椿 井 文 書

椿井文書・興福寺官務牒疏

椿井文書

※参考文献
「興福寺官務牒疏」興福寺本
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収)
「椿井権之輔周辺による近世伽藍絵図について」松岡久美子(「忘れられた霊場をさぐる[1]」栗東市文化体育振興事業団、2005  所収)
「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘(「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008) 所収)
「近衛基通公墓と観音寺蔵絵図との関連について-『興福寺官務牒疏』の検討-」藤本孝一(「中世史料学叢論」藤本孝一、思文閣出版、2009 所収)
「宇治・南山城入門 知られざる偽書『椿井文書』」馬部隆弘、宇治市民大学テキスト、2015
「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020

「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘(「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008)所収) より
 ※本論考では、椿井政隆の偽文書創作の基本的手法、出自、活躍範囲について詳しく述べられる。

 樺井文書とは何か、現段階では以下のように理解される。
椿井文書とは、椿井政隆(椿井権之輔・明和7年/1770〜天保8年/1837)により創作された古文書を装ういわば偽文書であると云える。
この文書は18世紀末期から19世紀初頭にかけて大量に作成されたもので、これは椿井政隆の活動期と重なる。
その特徴は、例えば興福寺官務家などに伝わる中世に属する古い資料の「模写」と云う体裁をとるところにある。

 興福寺官務家などに伝わる資料を写したなどと称するのは、この文書が中世のものであると偽装する意図であり、中世そのものの文書を椿井政隆の生きた時代に作成するわけにはいかないから、後の時代に 「模写」された文書とするわけである。
現に「模写」されたとする年号は椿井政隆の活躍期とそれ以降に集中する。
 この椿井文書が罪深いのは、これらの文書が椿井政隆が活躍した地域(東近江、山城南部、大和北部、河内交野郡・石川郡)ではその地域を語る上での重要な史料的位置を占めていると云うところにある。
つまり、椿井政隆が活躍した地域の中世史は、かなりの比重を以って、偽文書・椿井文書に依拠して、構成されているところにある。
椿井文書とは、繰り返しになるが、あくまで江戸後期の椿井政隆個人の歴史観(その目的は良く分からない)で以って創作されたものであり、その歴史観は知識人としての椿井が地誌やフィールドワークにいくら優れているとしても、決して中世の姿そのものを伝えるものではないからである。
椿井政隆の世界観によって創作された文書が、その地域の中世の世界観の基礎であるとは、まことに罪深いことであろう。

 ではなぜ江戸後期に作成された「椿井文書」が中世文書として流布するのか。
それは、中世の史料が殆ど現在に伝わらないのが現実であり、その現実の中で椿井文書が中世史料の模写であるとの触れ込みで流布すれば、歴史に関係する者は容易にその椿井文書に飛びついてしまうと云う構図になるからである。
そして、中世の史料は殆ど現存しないと云うまさにその事が、例え偽書であっても検証方法がなく、ついつい真正な史料として取り扱いされてしまうと云うことになるのであろう。
 さらに、椿井の手口は込み入った方法を採る。
即ち、「興福寺官務牒疏」などと云う一見して著名な権威を漂わせる「根本史料」を創作し、その「根本資料」に個々の創作文書を関係付け、また創作文書を例えば国(行政区)を越える形で複数創作し、お互い同士で信憑性を補完し合うことができるように偽書作成を行うような巧妙さを持つものなのである。
まさに、以上のような椿井の巧妙な手口によって術中に嵌められるというわけである。
 その上、椿井は文書収集家であり、常に現地を綿密に調査した上で、文献や調査結果を踏まえて創作を行うため、何がしの現地の現実を含む偽書に仕立て上げ、この意味でも、 椿井文書の偽の信憑性の確保に成功することにある。
 ※「興福寺官務牒疏」自体も椿井政隆の創作つまり偽文書である可能性は限りなく高い。

 以上のように、椿井文書はその地方にとって近世以前の歴史を語るための願っても無い格好な材料となる。
とかく歴史というものは古から連綿として続き、古にはかくも盛大な事象があったというのが好まれるものなのであろう。
 さらに、不幸にしてというべきであろうが、広範に流布した背景には以下の事情もある。
椿井文書は椿井本人によってその地方に残されたものもあろうが、その多くは明治20年代に椿井氏(後裔)によって質入され、その質入された文書は、質入先である今井氏(山城木津在住)の手で売却され、その売却文書は関係する地域各所で椿井氏によって蒐集された中世文書が還流されたとして取り扱われる経緯を辿る。つまり、椿井文書は必要以上に中世文書として取り扱われる結果となる。

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以下の2項目は本人(s_minaaga)の体験である。

○息長山の山号
 初めて山城普賢寺の山号を息長山と知ったとき、妙な「違和感」を覚えたことを記憶している。
これはどうしたことなのであろうか。
それは、南山城に息長氏に担がれた継体天皇が筒城宮を設置した云々と云う記紀の記事があるにせよ、「息長山」と云う山号は唐突すぎるからである。
そもそも、応神天皇5世の子孫などと云うまた地方から招聘されたと云う(このこと自体がどこかの「うまのほね」ということを示している)継体天皇自体が胡散臭い存在であるし、そういった胡散臭い存在に関係する「山号」など、胡散臭さが胡散臭さを呼ぶといった類の話であろう。
そもそも、息長氏とは北近江や美濃や越前の勢力と云われ、山城には縁がないからである。

 ところで、山城綴喜郡普賢寺の山号を息長山としたのは椿井政隆と云う。
なるほど、この山号は南山城を拠点にし、普賢寺を中心とした歴史の創作に熱心であった椿井政隆の付与であるということであれば、この唐突さは容易に肯定け、「違和感」は解消される。
椿井政隆なら、「さもありなん。古今の文献に精通し、故郷の権威付けに熱心な政隆であれば、息長山と付与することは会心の命名」であったであろうと思われるからである。

○「興福寺別院云々・・・」と云う伽藍古絵図
古の古塔を探している時、東近江、山城、河内などで「興福寺別院云々・・・」と云う古絵図に、時々遭遇することがある。
この時、これ等の絵図の「壮大さ」には「本当にこのような壮大な伽藍が存在したのであろうか」という疑いと胡散臭さを覚えたものである。
 これ等はほぼ例外なく、中世の古絵図を近世後期に写したものであると云い、興福寺別院などとの触れ込みがある。
この絵図は特に東近江の古寺に偏在する印象がある。
さらに、中世の絵図の写本といいながら、絵は実に近世風な絵の印象であり、伽藍・堂塔の様子もことさらに誇大な印象を受ける。
以上のインチキ臭さのためであろうか、世の歴史家は「これ等の絵図は、何等かの中世の史料を元に、近世になって描かれたものであり、その風景には何がしの真が含まれているであろう云々・・・」との解説をなす場合もある。
 しかし、実はこれ等の絵図は椿井政隆のある目的を実現するための創作(偽書)であると考えれば、妙な印象や不安は一掃される。
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「椿井権之輔周辺による近世伽藍絵図について」松岡久美子
     (「忘れられた霊場をさぐる[1]」栗東市文化体育振興事業団、平成17年(2005)  所収) より
 椿井権之輔は故実・国学・物産学などに通じ、近江・山城・大和の各地を古文書や古絵図を求めて渉猟したほか、自ら写した(創作した)系図や古文書、絵図等を寺社や旧家に納める。
これ等は時にかなり荒唐無稽な内容を含むが、彼の絵図類で採った手法は、彼が各地を渉猟して得た雑多で広い知識の上に構想された彼の理想世界を、巧みに現実の地理の上に重ねるというものであった。そして、まさにこのことによって古史料と偽装した古文書・絵図類は効果的に信憑性を得ると云うものであった。
かくして、彼の描く絵図類はその地域ごとに一定の影響力を持つものとなり、現に今もかなりの影響力を持つ位置にある。
(「興福寺官務牒疏」は 椿井の手になる偽書とほぼ断定できるが、その「官務牒疏」は絵図や縁起や地誌類などの様々な種類の「椿井文書」と相互に裏づけ・補完する役割を持つ。その「官務牒疏」は椿井自身の書写によって紅葉山文庫<御文庫>に納められると云う。)

