Title9-3.GIF (2758 バイト) 神聖ローマ帝国の歴史 探究テーマ史 #109  


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概 要  
 (1) 800年  カール大帝の即位
   
   
 (2) 1041年  セルジューク朝の成立
 (3) 1055年  セルジューク朝のトゥグリル・ベグ、バグダードに入城しカリフとなる
 (4) 1071年  セルジューク朝、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う
 (5) 1077年  セルジューク朝、バグダードの本家の他に四つの地方政権に分裂
 (6) 1097年  最初の十字軍遠征により、ニケーア陥落
 (7) 1099年  十字軍によりイェルサレム王国など建国される
 (8) 1110年  十字軍により、トリポリなどパレスティナ沿岸がほぼ占領される
 (9) 1120年  第一次十字軍主要人物が去り、パレスティナ十字軍諸都市が守りの時代に入る
(10)1128年  アレッポの太守ザンギーが勢力拡大
(11)1144年  ザンギーがエデッサ伯領を奪還
(12)1154年  ヌールッディーン、ダマスカスに入城
(13)1163年  ヌールッディーン、エジプトを支配下に置く
(14)1171年  サラディン、アイユーブ朝を創設
(15)1183年  サラディン、エジプト・シリアを統一

版図を大きく広げたる。

 年代 神聖ローマ帝国  周辺諸国 
 800年  カロリング朝  
   カール、皇帝戴冠  
   ローマ帝国を引き継ぐビザンツ帝国(東ローマ帝国)との間で「二皇帝問題」を引き起こす。  
 812年  カールはヴェネツィアを放棄し、ビザンツ皇帝から「インペラトールにしてバシレウス」の称号を承認される。(インペラトール、バシレウスはどちらも“皇帝”の意)  
 843年  ヴェルダン条約;フランク帝国の三分割(カール大帝の孫の代)。東フランク王国の誕生  
 870年  メルセン条約;中部フランク王国の再分割  
 885年  東フランク王カール3世(肥満王)が一時的にフランク帝国領土を再復。  
 887年  カール3世のフランク帝国が5つに分裂;東フランク、西フランク、ブルグンド、プロヴァンス、イタリア  
 911年  東フランク王国のカロリング家断絶  
   東フランクは5つの大公国(バイエルン、フランケン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、ザクセン)から成り立つ。  
 919年  オットー朝  
   ザクセン大公ハインリヒ1世、国王選出(オットー朝成立)。  
 936年  オットー1世、国王即位(~973年);カール大帝由来のアーヘンにて戴冠(以降約600年間アーヘンにて戴冠式)  
 951年  オットー1世、第一回イタリア遠征(~952年)  
 953年  リウドルフ(オットー1世長男)の反乱  
 955年  レヒフェルトの戦い;ハンガリー人を撃退  
 962年  オットー1世皇帝戴冠;神聖ローマ帝国の成立  
   封建制国家(レーン制国家);家臣に領地をレーン(封)として与え、主従関係を結ぶ。皇帝が強い力を持てれば、中央集権化ができるが、神聖ローマ帝国ではそうならず、皇帝と封建関係にある者が自立化する傾向にあり、大小の領邦(ラント)が形成された。(*1 P10)  
 978年  ハインリヒ喧嘩公の失脚  
 1024年  ザーリアー朝  
   コンラート2世、国王即位;ザーリアー朝成立  
 ca  この頃から東フランク王国に代わって、ドイツ王国という名称が使われる。  
1055年    トゥグリル・ペグはアッバース朝カリフから招かれてバグダードに入城し、カリフの実権を掌握。スンニ派の擁護者として、シーア派のブワイフ朝を討つ大義名分を得る。*1
 1059年  ラテラノ教会会議で教皇選挙令を制定  
1066年    ノルマン人によるイングランド征服。*2
 1071年    セルジューク朝の王アルプ・アルスラーン、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う。エジプトを除く中東全域のイスラム世界を支配下に置く*1。
