年代 |
神聖ローマ帝国 |
周辺諸国 |
800年 |
カロリング朝 |
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カール、皇帝戴冠 |
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ローマ帝国を引き継ぐビザンツ帝国(東ローマ帝国)との間で「二皇帝問題」を引き起こす。 |
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812年 |
カールはヴェネツィアを放棄し、ビザンツ皇帝から「インペラトールにしてバシレウス」の称号を承認される。(インペラトール、バシレウスはどちらも“皇帝”の意) |
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843年 |
ヴェルダン条約;フランク帝国の三分割(カール大帝の孫の代)。東フランク王国の誕生 |
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870年 |
メルセン条約;中部フランク王国の再分割 |
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885年 |
東フランク王カール3世(肥満王)が一時的にフランク帝国領土を再復。 |
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887年 |
カール3世のフランク帝国が5つに分裂;東フランク、西フランク、ブルグンド、プロヴァンス、イタリア |
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911年 |
東フランク王国のカロリング家断絶 |
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東フランクは5つの大公国(バイエルン、フランケン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、ザクセン)から成り立つ。 |
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919年 |
オットー朝 |
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ザクセン大公ハインリヒ1世、国王選出(オットー朝成立)。 |
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936年 |
オットー1世、国王即位(~973年);カール大帝由来のアーヘンにて戴冠(以降約600年間アーヘンにて戴冠式) |
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951年 |
オットー1世、第一回イタリア遠征(~952年) |
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953年 |
リウドルフ(オットー1世長男)の反乱 |
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955年 |
レヒフェルトの戦い;ハンガリー人を撃退 |
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962年 |
オットー1世皇帝戴冠;神聖ローマ帝国の成立 |
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封建制国家(レーン制国家);家臣に領地をレーン(封)として与え、主従関係を結ぶ。皇帝が強い力を持てれば、中央集権化ができるが、神聖ローマ帝国ではそうならず、皇帝と封建関係にある者が自立化する傾向にあり、大小の領邦(ラント)が形成された。(*1
P10) |
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978年 |
ハインリヒ喧嘩公の失脚 |
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1024年 |
ザーリアー朝 |
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コンラート2世、国王即位;ザーリアー朝成立 |
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ca |
この頃から東フランク王国に代わって、ドイツ王国という名称が使われる。 |
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1055年 |
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トゥグリル・ペグはアッバース朝カリフから招かれてバグダードに入城し、カリフの実権を掌握。スンニ派の擁護者として、シーア派のブワイフ朝を討つ大義名分を得る。*1 |
1059年 |
ラテラノ教会会議で教皇選挙令を制定 |
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1066年 |
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ノルマン人によるイングランド征服。*2 |
1071年 |
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セルジューク朝の王アルプ・アルスラーン、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う。エジプトを除く中東全域のイスラム世界を支配下に置く*1。 |
1072年 |
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ノルマン人による南イタリアとシチリアの解放(キリスト教圏への奪還)。*2 |
1076年 |
教皇グレゴリウス7世、ハインリヒ4世を破門 |
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1077年 |
カノッサ事件;ハインリヒ4世、グレゴリウス7世に許しを乞い、破門を解かれる。 |
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1085年 |
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レコンキスタによりイベリア半島トレド奪還。*2 |
1086年 |
ハインリッヒにローマから追われたグレゴリウス7世死去。*2 |
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1088年 |
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ウルバン2世、テラチーナでローマ教皇に即位。南イタリアとシチリアを支配するノルマン朝を頼る。*2 |
1095年 |
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クレルモン公会議でウルバン2世、十字軍提唱。*2 |
1096年 |
第一回十字軍(~1099年) |
隠者ピエールの呼びかけに貧民、女子供まで、5~10万人が付き従い、施しを受けながらイェルサレムを目指す。しかし、ビザンツ帝国領内に入り、特にユダヤ教徒などに対しては略奪を行う。ニケーアのスルタン
クルジュ・アルスランに撃退される。 |
1097年 |
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十字軍最初の大遠征;ニケーア陥落。
ボードワンにより、エデッサ伯領成立。ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。*1 |
1098年 |
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十字軍、アンティオキア占領。ボエモンにより、アンティオキア公国(1098~1268)*1建国。 |
1099年 |
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ゴドフロワ・ド・ブイヨン、イェルサレム陥落させる。イェルサレム王国(1099~1291)成立。 |
1100年 |
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ゴドフロワ戦死。弟エデッサ伯ボードワン、エルサレムへ進軍し、イェルサレムの第二代国王となる。*1 |
1104年 |
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ダマスカスのスルタン ドゥカーク死去、アタベクであったトゥグ・テギーンが権力を掌握。後にブーリー朝(ダマスカス政権)を創設。*1 |
1105年 |