2010/03/20追加:
偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収) より
 山城・大和・河内国境(以下畿内国境地域)周辺には無数の由緒書類や偽文書が存在する。
そして、それら近世の創作に基づいて当該地域の前近代史を叙述する自治体史も少なくない。さらに、その叙述を諸研究が無批判に引用するとう現象が散見される。
 椿井政隆(明和7年1770〜天保8年1837)は山城国相楽郡椿井村に在住した考証家で、数多くの文書を蒐集し、またそれを基に様々な考証を加えた文章・絵図を創作していた。その椿井の偽文書創作は早くから中村直勝氏によって指摘されていたが、研究史上、椿井文書は様々に取り扱われた。
 地元の「田辺町史」では、椿井文書の危うさを知ってか知らずか、椿井文書を多用する。そして自治体史という性格(権威のある図書)から引用に引用が繰り返されている。
「山城町史」では、初めて椿井文書に史料批判が加えられる。(「吐師川原到着状」、「仏河原到着状」、「狛左京亮殿古書」<椿井家古書目録166>などを仮作とする。)(「松尾神社縁起」、「北吉野山神童寺縁起」<椿井家古書目録18>については断定を避けるも、疑問を呈して引用する。)
 同じ頃、藤田恒春はその著「元亀の起請文について」で、元亀の起請文の巻子装は、椿井が蒐集し、成巻したことを紹介し、さらに椿井は「南龍子広雄」「南龍堂椿井権之輔」「平群政隆」などと称したことも紹介した。
 そして現段階で椿井文書を最も詳細に分析したのは藤本孝一である。
その著「近衛基通公墓と観音寺蔵絵図との関連について-『興福寺官務牒疏』の検討-」では、「興福寺官務牒疏」などが椿井文書であることを考証した。現段階では椿井文書の最も詳細な分析であろう。
 ※この論文は当ページ及び山城普賢寺のページで参照。
 筆者・馬部隆弘も「三宮神社文書」(5点)の事例で椿井文書の作成契機と伝来過程を分析した。椿井家は明治7,8年頃零落し、長持2棹ばかりの古文書を木津の今井家に質入した。その後椿井家は滅び、古文書は今井家の手に帰し、今井氏は古文書との因縁を持つものに対して、相当の謝礼金と引き換えに古文書を引き渡した。「三宮神社文書」も今井氏より明治28年に購入され、さらに絵図(現在行方知らず)と津田地区の有力家20家の系図も購入された。この系図は各家に再分配された。
 次に具体的事例を考察する。
本著の『ニ.近世における式内社顕彰と「椿井文書」』の項では山城綴喜郡の近世式内社の選定の動向が要領よく纏められている。
以下に要約する。
「横井文書」の作成には享保年中に刊行された「日本輿地通志畿内部」(所謂「五畿内志」が大きく関わっている。「五畿内志」が並河誠所の編纂であるが、並河の式内社顕彰に椿井は大きく影響されている。
式内社は近世に至るまでの過程で多くは紛れていた。(※と云うより多くは廃絶していたのであろう。)
しかし、並河は「五畿内志」編纂に当たり、式内社の所在比定を徹底して追及した。追及のあまり、しかし、並河は付会とも言うべき強引なこじつけをまま行ったのである。

 以下は山城綴喜郡における式内社比定の要約である。 → 綴喜郡における諸社(神仏分離)
綴喜郡
延喜式神名帳
   記載13座
現在の比定 備 考:
茶色で示す文言は馬部論文の要約。「椿井文書」の存在が確実視される事項である。
樺井ノ月神社・大 寺田村(久世郡)の水主神社 当社は綴喜・久世郡の郡堺にあり、久世郡水主神社に兼掌され、同社境内に移転と云う。
現在本殿の側に末社として在る。寛文12年(1672)に遷すと云う、
朱智ノ神社 天王村 「朱智牛頭天王宮流紀疏」(椿井文書・偽書)が知られる。天王村牛頭天王は本来朱智神社であったと説く由来書が存在する。
月読ノ神社・大 大住村 確証はないが、月読社の「古伝説」は限りなく「椿井文書」であると推定される。
咋岡神社 飯岡村 いわゆる論社である。→上に掲載の咋岡神社の項を参照。
高ノ神社 多賀村 「大梵天王」の扁額があると云う。宇多天皇筆というも、年紀の形式、翻刻された添状の官位などから、近世の偽書であろう。
内ノ神社 内里村 当ページ(「綴喜郡における諸社(神仏分離)」)には非掲載
粟ノ神社 市辺村 当ページ(「綴喜郡における諸社(神仏分離)」)には非掲載
棚倉孫神社・大 田辺村内天神森村 由来書が現存する。ここには椿井文書である「田辺城主系図」に出てくる同じ人物が登場する。間違いなく「椿井文書」であろう。
佐牙乃神社 江津村(宮津) 並河誠所が最初に比定、その根拠は小字「佐牙垣内」からであろう。「佐牙神社本源記」なる古文書がある。この文書は他の「椿井文書」と共通する記事が多くあり、また「特選神名牒」に「木津村今井某所蔵」とあり、「椿井文書」に間違いない。
酒屋ノ神社 興戸村 .
甘南備ノ神社 薪村 社蔵史料に「山城国神奈備記」なる社伝がある。体裁を全く一にする他の「椿井文書」がある。これも「椿井文書」であろう。
天神社(アマツヤシロ) 松井村 松井天神社の「椿井文書」は未確認であるが、松井天神社にも「椿井文書」があったと考えて間違いないであろう。その理由は下の項を参照。
地祇神社(クニツヤシロ) 上村(普賢寺) 普賢寺の鎮守といい普賢寺境内にある。明治6年式内地祇神社と付会される。

 天王村牛頭天王を式内朱智神社と主張しはじめたのは椿井である。まず間違いなくいえるのは「朱智」と云う文言が入った文書は「椿井文書」である。天王村牛頭天王を含む普賢寺郷には大量の「椿井文書」が流布している。そこには「朱智庄」「朱智長岡荘」などの荘園や「朱智氏」と云う一族も史実化しつつある現状であるが、これ等は全て、式内朱智神社を天王村牛頭天王に付会するために傍証史料として作成されたものなのある。