1072年    ノルマン人による南イタリアとシチリアの解放(キリスト教圏への奪還)。*2
 1076年  教皇グレゴリウス7世、ハインリヒ4世を破門  
 1077年  カノッサ事件;ハインリヒ4世、グレゴリウス7世に許しを乞い、破門を解かれる。  
1085年    レコンキスタによりイベリア半島トレド奪還。*2
1086年  ハインリッヒにローマから追われたグレゴリウス7世死去。*2  
 1096年  第一回十字軍(~1099年)  
 1122年  ヴォルムス協約;ドイツの叙任権闘争終結へ。  
 1138年  シュタウフェン朝  
   コンラート3世、国王即位;シュタウフェン朝成立。  
     
     
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1088年  ウルバン2世、テラチーナでローマ教皇に即位。南イタリアとシチリアを支配するノルマン朝を頼る。*2  
1095年  クレルモン公会議でウルバン2世、十字軍提唱。*2  シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュ、バルキヤークに敗死。二人の息子リドワーンとドゥカークが所領を分割相続して、バルキヤークの宗主権に対立した。しかし、兄弟の仲も悪く、シリア・セルジュークは衰退していく。*1
1096年  隠者ピエールの呼びかけに貧民、女子供まで、5~10万人が付き従い、施しを受けながらイェルサレムを目指す。しかし、ビザンツ帝国領内に入り、特にユダヤ教徒などに対しては略奪を行う。  クルジュ・アルスラン(ニケーアのスルタン)、隠者ピエールが指揮するフランク侵略軍を破る。*1
 当時、中東のイスラム教徒全般を「サラセン人」と呼んでいた。 当時、ヨーロッパから来るキリスト教徒全般を「フランク人」と呼んでいた。 
   1096年の年末までにコンスタンティノープルに入ったのは、ユーグ伯とゴドフロアだけだったが、ビザンツ皇帝アレクシオス・コムネノスは諸侯に対して自らの傭兵と同様に臣下の誓いを求めた。  
1097年  十字軍最初の大遠征;ニケーア陥落、  ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。*1
   エデッサ領主トロスが、モスール太守を攻めるため十字軍に応援を要請。ボードワンはエデッサに赴くが、トロスが部下に殺されたため、ボードワンがエデッサの領主となる。エデッサ伯領の成立。  ホラズム朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、旧ガズニ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。
1098年  フランク(十字軍)、アンティオキア占領。アンティオキア公国(1098~1268)*1建国。攻略の主力となったポエモンが領主となる。  十字軍のアンティオキア攻囲中に、ダマスカス太守ドゥカーク、ついでアレッポ領主リドワーンが十字軍を攻めるが敗退。
     モースルのカルブーカ率いるムスリムがアンティオキアに援軍として向かうが敗れる。マアッラで人肉食い事件。
1099年  ゴドフロワ・ド・ブイヨン、イェルサレム陥落させる。イェルサレム王国(1099~1291)成立。ゴドフロアは大司教の手前、「キリストの墓所の守り人」と称したが、実質的な初代国王。  イェルサレムを守備するイフティファールは、フランクのサンジルと交渉し、脱出。その後、エルサレムはフランクにより、略奪と殺戮が行われる。アル=アフダル率いるエジプトからのファーティマ朝の援軍は敗走。*1
     ダマスカスの法官アル=ハラウィ、難民の代表を率いてバグダードへ赴き、侵略に対するムスリム指導者の無策を非難する。*1
     しかし、バグダードでは、スルタンのバルキヤクが弟のムハンマドと、首都バグダードの主導権をめぐり争乱状態だった。*1
 1100年  イェルサレムのサン・ジルが他の武将と対立し、コンスタンティノープルへ去る。  
   ゴドフロワ、アッカ攻めの最中に戦死。  賢者ダニシメンド、フランクのポエモンを捕虜とする。*1
   ポエモンの甥タンクレードがダマスクス近郊を荒らす。
ダマスクス王ドゥカーク、タンクレードの使者を斬首。
タンクレード、ダマスクス周辺を破壊。*1