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バクダードのスルタン バルキヤーク死去。バクダードの兄弟間争いによる混乱が終息。弟はムハンマド・イブン・マリクシャーを名乗る。*1 |
1109年 |
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十字軍による2000日の攻城戦の果てにトリポリ陥落。トリポリ伯領(1109~1289)成立。*1 |
1110年 |
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十字軍により、 ベイルートとサイダ(シドン)陥落。*1 |
1122年 |
ヴォルムス協約;ドイツの叙任権闘争終結へ。 |
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1124年 |
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十字軍、ティロスを奪い、アスカロンを除く沿岸全土を占領。*1 |
1128年 |
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ザンギー、アレッポのあるじとなる。ザンギー朝成立(~1146年)*1 |
1138年 |
シュタウフェン朝 |
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コンラート3世、国王即位;シュタウフェン朝成立。 |
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1140年 |
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ザンギーに対し、ダマスカスとイェルサレムが同盟。*1 |
1144年 |
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ザンギーの攻略により、エデッサ伯領消滅。 |
1146年 |
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ザンギー暗殺され、子のヌールッディーンがアレッポを継ぐ。*1 |
1147年 |
第二回十字軍(~1149年)。ヴェンデ十字軍。 |
ムラーヴィト朝、ムワッヒド朝に滅ぼされる。 |
1148年 |
ドイツ皇帝コンラート、フランス王ルイ17世率いる第二次十字軍遠征軍、ダマスカスを前に敗走。*1 |
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1154年 |
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ヌールッディーン、ダマスカスに入城し、ムスリム=シリアを統一。*1 |
1157年 |
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大セルジュークの支配を回復したサンジャルが病没し、東部ペルシアの大セルジューク朝滅ぶ。(ルーム・セルジュークは存続。)*1 |
1162年 |
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ムワッヒド朝、グラナダ占領。 |
1167年 |
皇帝の支配に対抗するため、教皇の支援を受けたロンバルディア都市同盟の結成。*3 |
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皇帝派;ギベリン、教皇派;ゲルフ |
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1170年 |
イギリスでトーマスベケット事件(カンタベリ―大司教トーマスベケット、対立するヘンリー2世の黙認により暗殺される)。ローマ法王アレクサンドロス3世はヘンリー2世を破門。英と対立するフランス王ルイ7世も法王に同調。 |
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1171年 |
イェルサレム王アモーリー1世は、ヌールッディーンやサラディンの勢力拡大に危機感を感じ、ローマ法王へ十字軍派遣を要請する。しかし、トーマスベケット事件などで混乱する西欧情勢により、十字軍は実現せず。(*2
II-P211) |
ファーティマ朝カリフ死去。サラディン、ファーティマ朝廃絶し、自ら宰相となり、ダマスカスのカリフに従うことを宣言。アイユーブ朝創設(~1250年)。*1 |
1174年 |
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ヌールッディーン死去。サラディン、ダマスカスを奪う。*1 |
1180年 |
ハインリヒ獅子公の失脚。 |
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1183年 |
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サラディン。アレッポを奪う。エジプト、シリアを統一。*1 |
1181年 |
ザクセン大公領の分割。バイエルン大公領の分割。*3 |
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1187年 |
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サラディン、ヒッティーンの会戦でフランク軍を撃破。イェルサレムおよびフランク領の大部分を回復。*1 |
1189年 |
第三回十字軍(~1192年) |
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1190年 |
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アッカを前にサラディンの失敗。イギリス王リチャードの介入で、フランクはサラディンからイェルサレムを除く数都市を回復。*1 |
1193年 |
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サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル=アーディルが再統一。*1 |
1194年 |
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ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。 |
1204年 |
フランク、コンスタンティノープルで略奪。*1 |
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1214年 |
フランク、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。*1 |
アル=アーディルの息子アル=カーミルがフランクを撃退。*1 |
1229年 |
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アル=カーミル、エルサレムをフリードリッヒ2世に引き渡し、アラブ世界から非難される。*1 |
1235年 |
フリードリヒ2世、帝国ラント平和令を発布。
この頃から「神聖ローマ帝国」という名が定着。*3 |
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1244年 |
フランク、エルサレムを失う。*1 |
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1248年 |
フランス王ルイ9世、エジプトを侵略するが、敗れて捕虜となる。*1 |
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1250年 |
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スルタンのトゥーラーン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝滅亡。義母のシャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンとするマムルーク朝始まる(~1517年)。*1 |
1254年 |
国王コンラート4世死去;大空位時代(~1273年) |
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ca. |
この頃から「神聖ローマ帝国」という名が定着 |
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1258年 |
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モンゴルのフラグがバグダードを破壊、住民を虐殺。アッバース朝最後のカリフを殺す。*1 |
1260年 |