  綴喜郡の式内社のうち、近世段階に至るまで地元民に式内社と認識し続けられた神社は一社もないのは厳然たる事実である。
現在は近世中期から明治初期の考証の結果、上記の一覧表のように全て比定されている。これは「特選神名牒」の教部省の編集過程の調査(明治7〜9年)で確定したものである。
近世の綴喜郡式内社の比定の様子は以下の通りである。
◇「雍州府史」黒川道祐、貞享元年(1684):式内社の一覧はあるも、石清水八幡宮・その末社しか具体的記述はない。
◇「山州名勝志」坂内直頼、正徳元年(1711):薪村甘南備山の神社(甘南備神社)、田辺村内天神森村天満宮(天神社)、興戸村酒屋社(酒屋神社)を比定、天王村牛頭天王社は鎮座記不詳と記す。
 ・薪村の甘南備山の神社について「案此社所載延喜式綴喜郡甘南備ノ神社是ナル歟」
 ・天神森村の天満天神を祀る天神宮を「此宮ハ所載延喜式綴喜郡天神社是也、非天満神」
◇「山城名勝志」大島武好、正徳元年(1711):田辺村内天神森村菅原天神(天神社)、薪村甘南備山腹神社(甘南備神社)と比定、多賀村粟明神(粟神社)、下狛村鞍岡天神ノ社(咋岡神社)と推定する。
 ・天神森村「今天神森神社土人称菅原天神、疑是神名帳所載天神社乎、按続古今集あめの宮の神詠あり、此神社歟、後人可詳」
 ・「今薪村坤有山、土人誤呼間鍋山、甘南備神社坐山腹森内」
◇「山城志」(所謂「五畿内志」の内)並河誠所、享保19年(1734):並河は式内社の所在を徹底追求する。初めて全ての式内社に論及する。
特に、田辺村内天神森村の神社を棚倉孫神社と比定、但しその根拠は不明。(「タナ」の音の一致か、式内大社であるから、大邑の田辺村に求めたのか)
次いで、天神社は天王村の牛頭天王社を本来は天神社と主張する。その根拠は特に示されないが、天神と天王の音の一致であろう。
なお朱智神社は延喜式以外の史料に全く表れず、同社境内の前近世の銘は全て「牛頭天王」とあり、強引な付会をした並河でさえ「朱智神社 在所未詳」としている。
◇「山城名跡巡行志」浄慧、宝暦4年(1754):式内社に関しては基本的に「山城志」に従うも、若干の異同もある。
例えば、浄慧は式内天神社とするのは天神森村の天神社で、この部分に関しては「山州名跡志」の記述を引用する。
しかし、棚倉孫神社の項では「山城志」の記述を引用するため、一社について棚倉孫神社と天神社のあたかも2社あるよう記述するという矛盾をきたしている。
◇「都名所圖會」秋里籬島、安永9年(1780):田辺村内天神森の神社を天神神社とし、天王村牛頭天王社は牛頭天王として紹介する。
 ↓
参考:
2022/07/22追加:
○「都名所圖繪」 より
本文:
南備山〔薪村の西にあり、峰に水晶石あり〕天神杜〔薪村の南に隣る〕
天神宮〔天神杜の西の端にあり、祭る所は天神社<あまつかんな>なり、延喜式に出たり。土人天満天神といふ、此里の産沙神なり、祭は九月十一日〕
繪圖: 薪酬恩庵・天神森天神宮:天神森天神社は「天神宮」の名称で描かれる。

明治41年の「山城綴喜郡誌」には各神社の社伝を引用している箇所が多数あるから、郡内の神社には多くの由来書が残されていると思われる。その内確認できるものは「上表」の 「備考」欄に「茶色の文字色」で示す。これらはまず「椿井文書」と確認できるから、綴喜郡内の神社には「椿井文書」」が由来書として存在することが確実である。
そのほか、確認できない神社についても、上記の引用を見る限り、中世の事跡(焼失と再建)が日付単位にまで分っている特徴があり、これはまさに「椿井文書」の特徴でもあり、おそらく綴喜郡内のほぼ全ての式内社にその事跡を記した「椿井文書」(偽書)が存在するものと思われる。
ではなぜ椿井は式内社の由来を網羅的に作成したのか。
 「朱智牛頭天王宮流紀疏」と云う由来書がある。「下司息長宿禰」らが康元元年(1256)に作成したと自称すると云う。
この中で「朱智神社」の本来の祭神は迦爾米雷(カニメヅチ)王とし、その後牛頭天王が合祀されたと説く。この祭神の根拠(典拠)は明らかで、享保13年(1733)度会延経「神名帳考証」であろう。ここには「迦爾米雷(カニメヅチ)王 旧事紀云、山代大筒城真若王児迦爾米雷王、按雷訓豆知、豆与朱音通」とある。度会説もいい加減にしろと云いたくなる付会(雷は豆地<ヅチ>と訓み、豆と朱は音が通ずるという)であるが、椿井は以上から系図などを創作し、ついには子孫として「朱智」氏や「息長」氏を作り上げ、朱智神社の祭祀を行ったとする。<椿井家古書目録143>はこれ等を纏めたものであろう。
かくして、天王村牛頭天王は「朱智牛頭天王宮流紀疏」(椿井作偽書)によって、明治の世になり、強引に「古名に復し」朱智神社と改号する。
ではなぜ椿井はこのような創作を行ったのか。
それは並河の「山城志」の弱点を補うためであり、弱点とは資料的裏付けを欠く故に弱点であり、その弱点を補修するために、偽文書を創作したのであろう。椿井は普賢寺郷の富裕層の「世に出る」要望に答えたものなのであろう。
 椿井は並河が天神社とした牛頭天王を朱智神社とし、並河以外が天神社とする天神森の神社を棚倉孫神社とした以上、新に天神社の比定をする必要があった。
並河の「山城志」には綴喜郡の式外社として7社をあげ、内の1社は「松井村の坐す神祠」の記載がある。この神祠は大和志では「明応の修復」があり、これは「綴喜郡史」の松井天神社の由緒と一致する。松井天神社の「椿井文書」は未確認であるが、以上の経緯から、松井天神社にも「椿井文書」あったと考えて間違いないであろう。
 並河は「山城志」で綴喜郡内の式内社を朱智神社を除き、全て付会した。椿井は並河の付会を創作文書で補強し、朱智神社・天神社の比定を新に捏造した。つまり、この地方では椿井の造り出した文書が式内社由来として確立しているのである。
当然、現在の式内社研究の到達点である「式内社調査報告」は並河及び椿井の比定を相当としている。恐るべきことである。

 ※本著の『三 「伝王仁墓」をめぐって』 及び 『「南山城郷士」関係の「椿井文書」』 への言及は省略する。
  伝王仁墓は枚方市藤坂にあり。

 2022/07/22追加:
 ※論文「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」については、
書籍「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020>「第4章 受け入れられた思想的背景」>「2.式内社の受容」にほぼ原形のまま収録されているので、ことらの方が入手しやすい。


椿井文書と判明している古文書・絵図など

椿井文書といわれる文書は大量に存在する。
 (「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘 などによる。)
以下は一例である。