   ゴドフロワの弟エデッサ伯ボードワン、エルサレムへ進軍。ドゥカークは敗走し、ボードワンがイェルサレムの第二代国王となる。*1  トリポリの首長ファクル・アル=ムルクは、ドゥカークの権勢拡大を危惧し、ボードワンに内情を知らせるなど、ムスリム側はボードワンより大軍であったが、足を引っ張り合って、敗退した。*1
1101年  サン・ジル、コンスタンティノープルから出撃し、アンカラを陥落させる。*1  クルジュ・アルスラン、ニケーアでフランク防御体制をとるが、フランクはアンカラへ。*1
   サン・ジル、ニクサルの首長ダニシメンドにメルジフンで敗れる。*1  クルジュ・アルスラン、フランクの第二次遠征隊を撃破。*1
     クルジュ・アルスラン、フランクの第三次遠征隊をヘラクレイアで撃破。*1
1102年  サン・ジル、300のフランク兵で、トリポリでムスリム軍と戦い、7千人以上を殺す。*1  ダマスクス王ドゥカークが、トリポリ領主へ2年前の裏切りの代償を払わせた(か?)。*1
   アンティオキアの摂政となったポエモンの甥タンクレードが、アレッポ周辺を荒らす。リドワーンはタンクレードに引き上げてくれるなら要求に応じると伝え、アレッポの寺院の上に大十字架を掲げさせられた。*1  ダニシメンドは身代金の支払いを条件にポエモンを釈放。釈放されたポエモンはアンティオキアに戻り、近隣のムスリム住民から金を取りたて、身代金とした。*1
     宰相アル=アフダルの息子シャラフの2万の軍勢が、ラムラーでボードワンに奇襲。しかし、次の標的をヤーファか、エルサレムか迷っているうちにフランクの援軍が到着し、攻略が困難になる。(*1 P136)*1
1103年  サン・ジルはトリポリ攻略のため、その郊外の岬に城塞を築く。*1  
1104年  トリポリによる反撃によるやけどでサンジル死去。トリポリのカーディー ファクル・アル=ムルクと包囲の十字軍の間に休戦協定。
 ファクルはカイロのアル=アフダルと仲が悪く、救援を期待できず、ハッラーンで勝利したソクマンに救援を求めた。*1
 春、アンティオキアとエデッサのフランク人がハッラーン(イラクとシリア北部の連絡の要衝)の砦を攻める。モースルの新領主ジェケルミシュはその隣人で元イェルサレム総督ソクマンと戦争状態だったが、フランクと戦うため和睦し、フランクに向けて進軍、ユーフラテス川の支流バリーク川のほとりで会戦。ムスリムは逃げるふりをしてフランクに追撃させ、司令官の合図で回れ右をしてフランクを包囲し、粉砕した。ポエモンとタンクレードは、数騎で脱出、エデッサ伯ボードワンは捕らえられた。ソクマンはフランクの城塞に向かうと、味方が勝ってもどってきたと思って迎えに出てきたところを殺し、城塞を奪った。この策略を各地で繰り返した。この勝利はフランクの士気を衰えさせ、東方への侵略を止めることとなった。ポエモンはアラブを去った。ハッラーンにおけるムスリム軍の勝利フランク軍の東への進出を永久に食い止めた。(*1 P140)
     大セルジュークのバルキヤークが没後、子マリクシャーも若くして死去。バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルが継ぐが、大セルジュークの権威は凋落。
   トリポリ救援に向かったソクマンは、あと4日の行程で、狭心症の発作で死去。  しかし、ソクマンとジェケルミシュはけんか別れ。ジェケルミシュはタンクレードの不意打ちに愛妾を奪われ、捕虜としているボードワン二世か金貨1万5千ディナールとの交換を申し出た。ポエモンとタンクレードは、金貨を選んだ。(ボードワンはさらに3年捕虜生活を送る)*1
     ダマスカスのスルタン ドゥカーク死去、アタベクであったトゥグ・テギーンが権力を掌握。後にブーリー朝(ダマスカス政権)を創設。*1
1105年    バクダードのスルタン バルキヤーク死去。バクダードの兄弟間争いによる混乱が終息。弟はムハンマド・イブン・マリクシャーを名乗る。*1
1107年    ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。*1
     ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。*1
1108年  トリポリのファクルは、バグダードのスルタン ムハンマドに支援を直訴することにした。(*1 P151)
