もしキリスト教の洗礼などを受けたならば、自分の親戚や友人から白い目で見られるのではないか、気が変になったと思われるのではないか、と思って、なかなか洗礼にまで踏み切れずにいらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
洗礼を受けようとする方は、幸せな方なのです。
その中でも「洗礼」を目指したとたんにこの世の試練が始まった方の来るべき世は、きっと幸せに満ちたものになるにちがいありません。
もっと勇気を持っていただきたいと思います。
苦しみの中でも神様の呼びかけに答えようとして、必死に努力なさろうとしている方を神様がほうっておかれるはずがありません。
どうか神様の愛を、胸いっぱいに受けとめてください。体じゅうで、神様の愛を感じてください。そうしたら、きっとなによりも神様のことを愛することができますから。
かつてこの日本でも、多くの信者が神様を愛することをやめなかったために、イエス様の御教えを捨てなかったために、命を奪われました。日本では、本当におおぜいの人が、殉教したのです。
世界のキリスト教の歴史を調べてみたら、なんと1,300万人あまりの人が、イエス様の御教えを捨てるよりも、自分の命を捨てることをえらんだ記録が残っています。
その中のあるものは殺されました。洗礼を受けているから、イエス様の御教えを捨てないから、という理由で殺されたのです。
また、ずっと迫害されたまま、孤独のうちに病気や衰弱のために亡くなった人もおおぜいいるのです。
この1,300万人の勇気ある殉教者たちは、イエス様の御教えのために自分の血を流したのです。この方たちを神様がほうっておかれるはずはありません。
高齢化社会、そういうことばに慣れ親しんでから、もう何年にもなります。
お年寄りのみなさんの中には、お気の毒にも寝たきりのような状態の方も少なくありません。その方たちがご自分のことを「役にも立たない人間が、長生きばっかりして…。」
そんなふうにおっしゃっているのを聞いたことがあるでしょう。
神様は決してそんなふうにはおっしゃいません。役に立たないなんて、そんなことは絶対にないのです。なぜならば、自分のことを「役に立たない」などと、嘆かなければならないほどの苦しみの中に生きている方こそを、神様はほかの方以上に愛していらっしゃるからです。
イエス様は最後に十字架にはりつけにされたのです。
十字架にはりつけにされたイエス様は、身動き一つとれず、ただ苦しみに耐えるだけのご様子でした。いわば動くことも、話すこともできない「役に立たない」状態だったのです。
しかし、イエス様の生涯の中でも、十字架にはりつけにされた「役に立たない」状態の3時間が、もっとも大きなお仕事をなさった時間なのです。
この3時間のあいだにイエス様は、全世界の、すべての人々の上から、罪とそのつぐないを取り去ってくださったのです。
私たちはみんな、神様の子どもです。イエス様の弟子なのですから、イエス様の足跡にしたがって、彼と同じように生きることができたならば、これに勝る幸せはないのではないでしょうか。
もし、これを読んでくださっている方のなかで、「寝たきり」の方がいらっしゃったら、こうお考え下さい。
「私は、寝たきりなんかじゃない。私はベッドにはりつけになったのだ。
だから私はこの苦しみを天の御父におささげして、自分の罪と、自分が愛するすべての人の、罪のつぐないのためにせいいっぱい生きるのだ。」
どうして、この勇気ある愛に満ちあふれた方々が「役に立たない」のか、私には理解できません。
私たち人間は、死んでからすぐに、さばきを受けるといわれています。
死んでからすぐに、天国の門をくぐることができる人もいれば、最後まで神様にそむいたまま、つぐないも悔い改めることもしないままに死んで、真っ暗な夜の海に、ひとり放り出されたような気になってしまう人もいるのだと思います。
神様の愛を信じて生きてきたけれど、神様からのお許しをいただく準備のために、亡くなった後も少しばかり鍛錬を必要とする方、そういう方も中にはいらっしゃるでしょう。
私たちがお祈りをするときの、亡くなった方のためにするお祈りは、こんなふうに努力をしている方々へのはげましの祈りなのです。
生きている私たちの苦しみをささげることは、亡くなった後も努力を続けて天国の門をくぐろうとしている人々への、はげましのメッセージでもあるのです。
だから、カトリック教会のミサの中では必ず、亡くなった方々へのお祈りが唱えられます。特に亡くなった方のなかでも、自分の愛する家族、親、親戚の方々に対するお祈りは大きな意味を持つものです。
日本の皆様は昔から「ご先祖」への祈りを大切にしてきました。
だれかが亡くなったら、必ずその魂の安らぎを祈ります。
これはとても大切なことなのです。全世界のカトリック教会は「ご先祖」のための祈りを大切に考えています。自分を愛してくれて、そして、この世に自分の命を残してくれた方、それが「ご先祖」なのです。
この「ご先祖」を大切にしないというのは、やはり神様の愛に背を向けるのと同じことなのです。
「ご先祖」をおまつりしておけば充分だと考えている方もいらっしゃるようですが、それだけでは足りないのではないでしょうか。
神様はすべてのものをお造りになられた方です。ですからすべての人間、すべての方の「ご先祖」も神様がお造りになられたのです。
カトリック教会が亡くなった方々のためのお祈りを大切にしているのは、このためです。