◇寺社境内図
 ・山城普賢寺四至図
 「興福寺別院普賢教寺四至内之図」<官務牒疏74>
  2010/03/15追加:
  普賢教寺四至内之図-1:天明8年以降の作成か、椿井本人の作品か。下の明治33年模写の原本か。
   山城国普賢寺郷惣図(陽明文庫蔵):上の普賢教寺四至之図の下敷となった絵図と思われる。
  2010/03/20追加:
   綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図(京都府立総合資料館蔵):2018/05/11画像入替
    上の山城国普賢寺郷惣図と同一であろう。これも椿井文書の特徴が良く表れる。
    ・筒城郷とは古代の郷名である。
    ・「文明14壬寅年(1482)・・始図之」「文正6己巳年(1509)・・加増補再画之」など中世の年紀記述では有り得ない表現がある。
     この形式は近世であり、中世であれば、「文明14年壬寅・・・」となる。
    ・朱智庄・朱智天王は椿井文書にしか出現しない、公文・下司など椿井文書の特徴文言が見られる。
    ・中世に描き、中世に加増補再画、近年に模写した云々の割注は椿井文書の騙しの常套手段である。
    :当図には模写年紀がないが、「・・春日社新造屋古図模写之」とあり、天明8年以降であるのは確実であろう。
 以下は2009/01/06撮影:
  山城普賢寺所蔵本を撮影する。
  普賢寺四至内之図1:全図           普賢寺四至内之図2:中心伽藍部分図        普賢寺四至内之図3:中心伽藍部分図
  普賢寺四至内之図4:表紙           普賢寺四至内之図5:右肩部分図           普賢寺四至内之図6:左上部部分図
   ※以上(1〜6)は明治33年模写図
    →山城普賢寺
 ・近江歓喜光寺絵図<官務牒疏170>
  興福寺別院近江国坂田郡筑摩随一冨永山歓喜光寺絵図:正応4年図を文明6年模写したもの(蓮成寺蔵)
   ※本図の実態は不明であるが、下に掲載の「近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図」と同じ年紀を持つこととその描画の特長から、
   「近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図」と同時に作成された「椿井文書」であろう。
  2005/12/11追加:「社寺境内図資料集成 2巻」より
   近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図:<椿井家古書目録84>
    坂田神明社蔵;「文明6年正月以古図写之」とある。・・・下にカラー図版を掲載。
     同上    部分図(歓喜光寺)
  2020/09/13追加:
  「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
   近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図
    →近江歓喜光寺
 ・近江安養寺絵図<官務牒疏109><椿井家古書目録95か?>
  「興福寺派下金勝寺別院鈎安養寺之絵図
 ・近江宝光寺絵図<官務牒疏130>
  (宝光寺絵図) 「金勝寺別院駒井図法光寺四至封彊界図」
 2010/03/15追加:
 ・近江上の笠堂絵図<官務牒疏131> <椿井家古書目録72>
   ・・・大菩提字(金勝寺)別院法光寺の別院笠堂医王寺絵図。「草津市史 巻1」に掲載
   ※永正13年(1516)?の古図とする?。(写真不鮮明)
 2010/03/15追加:
 ・近江下の笠堂絵図<官務牒疏132> <椿井家古書目録109>
   ・・・大菩提字(金勝寺)別院法光寺の別院笠堂西照寺絵図。「草津市史 巻1」に掲載
   ※「西照教王寺伽藍之絵図」。写真が不鮮明で年紀など不明、しかし「官務牒疏」のままの表題であり、偽書であろう。
 ・大般若寺絵図<官務牒疏136>・・・未見、「草津市史 巻1」に掲載
 ・蓮華寺絵図・・・塔婆の描画なしのため、当サイトには不掲載、「興福寺官務牒疏」に記載なし。
 ・近江金剛定寺伽藍絵図<椿井家古書目録96>
  「東大寺別院龍護西中山金剛定寺伽藍之絵図」・・・金剛定寺は「興福寺官務牒疏」に記載なし。
 ・大菩提寺<官務牒疏105><椿井家古書目録95>
  興福寺別院金勝寺圖略
 ・金勝寺別院高野四箇寺
  「興福寺派下金勝寺別院高野四箇寺四至之図」(大正3年書写は「里内文庫」にある)・・・未見
 ・少菩提寺<官務牒疏151>
  「円満山少菩提寺四至封彊之絵図
    →近江少菩提寺
 ・川辺寺図(個人蔵)・・・実態不明。
 2010/03/15追加
 ・飯道寺<官務牒疏181><椿井家古書目録123>
  「金寄山飯道寺之図」:大永(1521-)の年紀がある。

 2010/03/15追加:
 ○「山城国鷲峰山都卒遮那院大龍華三昧教寺全図」<椿井家古書目録180>
  山城国鷲峰山全図:山城金胎寺絵図、山城醍醐寺蔵、これも椿井文書と断定して良いであろう。
  「嘉暦2丁卯年(1327)画之、以古図模写・・・・至徳元甲子年(1384)」とある。
   →山城金胎寺
 ・「高麗大寺図」(山城町役場蔵)・・・未見
   2020/09/13追加:
   「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
   仏法最初高麗大寺圖:山城郷土資料館寄託浅田家文書
    →山城高麗寺跡 及び 山城泉橋寺
 2010/03/20追加:
 「山城国井堤郷旧地全図」<椿井家古書目録184> → 次項で紹介する。

2012/02/29追加:
井堤寺・大光明寺:「山城国井堤郷旧地全図」<椿井家古書目録184>
 本図は複数の旧家に所蔵されると云う。
入手資料では、
「井手町の古代・中世・近世」に掲載図(模写本その1・甲図)、
「井手町の近代Tと文化財」に掲載図(明治期木下千代子模写本・甲図写本)、
井手町井手寺跡公園現地説明板 (模写本その3・乙図)
が確認できる。
(模写本その1・甲図)
○「井手町の古代・中世・近世」井手町史編集委員会、1982 より
 山城国井堤郷旧地全図:部分1
 山城国井堤郷旧地全図:全図1:模写本その1
本図は康治2年(1143)に井手町を詳しく描いた古絵図としても有名である。
その描くところは、玉川北岸水無付近に「下司館」があり、石垣には「公文所館」が描かれる。また「下堤里亦曰水無ノ里」の先には広い敷地の「大光明寺」があり、その門前には「寺垣内」8軒が見える。門前東は玉ノ井で、その東は「椋本神社」が建ち、その東方玉川沿いに「八軒屋」があって、さらに東に「井堤寺」がある。・・・・・「公文所館」に東方・南方には美努王以下橘氏一族の館地やゆかりの地が目につく。
この古絵図は享和3年(1803)9月上幹椿井南熊軒平群広雄の手になるものもしくはそれを模写したもので、享和図の原図は東大寺絵所法橋俊秀によって康治2年9月に作成されたものを、橘友秀(南朝方・建武2年戦死)が嘉暦元年(1326)6月、画工秦友宜に模写させ自らも加毫したものである。
二度目、三度目の模写によるものは現在数家に所蔵されている。
そして、この彩色・1m余四方の一枚は今後とも古の井手の姿をわれわれに語りかけてくれるに違いない。
 ※本書は、本図が康治2年(1143)の原図を享和3年(1803)に「椿井南熊軒平群広雄」(椿井政隆)が模写したものであると、全く疑う素振も見せない。
その故なのか、あるいはその逆で疑いたくはないのか不明であるが、絵図の描く古代世界に絶大なる信頼を置いているように見える論調で貫かれる。△
(明治期木下千代子模写本・甲図写本)
○「井手町の近代Tと文化財」井手町史編集委員会、1999 より
 山城国井堤郷旧地全図:全図2:木下千代子模写本
 模写図は平安末期の様子をよく伝え、井堤寺(円堤寺)の繁栄ぶりは本図によって偲ぶことができる。(大きさは147cm×104cm・彩色)
即ち井堤寺は東西南北とも160mの規模を誇り、三重塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大寺であった。
 ※三重塔というのは如何なる資料に基ずくものなのかは不明であるが、「山城国井堤郷旧地全図」に基ずくものであれば、これは錯誤であろう。本書で参照する「全図」では、井堤寺塔婆は三重塔ではなく二重塔のように描かれるからである。△
 本書に掲載の古絵図は明治期に木下千代子(旧姓宮本、井堤保勝会初代会長宮本喜三郎の三女、大正3年29歳で歿)によって模写されたものである。
原図は康治2年(1143)に東大寺絵所法橋俊秀によって作成され、嘉暦元年(1326)に橘友秀が画工秦友宜に模写させ、更に享和3年(1803)に椿井南熊軒平群広雄が模写したはずであるが、木下模写図からはこのことははっきり読み取れない。明治期の模写は奥書によって3回目の模写になることが分かるが、どうやら模写の都度加筆があった模様である。
従って、この古絵図がどれだけ平安末期の井堤郷の様子を伝えているかどうかは断定できないが、・・・参考図としては貴重なものであろう。
 ※前書・後書(本書)とも掲載された図版が小さくかつ不鮮明で判然とはしない(少なくとも文字は殆ど判読できない)が、
前書の「山城国井堤郷旧地全図:全図1」と後書(本書)の絵図とは明らかに違うもので、後書(本書)に掲載絵図が木下千代子の模写によるものと知れる。△
(模写本その3・乙図)
○井手寺跡公園現地説明板
現地説明板に「山城國井堤郷舊地全圖」の掲載があり、さらに若干の解説がある。
 山城國井堤郷舊地全圖:全図3:模写本その3
 山城國井堤郷舊地全圖:部分2:井堤寺・大光明寺部分
 山城國井堤郷舊地全圖:部分3:井堤寺部分
 山城國井堤郷舊地全圖:部分4:大光明寺部分
 山城國井堤郷舊地全圖:部分5:由来部分
解説(要旨):本図の原図は平安時代康治2年(1143)に描かれたものである。付近一帯には井堤寺の他、玉井沌宮、諸兄山荘等が描かれ、橘氏一族の別業地として栄えた往時が偲ばれる。
 ※本解説によれば、原図は康治2年(1143)に描かれたものとの認識に立つようで、江戸後期に創作された偽絵図であるとの認識は無いようである。△
 ※表題及び落款
表題は「山城國井堤郷舊地全圖」康治3年処画 圖之 とあり、「落款」と思われるものがある。
手持ちの図では「落款」の内容が確認できないが、おそらくは「椿井南熊軒平群広雄」を意味するものなのであろうと推測する。
「山城國井堤郷舊地全圖」は複数の旧家に所蔵されるといわれるが、あるいは本図が椿井政隆筆の「原図」であろうか。△
 ※大光明寺
井堤寺西(おそらくは木津川の河岸段丘下)に井堤寺の伽藍を凌ぐ大光明寺の伽藍が描かれる。
南大門、中門、金堂、五重大塔、講堂、鐘楼、経蔵、三面僧坊、その他幾多の堂宇を備えた大寺のように見える。
ところで、大光明寺とは実在したのであろうか。現在のところ、井手木津川河岸段丘下での遺跡も遺物も文献も皆無である。
皆無ということは、大光明寺の大伽藍は存在しなかったのであろうと判断せざるを得ない。
 では、本絵図の描く大光明寺の伽藍とは何なのであろうか。
竹村俊則「新撰京都名所圖會」では「井手寺は橘諸兄が建立した氏寺で正しくは円堤寺としるし、法号を光明寺と号した。」とある。
これが如何なる史料に基ずくものなのかは寡聞にして不明であるが、井手寺(井堤寺)は俗称で、法号を光明寺と号し、往時は円堤寺と通称されていたと云うことであろう。
おそらく優れた智識人である椿井政隆はこのことを智識として持っていたのであろう。そしてその智識を活用し、元来は俗称井堤寺と法号光明寺が同一の寺院であることは百も承知の上で、故意に光明寺(大光明寺)と井堤寺との2寺に別け壮麗に描いたのではないだろうか。
壮麗な2寺院が並び建つのは、古の井堤郷にとって、この上無い光栄なことなのであろう。いかにも椿井政隆らしい手法ではないだろうか。△
 ※井堤寺伽藍
本図では金堂と思われる堂の東に八角二重円堂のように見える堂が描かれる。ところが、「山城国井堤郷旧地全図:全図1:模写本その1」では八角多宝塔(多宝塔形式の相輪を掲げる)のように描かれる。
また「山城国井堤郷旧地全図:全図2:木下千代子模写本」では、入手絵図が小さくはっきりとは分からないが、八角二重塔のように描かれる。
なお、八角多宝塔といえば興福寺旧大乗院多宝塔(興福寺勧学院多宝塔)内山永久寺多宝塔などが想起できる。△
 ※由来部分
「嘉暦元丙寅年・・・橘友秀」で終り、この他にさらなる「模写」の奥書がないとすれば、やはり、本図は椿井政隆の「原図」であろうか。
 ※年紀
本図の年紀は「康治二(癸亥)年」、「嘉暦元(丙寅)」年」とある。
この年紀の形式は「年号-数字-干支-年」であり、これは中世ではなく近世の形式である。椿井文書の特徴の一つである。
 →下に掲載の「興福寺官務牒疏」の項を参照。
いずれにせよ、井手町の町史などでは、この椿井文書は井手の中世を描くものとして高く評価され、かつ顕彰にも使われる。
しかし、これらの一連の繪圖は椿井政隆によって中世を装う近世の創作つまり偽書である。