途中ダマスカスのトゥグテギンに歓待を受け、バグダードでもムハンマドの歓待を受けるが、援軍は得られなかった。(*1 P152)
 テル・バーシル近郊で二つのムスリム=キリスト教徒同盟軍が戦う。ムスリム諸侯の戦いにフランクが加勢するようになっていく。タンクレード軍にはアレッポのリドワーンが派遣したトルコ騎兵600人が参加。対するモースル領主ジャワリ軍には、エデッサのボードワンとそのいとこジョスランが参加。フランクを追い返すことが最優先事項でなくなっていく。
この戦いはタンクレードが勝利し、アンティオキアを支配。
*1(P146)
     サンジャル、遠征によりゴール朝を支配する。
1109年    2000日の籠城の果てにトリポリ陥落。トリポリ伯領(1109~1289)*1
1110年  ベイルートとサイダ(シドン)陥落。*1  
1111年    アレッポの法官イブン・アル=ハシャーブ、バグダードでフランクの侵略に対する介入を求めて、反カリフの暴動を組織する。*1
1112年    ティール(スール)の勇敢な抵抗。*1
1113年    リドワーン死去すると若年の息子らの下で権力闘争が発生し、シリア・セルジュークは衰退していく。*1
1115年  スルタンからの派遣軍に対し、シリアのムスリムとフランクの君侯が同盟。*1  
1119年    アレッポの領主イルガジ、サルマダでフランクを破る。*1
1124年  十字軍、ティロスを奪い、アスカロンを除く沿岸全土を占領。*1  
1125年    イブン・アル=ハシャーブ、暗殺教団に殺される*1
1128年  ダマスカスに対する十字軍の強引策が失敗。*1  ザンギー、アレッポのあるじとなる。ザンギー朝(~1146年)*1
1135年    ザンギー、ダマスカス奪取を企てるが失敗。*1
     ホラズム朝がセルジューク朝から自立の構えを見せるが、1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルタン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。
1137年    ザンギー、イェルサレム王フルクを捕え、のち釈放する。*1
1138年    ザンギー、フランク=ビザンツ同盟を失敗させる。シャイザルの戦い。*1
1140年    ザンギーに対し、ダマスカスとイェルサレムが同盟。*1
1141年    カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると、ホラズム朝は再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。
1144年  エデッサ伯領消滅。  ザンギー、エデッサを奪い、中東にできた4つのフランク諸国のうち、最初にできた国を滅ぼす*1。ザンギーは、キリスト教徒の砦にもどらないようエデッサを完全に破壊。
1146年    ザンギー暗殺され、子のヌールッディーンがアレッポを継ぐ。*1
1147年    ムラーヴィト朝、ムワッヒド朝に滅ぼされる。
1148年  ドイツ皇帝コンラート、フランス王ルイ17世率いる第二次十字軍遠征軍、ダマスカスを前に敗走。*1  
1149年    ヌールッディーンの兄が死去。兄の領地モスールを引き継ぐ。
1150年    もとガズニ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落。その略奪によってガズニ朝は衰退。ガズニ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。
1154年    ヌールッディーン、ダマスカスに入城し、ムスリム=シリアを統一。*1
1157年    大セルジュークの支配を回復したサンジャルが病没し、東部ペルシアの大セルジューク朝滅ぶ。(ルーム・セルジュークは存続。)*1
1162年  アモーリー1世、イェルサレム王に即位(~1174)。  ムワッヒド朝、グラナダ占領。
   アラゴンの王子アルフォンソ(のち2世)、バルセロナ伯となり、アラゴンとバルセロナ連合成る。  
1163年    ファーティマ朝で権力争いに敗れた宰相シャワールからの援軍要請に応えてシールクーフがエジプト遠征。しかし、シャワールが復権後、十字軍と組んでシールクーフを攻撃(第一次)。シールクーフと十字軍は共に軍を引いた。
