第Ⅹ場面=イエス衣をはがれる。
兵士たちは血に染まったイエスの衣を乱暴にはぎ取り、誰のものにするか、クジを引いた。
東日本大震災から9年 ― 寄り添い 忘れない支援 宮城から「ミカンおいしかった」
東日本大震災から9年。被災各県では新しい建物が建ち、インフラも回復し復興のめざましさに脚光が当たる。 しかし、被災者は老齢化し復興住宅に移っても孤立や不安の中にいる人が多く、その方々の声を傾聴するなどのボランティアに助けられている。 カトリック道後教会では被災者の支援はまだまだ必要との方針で、毎年バザーの収益金などからの支援金やボランティア活動を支えるミカンの送付などを続けている。また3月には被災者のための追悼ミサを行い、亡くなった人々への慰霊と遺族の方々の安らかな生活を祈る。 原発事故での喪失感、放射能への恐怖、孤立感、生活の不安の中で希望を失っていく人々へ、温かく寄り添い「忘れないよ」のメッセージを送り続けなければと思う。
「ご支援に感謝します」
宮城県のボランティアグループ「八木山オリーブの会」からのお便りが来た。年末に被災者が集まり、各家に飾る花を活ける恒例の会に愛媛のミカンを配ったと伝えてきた。「テーブルにはミカン 黄色の列ができました。甘くて美味しいと好評でした」との嬉しい便りだった。被災の人々の心が少しでもなごまれたのなら嬉しい。
浦上キリシタンの信仰伝えたい
明治時代に入っても日本政府のキリスト教禁令は続き、1870年(明治3年)に「浦上4番崩れ」というキリシタンへの大弾圧となった。長崎の浦上村の住民3414人を全国の20藩へ「一村総流罪」にするという過酷なものだった。
松山藩へも86人の浦上キリシタンが流され、その苦難の信仰を物語る「長崎キリシタン流謫碑」が松山市の衣山にある松山教会墓地の真ん中に建てられている。
この碑を建立したのは、当時3歳から6歳までの幼時に両親と松山で苦難を共にした山口宅助神父だった。
自らも幼時松山へ流され 死の2年前に悲願を達成
明治6年に切支丹禁制の高札が撤去され、信徒たちは解放されて徒歩で長崎まで帰ったとされる。山口少年がその後、どのような経緯で司祭になられたのか資料がないが、神様のお導きがあったのだろう。
山口神父は長崎の諫早教会で司牧をしていた昭和12年2月に来松、松山教会のモデスト神父に流謫碑建設の協力を求めた。72歳の老齢だった。モデスト神父もそれに応じ墓地の用地を購入、碑の建設に応じて、山口神父の悲願がやっと達成された。碑の裏には松山での苦難に耐えて信仰を守り抜いた信徒たちの思いが、昭和12年2月付の山口神父の文章で刻まれている。
その後の山口神父の消息ははっきりしなかったが、先日まで道後教会に在籍され今は長崎に在住されている坂本喜久夫さんに調査していただき、山口神父は碑建設の2年後の昭和14年12月に諫早教会で逝去されたことがわかった。
山口神父は幼時の自分の体験と浦上キリシタンの受難を後の世に伝える証となるものを松山に残したいとの思いをずっと心に持ち続けられ、72歳の老齢になってやっとその悲願を実現された。碑の建設が果たされた2年後、安堵の思いで天国に旅立たれたのだろう。信仰者として立派なご最期だった。
道後教会からのお知らせ
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◆キリスト教講座◆
・毎月1回(1回1時間程度)
受講者の都合にできるだけ合わせます。
現在、第2土曜日の午前10時から開催中。
・場所 カトリック道後教会
・講師 道後教会担当司祭 および 信徒
・当教会へお問い合わせください。
◆ミサ時間◆
・日曜日 午前10時
・第1金曜日 午前10時(金曜日は、司祭の都合により中止の時あり)