2018/07/29追加:
山城久世郡上津屋牛頭天王(現・上津屋石田神社)
「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社 の 石田神社の項:
 社記(綴喜郡誌)の概要があるが、それは椿井文書の類型であることを示す。 →山城久世郡上津屋牛頭天王

 ・河内叡福寺:2010/03/10追加
  「建久4年古図(西方院蔵):河内西方院蔵」・・・叡福寺は「興福寺官務牒疏」に記載なし。<椿井家古書目録90>
   「建久4年古図西方院蔵読取図」・・・参考
    「椿井家古書目録」90に「河州上太子古伽藍図 完」とあり、これに相等するものと思われる。
  なお「建久4年古図」は以下の写本も現存する。
   明治24年模写建久4年古図:西方院蔵
   明治40年模写建久4年古図:叡福寺蔵
   仏眼寺模写図:「仏仲山仏眼寺建久年中旧図 明治廿年九月写」とあり、仏眼寺部分をのみを模写(図は不掲載);地元渡辺家蔵
   →河内叡福寺   (叡福寺)建久4年古図

◇その他の古文書
 「山城国平川荘古阯趾名地図」「山城国佐賀荘咋岡全図」「大和国中古城図」
 「百済王霊祠廟由緒」(百済王神社)ほか交野郡東部に29点の椿井文書が確認されると云う。
 「筑摩大神之紀」、「河合寺伽藍図」、「専覚寺紀伝」、「布施山息長寺伝記」
 「飯尾山医王教寺鎮守社祭事紀巻」(宇治田原町住の個人蔵)
 などがあると云う。

椿井家古書目録
 
2010/03/15追加:
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収) より

「椿井家古書目録」という史料があると云う。(国立歴史民俗博物館蔵「田中穣氏旧蔵典籍古文書」)
次にその一覧表を転載する。椿井政隆の仕事の概要を示すと思われる。南山城関係の史料を豊富に蒐集していることが窺える。

【「椿井家古書目録」所収史料一覧表】
1 椿井之系図2巻

.