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モンゴル軍、アレッポ、ダマスカスを奪うが、アイン・ジャールートの合戦で敗退。バイバルス、マムルーク朝の指導者となる。*1 |
1268年 |
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バイバルス、モンゴルの同盟国アンティオキアを奪い、破壊・虐殺。*1 |
1270年 |
ルイ9世、侵略に失敗して、チュニス近郊で死去。*1 |
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1273年 |
ルードルフ1世(ハプスブルク伯)、ハプスブルク家初の国王となる。 |
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1289年 |
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マムルークのスルタン カラーウーン、トリポリを奪う。*1 |
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スルタンのハリール・アル=アシュラフ、アッカを奪い、中東におけるフランクの2世紀にわたる存在に終止符を打つ。*1 |
1291年 |
跳躍選挙時代(~1346年) |
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1322年 |
ミュードルフの戦い;ルードヴィヒ4世、フリードリヒ美王に勝利。 |
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1338年 |
レンス判告と帝国法「リケット・ユーリス」(国王選挙に対する教皇の認可権せお否定) |
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1346年 |
ルクセンブルク家 |
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カール4世、国王即位;ルクセンブルク家 |
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1356年 |
カール4世、金印勅書を発布;七選帝侯の成立。 |
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1414年 |
コンスタンツ公会議(~1418年) |
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1419年 |
フス戦争(~1436年) |
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1438年 |
ハプスブルク家 |
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アルブレヒト2世、国王即位;ハプスブルク家支配始まる。 |
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1453年 |
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オスマン帝国、コンスタンティノープルを攻略;ビザンツ帝国滅亡 |
1486年 |
帝国最終議会で「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の名が表れる。 |
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ca. |
この頃から、「開かれた国制」(皇帝との個別的人的結合関係により、対応が図られる)から、「凝集化」(国制が制度化していく)へ。(*3
P12) |
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1493年 |
マクシミリアン1世、ドイツ王に選ばれた者は教皇による加冠なく皇帝を称すると宣言(以降の先例となる)。 |
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1494年 |
イタリア戦争(~1559年) |
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1495年 |
ヴォルムス帝国議会;マクシミリアン1世、永久ラント平和令を発布。 |
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これ以前を「中世帝国」、以降を「近世帝国」と呼ぶこともある。 |
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1500年 |
第一次帝国統治院の設置。 |
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1511年 |
ホーエンツォレルン家のアルブレヒト、ドイツ騎士団総長に選出。 |
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1517年 |
ルターの宗教改革始まる。 |
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1521年 |
ヴォルムス帝国議会、第二次帝国統治院の設置。 |
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帝国台帳の300名;選帝侯、大司教、司教、世俗諸侯、高位聖職者、伯、フライヘル(下級貴族・帝国騎士)、帝国都市、選帝侯と大司教、司教くらいの100名程度が自立的に行動できた。(*1
P11) |
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1525年 |
プロイセン公国成立。 |
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1526年 |
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モハーチの戦い;ハンガリー、オスマン帝国に敗北。 |
1529年 |
オスマン帝国による第一次ウィーン包囲。 |
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1530年 |
カール5世、皇帝戴冠;教皇による最後の戴冠。 |
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1531年 |
シュマルカルデン同盟の結成。 |
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1538年 |
カトリック諸侯同盟の結成。 |
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1546年 |
シュマルカルデン戦争(~1547年) |
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1552年 |
諸侯戦争 |
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1555年 |
アウクスブルク帝国議会 |
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1583年 |
ケルン戦争(~1584年) |
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1606年 |
ドナウヴェルト事件 |
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1609年 |
ユーリヒ=クレーヴェ継承戦争(~1614年) |
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1618年 |
三十年戦争(~1648年) |
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1629年 |
フェルディナント2世、復旧勅令を発布。 |
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1630年 |
選帝侯会議;皇帝軍の傭兵隊長ヴァレンシュタインを罷免。 |
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1635年 |
プラハ和約;プロテスタント諸侯、皇帝と和睦。 |
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1640年 |
フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)、ブランデンブルク選帝侯となる。 |
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1648年 |