1167年  アモーリー1世、エジプト遠征。  シールクーフ、再びエジプト遠征。ファーティマ朝・十字軍連合軍と戦う(第二次)が、シールクーフ、十字軍とも軍を引く。*1
1169年    ファーティマ朝ではシールクーフが政治を専横していたが、その息子カミルからの援軍要請に応えてヌールッディーンが派遣した副将シールクーフ(第三次)がエジプトをザンギー朝の影響下に置く。シールクーフ、ファーティマ朝の宰相となるが2か月後急死。甥のサラディンが継ぐ。サラディンがエジプトでザンギー朝ヌールッディーンに対して独立。*1
1170年  イギリスでトーマスベケット事件(カンタベリ―大司教トーマスベケット、対立するヘンリー2世の黙認により暗殺される)。ローマ法王アレクサンドロス3世はヘンリー2世を破門。英と対立するフランス王ルイ7世も法王に同調。  
1171年  イェルサレム王アモーリー1世は、ヌールッディーンやサラディンの勢力拡大に危機感を感じ、ローマ法王へ十字軍派遣を要請する。しかし、トーマスベケット事件などで混乱する西欧情勢により、十字軍は実現せず。(*2 II-P211)  ファーティマ朝カリフ死去。サラディン、ファーティマ朝廃絶し、自ら宰相となり、ダマスカスのカリフに従うことを宣言。アイユーブ朝創設(~1250年)。*1
1174年    ヌールッディーン死去。サラディン、ダマスカスを奪う。*1
1183年    サラディン。アレッポを奪う。エジプト、シリアを統一。*1
1186年    カズニ朝、ゴール朝によって滅ぼされる。
1187年 map大  ヒッティーン会戦後、十字軍はティール、トリポリ、アンティオキアのみを保持。*1  サラディン、ヒッティーンの会戦でフランク軍を撃破。イェルサレムおよびフランク領の大部分を回復。*1
1190年map    アッカを前にサラディンの失敗。イギリス王リチャードの介入で、フランクはサラディンからイェルサレムを除く数都市を回復。*1
1193年    サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル=アーディルが再統一。*1
1194年 map大    ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
1204年  フランク、コンスタンティノープルで略奪。*1  
1214年  フランク、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。*1  アル=アーディルの息子アル=カーミルがフランクを撃退。*1
1229年    アル=カーミル、エルサレムをフリードリッヒ2世に引き渡し、アラブ世界から非難される。*1
1244年  フランク、エルサレムを失う。*1  
1248年  フランス王ルイ9世、エジプトを侵略するが、敗れて捕虜となる。*1  
1250年    スルタンのトゥーラーン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝滅亡。義母のシャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンとするマムルーク朝始まる(~1517年)。*1
1258年    モンゴルのフラグがバグダードを破壊、住民を虐殺。アッバース朝最後のカリフを殺す。*1
1260年    モンゴル軍、アレッポ、ダマスカスを奪うが、アイン・ジャールートの合戦で敗退。バイバルス、マムルーク朝の指導者となる。*1
1268年    バイバルス、モンゴルの同盟国アンティオキアを奪い、破壊・虐殺。*1
1270年  ルイ9世、侵略に失敗して、チュニス近郊で死去。*1  
1289年    マムルークのスルタン カラーウーン、トリポリを奪う。*1
     スルタンのハリール・アル=アシュラフ、アッカを奪い、中東におけるフランクの2世紀にわたる存在に終止符を打つ。*1


資料  石橋秀雄他 『世界史大年表』
 アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』*1
 塩野七生 『十字軍物語』*2
 スンニ派とシーア派について(『中東解体新書』NHK)_[写し]



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