図之分 141 和東郷大宮社録井春日社記録
 井椿井谷記1巻
2 尾州椿井仁右衛門系図 72 江州上笠図 全 (「上の笠堂絵図」)
3 興福寺往来之古状
 永正ヨリ天正迄
73 地球分図 全 142 湯次誓願寺記1
74 近喜十七年田畠売春状 全 143 筒城物社記井佐牙神記
 百丈山大智寺記録1巻
4 龍首骨凡例1巻 75 日野町絵図 全
5 椿井之古状1巻 76 河陽緒川配当絵図 全 144 藤堂大学高虎殿1
6 椿井家ノ古状1巻 77 江陽大脇荘界図 全 145 大安寺墾田地之証券1
7 信長公1 78 大津実図 全 146 駒井中務智行方日録1
8 大般若1巻 79 朝鮮図 全 147 禅定寺衆談中1
9 高麗拍子1巻 80 九州之図 全 148 朝鮮信使書1
10 蒲生御講名号1巻 81 大和国南県遺蹟名図 全 149 高国書1
11 内藤家書1巻 82 魯酉亜国人傑企図 完 150 近江伊香庄明神書1
12 椿井家与力状1巻 83 近州来由綿日瓜細見図 完 151 吉田―水軒書1
13 禁割安国寺高札ノ書1巻 84 近江国筑广社古図 全 (「筑摩社之図」 ) 152 鎌倉将軍執権職1
14 小倉二河入道実道之壱巻 85 大和国大場図 全 153 周心奉幣祝詞1
15 禅定寺山城目代衆中1 86 欲賀寺伽藍図 全 154 定恵和尚伝日1
16 城州南三箇郡図1 87 水口岡山古城 全 155 多田満仲記1
17 信長公1 88 高野山之 全 156 高野寺智■(矢+明の字)進状1
18 北吉野山縁記1巻 89 平城図 完 157 長井殿順興へ1
19 大安寺資財1巻 90 河州上太子古伽藍図 完(「建久4年古図」) 158 天正元年三月信玄1
20 狛寺伝補禄1巻 91 分間江戸図 完 159 十文字鎌術侍書1
21 聖徳太子講式1巻 92 河泉三ケ国大川略図 完 160 神童寺録記1
22 蹴鞠聞書1巻 93 七島総全図 完 161 椿井加賀守筆1
23 蒲生家被下置1巻 94 淡湖男石部篠図 完 162 湧出森由来1巻
24 豊太閤花見日記1巻 95 金勝寺四至図 完  (「金勝寺圖略」) 163 椿井加賀守ムツピ帳1冊
. 96 酉中山金剛定寺古図 全(「金剛定寺伽藍」) 164 椿井正統録 全
25 四方拝完 97 金峯寺図 全 165 中川梅原潜右衛門由緒書 全
26 河内国喪地図 完 98 淡海輿地企図 完 166 狛左馬亮殿古書 全
27 大原問答絵紗上下 99 大平江戸図 完 167 神楽 附歎ロ談 全
28 神楽譜 完 100 関ケ原戦図 完 168 興福寺高附帳
29 神戸左衛門伊勢軍記1巻 101 輪王寺図 完 169 茶羅供法用儀 全
30 冥福寺官務井附録 完 102 金勝山寺別院図 完(「鈎安養寺之絵図」 か) 170 測量知要伝紀1
31 香口伝巻 完 103 大和河新替図 完 171 雖為誓約人 2
32 石亭百石図 完 104 物部山図 完 172 観蹟見聞録1
. 105 江陽ハ幡山古図 完 173 茶道系譜伝全
33 戒律少分物語 全 106 江湖金亀城図 完 174 甲州流八陣備ノ図1
34 本朝百軍書 全 107 佐々木六角殿古山城図 完 175 軍用日録全
35 魯西亜国船渡来記 全 108 無人島図 完 176 諸集詩句
36 鳳城順賢録誌 完 109 江州下笠図 完 (「下の笠堂絵図」) .
37 蜜宗血脈裾拾隼 完 110 義士図 完 177 椿井流石火矢日記 全
38 日本記略自天智至平城 完 111 和東郷図 完 178 南三郡諸侍連名帳 全
39 躊躇名鑑志 完 112 大和図石人図 完 179 山上嶽山図 全
40 幕府日鑑 完 113 摂津国名所図 完 180 鷲峯山寺図 全(「山城国鷲峰山図」)
41 信長路附系図 完 114 地球分度図 完 181 笠置寺図 全
42 鎌倉京都将軍二譜 完 115 日光山国 全 182 北吉野山寺 全
43 公事根源集釈 全 116 出羽鳥越古図 金 183 狛寺 全    (「高麗大寺図」か?)
44 慶元通鑑 全 117 肥前長崎図 全 184 井堤寺細見図 全
. 118 金剛峯寺図 全 山城国井堤郷旧地全図:模写本その1
山城国井堤郷旧地全図:部分1
45 笠置寺之記略 全 119 新書図 全 山城国井堤郷旧地全図:木下千代子本
46 吉祥天侮過次第 全 120 大坂陣図 全 山城國井堤郷舊地全圖:模写本その3
47 大懺悔并 32箱 121 浪粟合流図 全 185 三好筑前守長慶書1
48 鎌倉公方中之格式 全 122 坊千山図 全 186 板倉伊賀守殿書1
49 見語大鵬撰3 123 飯道寺図 全 (「金寄山飯道寺之図」) 187 諸方系図之書凡17・8冊
50 中山問答実録 全 124 六大界図 全 188 椿井金之助ヨリ系図之書1冊
51 殺法転輪 全 125 鎌倉惣図 表中のリンクは
想定される資料に対するリンクである。

 

 

52 大和軍名高勇録 全 126 江湖称戸寺図 全
53 北湖戦記 附草稿 全 127 江州図 全
54 興福寺記 全 128 玉津図
55 雲錦拾要 完 129 河内図
. 130 河陽旧趾名地略図 全
56 淡海輯志抜粋2巻 131 金器山寺別院三箇寺古図 全
57 城制図解 全 132 大和国古阪之図 全
58 天経或問2巻 133 太秦広隆寺古図 全
59 兵法雄鑑上下2巻 134 和泉国地図全
60 催馬楽東遊楽曲譜 全 135 金勝寺別院志那北借図 全
61 山城郡名性譜録 全 136 江府名勝図解 完
62 近淡海国吉領侯記 全 137 河内国地図解 完
63 大書祭儀全備秘録 完 138 下羽麻村地図解 完
64 多武峰略紀 完 139 三国相承宗分統讃 金勝寺別院北法華寺図
65 蒲生家分限支配記 140 賤箇山嶽戦図 全
66 国名採諏訪考究 . .
. . .
67 椿井流火術伝法記 全 . .
68 大日本輿地企図誌 全 .
69 浅井三代実記鑑2巻
.
70 淡海国典地名略考20冊
71 広雄見聞雑軸録8冊


興福寺官務牒疏

 椿井政隆によれば、椿井氏の系譜は興福寺官務家の有力末裔に繫がると説く。
そのため椿井政隆は自ら手がけた歴史創作活動の多くの寺社を「興福寺官務牒疏」に記載したのであろうと推測される。
その意図するところは、創作した資料が「興福寺官務家伝来の資料・官務牒疏」に記載される寺社と云うことであれば、その資料の信憑性を高めることになり、そしてそのことによって、これも椿井の創作である「官務牒疏」の地位を揺ぎ無いものにして行くことになる。
「官務牒疏」はこんなにも多くの寺社資料によって、その内容の正当性を証明されている・・・と云った具合にである。
2010/03/15:
「近衛基通公墓と観音寺蔵絵図との関連について-『興福寺官務牒疏』の検討-」藤本孝一(「中世史料学叢論」藤本孝一、思文閣出版、2009 所収) より
ここでは、「興福寺官務牒疏」について以下のように論じ、結論づける。
 即ち
「官務牒疏」は3つの写本(1.興福寺(宝物館)、2.宮内庁書陵部、3.東京国立博物館)がある。
そのなかで、2と3は明治の写本であり、興福寺本がその原本と思われる。
なお「大日本仏教全書 巻次 〔119〕寺誌叢書」仏書刊行会、大正4年 に翻刻される。
 興福寺本は長持の中に収納されるが、興福寺宝物館長によれば、興福寺本は幕末頃に献納されたもので、興福寺に伝来したものではないと云う。また装丁・書風などから江戸中期以前には溯れないとも云う。
であるならば、内容の再検討が必要であろう。
まず、年紀の形式から見ると、「官務牒疏」は嘉吉元年次辛酉(1441)と奥書にあるが、本文中には近世の形式である「年号-数字-干支-年」が多く見られ、到底中世の成立ということは出来ない。
さらに、記載内容にも疑念がある。
例えば、「官務牒疏」の普賢寺の記述は以下の通りである。
「普賢寺 在同州綴喜郡筒城郷朱智長岡荘  僧坊18口、・・、公衆10口、・・・
  (普賢寺補略録曰)天平16甲申年勅願、良弁僧正再造開基、号息長山、・・・、亦々永享9丁巳年・・悉炎上、同10年戊午再建、・・・・
最初に眼につくのは、「略録」からの引用と云う体裁をとるにもかかわらず、年紀の記載形式がバラバラである。到底中世のものとは思えない。
さらに、筒城郷とは腑に落ちない。というのは、平安期の「和名抄」では綴喜郡内に綴喜郷は既に成立しているにもかかわらず、それより古い「日本書紀」の「筒城郷」を用いている。「馬脚があられている」というべきであろう。
また、「官務牒疏」と「山城国普賢寺郷惣図」に共通する「交衆」「朱智荘」「息長」などは、他の史料には全く見出せない。
この特定の「文言」こそ椿井文書特有の「文言」であり、椿井独自の世界であることを示す。
 ※山城国普賢寺郷惣図(陽明文庫蔵)は中世の文書(絵図)と偽装する椿井文書と断定できる資料である。
  そして、この絵図は「興福寺別院普賢教寺四至内之図」と共通項が多く、おそらく「興福寺別院普賢教寺四至内之図」の
  元絵になった絵図であると思われる。
以上が「官務牒疏」の史料的価値に大きな疑問がある所以である。
断定する材料はないが、「興福寺官務牒疏」は椿井文書の一つであると断定してもまず間違いはないであろう。
なぜなら、
ここに取上げた「興福寺官務牒疏」「興福寺別院普賢教寺四至内之図」「山城国普賢寺郷惣図」は、いずれも中世の古文書を装い、何れも後世に模写されたとし、さらに近世の年紀の表記方法が混在し、椿井文書特有の表現・文言をちりばめるなど、そして中世を装った古文書間でお互いの「史実」を補完し、同期を取るなど、椿井文書の典型を示すからである。
 →山城普賢寺