ウエストファリア条約(後に「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われる)締結。三十年戦争終結。 |
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1658年 |
ライン同盟の結成。 |
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1663年 |
永久帝国議会始まる。 |
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1667年 |
フランドル戦争(~1668年) |
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1672年 |
オランダ戦争(~1678年) |
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1682年 |
帝国議会で帝国軍制まとまる。 |
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1683年 |
オスマン帝国による第二次ウィーン包囲。 |
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1688年 |
プファルツ継承戦争(~1697年) |
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1692年 |
ブラウンシュバイク大公、ハノーヴァー選帝侯となる。 |
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1697年 |
フリードリヒ・アウグスト1世(ザクセン選帝侯)、ポーランド王位獲得。ライスワイク条約。 |
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1700年 |
大北方戦争(~1721年)。スペイン王カルロス2世死去(スペイン系ハプスブルク家の断絶) |
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1701年 |
プロイセン公国、王国に昇格。 |
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1702年 |
スペイン継承戦争(~1713年) |
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1713年 |
カール6世、国事詔書を公布。 |
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1714年 |
ゲオルク・ルートヴィヒ(ハノーヴァー選帝侯)、イギリス王に即位(ハノーヴァー朝始まる)。 |
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1717年 |
宗教改革200年祭 |
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ca. |
ヴォルテール(仏啓蒙思想家)、神聖ローマ帝国を評して「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国でもない」 |
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1740年 |
フリードリヒ2世、プロイセン王に即位。 |
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カール6世死去;ハプスブルク家の男系相続断絶。 |
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マリア・テレジア、ハプスブルク君主国を相続。 |
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オーストリア継承戦争(~1748年) |
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1742年 |
ヴィッテルスバッハ家のカール7世、皇帝即位;ハプスブルク家の帝位いったん途絶。 |
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1744年 |
フランクフルト連合の結成 |
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1756年 |
外交革命;オーストリア、宿敵フランスと同盟。 |
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七年戦争(~1763年) |
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1772年 |
第一次ポーランド分割 |
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1778年 |
バイエルン継承戦争(~1779年) |
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1785年 |
諸侯同盟の結成 |
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1789年 |
フランス革命始まる。リュティヒ暴動 |
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1790年 |
帝国議会で三部会決定。 |
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1791年 |
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ヴァレンヌ事件;フランス王一家の国外逃亡失敗。 |
1792年 |
フランス、オーストリアに宣戦布告。フランツ2世皇帝即位。 |
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1793年 |
第二次ポーランド分割 |
仏王 ルイ16世処刑。 |
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帝国議会、対仏戦争を帝国戦争と宣言。第一次対仏大同盟(~1797年) |
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1795年 |
バーゼルの講和;プロイセン、フランスと講和。 |
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第三次ポーランド分割 |
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1799年 |
第二次対仏大同盟(~1801年) |
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1803年 |
帝国代表者会議主要決議 |
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1804年 |
フランツ2世、オーストリア皇帝を名乗る(フランツ1世)。ナポレオン皇帝即位に対抗。 |
ナポレオン、フランス皇帝に即位(ナポレオン1世)。 |
1805年 |
第三次対仏大同盟。 |
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アウステルリッツの戦い;ナポレオン、オーストリア・ロシアを破る。 |
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1806年 |
ライン同盟の結成。ライン連盟16邦、帝国離脱を宣言。フランツ2世、皇帝退位宣言;神聖ローマ帝国の終焉。 |
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フランツ2世は解体する帝国の名前を「ドイツ帝国」と呼んだ。 |
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後に「神聖ローマ帝国は、国民を持たないが多くの民族を統合し、中央集権的ではないが紛争解決能力を有し、異なる文化を包摂する連邦的な政治組織体だった」と評される。*3 |
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: |
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1871年 |
ドイツ帝国成立(第二) |
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: |
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1920?年 |
ナチスのドイツ第三帝国 |
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