藤本孝一曰、椿井文書とは山城国相楽郡椿井村に住した椿井家で作成した各寺社の由来を纏めた縁起類を云う。
例えば、以下が知られる。
「飯尾山医王教寺鎮守社祭事紀巻」(宇治田原町住の個人蔵)の奥書には
明応3甲寅年(1494、これは近世の年紀表示方法)・・・・椿井広雄応龍子誌之 とある。
「高麗大寺図」(山城町役場蔵)には
嘉禄元乙酉年(1225)可画図之再模写之者也、・・・・于時応永16己丑年(1409)加増補復模写之事、・・・・椿井応龍子正群(平群か)政隆
とあり、近世の年紀表示方法を使うのも上記と同じであるが、中世の古文書を模写するという特徴がある。

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「椿井政隆による偽創作活動の展開」馬部隆弘 にある「興福寺官務牒疏」所収寺社一覧 を以下に転載する。

・近江大菩提寺(金勝寺)が格別な扱いを受ける。即ち25別院を持ち、その別院の幾つかの寺院もさらに別院を持つような構造を持つ。
 ※椿井の活動した近世後期の近江では、天台宗の衰退と軌を一にするように衰退した山岳寺院が多かったためであろうか。
・神社が幾つか見えるのは、政隆が近世の知識人の例に漏れず、式内社の比定に相当な努力も払っていたということと繫がるのであろうか。

 ○興福寺官務牒疏(写本):京都大学附属図書館蔵・・・・・近江大吉寺のページに掲載のもので、大吉寺部分の写真

「興福寺官務牒疏」所収寺社一覧

興福寺官務牒疏
勘録 興福寺末派寺社疏紀
    官務 竝最勝院家配下領知分

寺    社    名 所    在    地 現    住    所 備考:※印は当サイトに記事の掲載あり

大和国

1 正暦寺 上郡菩提山 奈良市後山町
2 円成寺 添上郡奈良東 奈良市忍辱山町
3 龍福寺 山辺郡 天理市滝本町 大和興福寺中に記載あり
4 平群寺(大和平隆寺 平群郡勢益原 三郷町勢野
5 椿井寺 平群郡椿井郡 平群町椿井 .
6 安明寺 平群郡安明寺郷 平群町三里 .
7 平群大明神 平群郡西宮村 平群町西宮 .
8 平群石床神 平群郡越木塚 平群郡越木塚  .
9 生駒伊古麻都比古神 平群郡生駒郷 生駒市壱分町 .
10 龍田比古龍田比女神 同郡立野御室岸 三郷町立野南
11 南淵坂田尼寺 高市郡椋橋 明日香村阪田
12 金剛山寺 添下郡 大和郡山市矢田町 今なお山間に大伽藍を維持する。
13 秋篠寺 添下郡秋篠 奈良市秋篠町
14 霊山寺 添下郡脇寺里、在河曲郷河曲荘 奈良市中町
15 国源寺 高市郡 橿原市大久保町
16 太玉神 高市郡忌都 橿原市忌部 .
17 桙削寺(ほこぬきでら) 高市郡丹生谷 高取町丹生谷
18 崇敬寺(安倍寺 高市郡 桜井市阿部 ※安倍寺の法号
19 南法花寺 高市郡鷹鞘郷 高取町壷阪
20 天武天皇社 添下郡矢田寺側 大和郡山市矢田町 .
21 香具山寺 高市郡 橿原市戒外町
22 村里神 式下郡蔵堂 田原本町蔵堂 .
23 石上布留神○ 山辺郡石上 天理市布留 内山永久寺中に記載あり
24 内山永久寺 山辺郡 天理市柚之内町
25 仏隆寺 宇陀郡宝生山之下 宇陀市榛原区赤埴 .
26 大和坐大国魂神 山辺郡大大和 天理市新泉町 .

山城国

27 光明山寺 相楽郡相谷東棚倉山 木津川市山城町綺田 .
28 海住山寺 相楽郡甕原北側 木津川市加茂町例幣
29 和支夫伎売神 相楽郡古川荘平尾岡上 木津川市山城町平尾 .
30 東明寺 相楽郡岡田賀茂 木津川市加茂町兎並
31 西明寺 相楽郡岡田賀茂 木津川市加茂町大野 .
32 岡田春日神 相楽郡岡田賀茂中森 木津川市加茂町里中森 .
33 和束柚春日神 相楽郡和束柚郷 和束町 .
34 浄瑠璃寺 相楽郡当尾郷 木津川市加茂町西小
35 国分寺(山城国分寺跡 相楽郡甕原 木津川市加茂町例幣
36 誓願寺 相楽郡出水郷 木津川市木津町木津 .
37 鷲峰山寺(山城金胎寺 相楽郡和束柚荘北側 和束町原山 山城国鷲峰山全図
38 神童寺 相楽郡狛之郷北吉野 木津川市山城町神童子 .
39 樺井松尾神 相楽郡狛之郷 木津川市山城町椿井 ※樺井松尾社<山城牛頭天王社中>
40 山田寺 相楽郡山田郷明日荘 精華町山田 .
41 井堤寺 綴喜郡井堤郷 井手町井手 山城國井堤郷舊地全圖:模写本3など
42 椋本天神(玉津岡社) 同上 (玉岡春日社/八王子社) 井手町井手 山城久世郡・綴喜郡の神仏分離
43 多賀神 綴喜郡多賀 井手町多賀 .
44 水主神 久世郡 城陽市水主 山城久世郡・綴喜郡の神仏分離
45 久世神 久世郡 城陽市久世 ※ 同 上
46 円誠寺 久世郡三田郷、水没 城陽市寺田ケ .
47 御霊神 久世郡宮野 城陽市富野 .
48 薬蓮寺 久世郡佐山郷 久御山町林 山城久世郡・綴喜郡の神仏分離
49 浄福寺 久世郡佐山郷 久御山町佐山 ※ 同 上
50 安楽寺 久世郡佐山郷 久御山町佐山 ※ 同 上
51 栗隅天神 久世郡栗隅郷 宇治市大久保町 ※ 同 上
52 禅定寺 綴喜郡宇治田原郷 宇治田原町禅定寺 .
53 白河寺金色院 久世郡宇治 宇治市白川 宇治白川金色院年表・関連資料
54 西方寺 宇治郡木幡郷 宇治市木幡 .
55 木幡寺 宇治郡木幡郷 宇治市木幡 .
56 観音寺 宇治郡木幡郷 宇治市木幡 .
57 法厳寺 宇治郡山科郷東音羽山 京都市山科区音羽南谷町 .
58 清水寺 愛宕郡洛東八坂郷 京都市東山区清水
59 法性寺 愛宕郡九条河原 京都市東山区本町
60 法佳寺 愛宕郡九条河原、法性寺北 京都市東山区三十三間堂廻り .
61 平等寺 洛陽 京都市下京区因幡堂町 因幡薬師
62 綜芸種智院 洛陽九条坊門 京都市南区西九条池ノ内町 .
63 歓喜寿院 朱雀西 京都市下京区 .
64 法成寺 九条 京都市上京区
65 祇陀林寺 中御門京極 京都市上京区 .
66 光福寺 乙訓郡上久世 京都市南区久世上久世町 .
67 福田寺 乙訓郡上久世 京都市南区久世殿城町 .
68 金原寺 乙訓郡金原ノ岡 長岡京市金ケ原金原寺 .
69 乙訓之神 乙訓郡乙訓 長岡京市井ノ内 .
70 大報恩寺 洛陽北野 京都市上京区溝前町 北野天神中に記載
71 槙尾山寺 葛野郡槙尾 京都市右京区梅ケ畑 .
72 法輪寺 葛野郡嵯峨 京都市西京区嵐山虚空籤山町
73 松尾之神(松尾社 葛野郡荒子山下 京都市西京区嵐山容町
74 普賢寺 綴喜郡筒城郷未習長岡荘 京田辺市普賢寺 普賢教寺四至内之図-1 など
75 朱智天王神 綴喜郡筒城郷西之山上 京田辺市天王 ※牛頭天王社に朱智の名称を付与
76 親山寺 綴喜郡筒城郷普賢寺境内 京田辺市普賢寺 .
77 法華山寺 葛野郡山田郷 京都市西京区御陵峰ケ堂 .
78 祝国神社 相楽郡祝園 精華町祝園 .
79 蔵満神社 相楽郡下狛庄、庄稲八間 精華町下狛・北稲八間 .
80 崇道天王神 相楽郡土師里 木津川市本木津町吐師 .

河内国

81 尊延寺 交野郡芝村郷 枚方尊延寺 交野郡芝村郷に在り、宣教大師天平三年勅願草創
82 百済寺(河内百済寺跡 交野郡中宮郷 枚方市中宮 ※ 同郡中宮郷にあり、宣教大師開基・・・
83 明尾寺 交野郡 枚方市藤阪 .
84 開元寺(岩倉開元寺跡 交野郡 交野市神宮寺 ※ 開元寺・徳泉寺・津田寺、同郡に在り、倶に宣教大師開基 坊舎八舎之れ在り
85 徳泉寺 交野郡 不詳 同上
86 津田寺 交野郡 枚方市津田 同上

山城国

87 菅井寺 相楽郡土師郷 精華町菅井 .
88 岩舟寺 相楽郡当尾郷 木津川市加茂町岩船
89 吉田寺 洛東吉田 京都市左京区吉田 .
90 榎樹寺 久世郡枇杷荘 城陽市枇杷庄 .
91 誓願寺 久世郡佐山郷 久御山町佐山 .
92 城福寺 久世郡佐山郷 久御山町佐山 .
93 東朱智神 綴喜郡江津邑 京田辺市宮津 佐牙神社、東朱智で偽書と分かる。
山城久世郡・綴喜郡の神仏分離
94 華光国辺寺 相楽郡上狛椿井邑 木津川市山城両椿井 .
95 恵日正導寺 相楽土師郷東畑邑四照山  精華町東畑 .
伊賀国
96 長福寺 伊賀郡猪田郷 伊賀市猪田 .
97 神館社 伊賀郡神戸郷 伊賀市上神戸 .
98 大村神二座 伊賀郡阿保郷 青山町阿保 .
99 常福寺 伊賀郡古都 伊賀市古郡 .
100 蓮徳寺 伊賀郡湯屋谷 伊賀市湯屋谷 .
101 菩提樹院 伊賀群花垣郷 伊賀市予野 .
摂津国
102 昆陽寺 河辺郡猪名野 伊丹市寺本
103 神呪寺 武庫郡六甲山 西宮市甲山町
104 忉利天上寺 武庫郡 神戸市灘区摩耶山
近江国
105 大菩提寺(金勝寺) 栗太郡 栗東市荒張 興福寺別院金勝寺圖略
106  ▲観音寺 栗太郡全勝寺東北隅 栗東市観音寺 .
107  ▲如来寺 栗太郡金勝寺麓 栗東市井上 .
108  ▲鳴谷寺 栗太郡全勝寺麓 栗東市荒張 .
109  ▲安養寺 栗太郡鈎郷 栗東市安養寺 金勝寺別院鈎安養寺之絵図
110  ▲金胎寺 栗田郡金勝山下 栗東市荒張 .
111  ▲観応寺 栗太郡全勝寺下北側 栗東市荒張 .
112  ▲善応寺 栗太郡全勝寺下北側山下広野 栗東市荒張 .
113  ▲覚音寺 栗太郡青地郷東山下 栗東市山寺町 .
114  ▲唯心教寺 栗太郡高野多喜山 栗東市六地蔵 .
115  ▲多喜寺 栗太郡高野多喜山下陀羅尼ケ原 栗東市六地蔵 .
116  ▲多福寺 栗太郡高野多喜山 栗東市六地蔵 .
117  ▲榜迦寺 栗太郡高野多喜山西側 栗東市六地蔵 .
118  ▲陀羅尼寺 栗太郡高野多喜山下 栗東市六地蔵 .
119  ▲東光教寺 野洲郡三上郷三上大寺内 野洲市三上 .
120  ▲妙光寺 野洲郡三上郷三上大寺内 野洲市妙光寺 .
121  ▲法満寺 蒲生郡牟礼山 竜王町薬師 .
122   △薬師寺 蒲生郡薬師邑 竜王町薬師 .
123   △法鏡寺 蒲生郡山上野 竜王町山之上 .
124   △尊乗寺 蒲生郡山上野 竜王町山之上 .
125   △弓削寺 蒲生郡弓削村 竜王町弓削 .
126   △観音寺 蒲生郡小口村 竜王町小口 .
127  ▲蜂里寺 栗太郡物部郷 栗東市蜂屋 在栗太郡物部郷、號物部山
僧坊 二十宇。
天平四壬申年勅願隆尊僧正開基、本尊九品阿弥陀仏、建久三年再建、金勝寺龍蔵院尊空僧都也、
鎮守勝部物部神、宇賀魂神
128  ▲小野寺 栗太郡小野郷 栗東市小野 .
129  ▲大乗寺 栗太郡出庭郷 栗東市出庭 .
130  ▲宝光寺 栗太郡駒井図 草津市北大賢町 金勝寺別院宝光寺四至封彊界図
131   △笠堂医王寺 栗太郡 草津市上笠 上の笠堂絵図
132   △笠堂西照寺 栗太郡           草津市下笠町 下の笠堂絵図
133   △智厳寺 栗太郡集村 草津市集町 .
134   △大悲寺 栗太郡駒井 草津市新堂町 .
135   △最勝寺 栗太郡宝光寺西方弐丁余 草津市志那町か? .
136  ▲大般若寺 栗太郡志那 草津市志那町 .
137  ▲蓮台寺 栗太郡鈎郷 栗東市下鈎 .
138  ▲石仏寺 栗太郡勢多郷 大津市瀬田 .
139  ▲金峰山寺 栗太郡山田郷 草津市山田町 .
140  ▲光明寺 甲賀郡夏見郷 湘南市夏見 .
141   △八島寺 甲賀郡石部 湘南市石部 .
142   △尊光寺 甲賀郡平松 湘南市平松 .
143  ▲霊山寺 坂田郡丹生郷 多賀町例仙 .
144   △観音寺 犬上郡落合里 多賀町例仙落合 .
145   △安養寺 犬上郡河内村 多賀町河内 .
146   △大杉寺 犬上郡大杉 多賀町大杉 .
147   △仏性寺 坂田郡 彦根市仏生寺町 .
148   △荘厳寺 坂田郡 彦根市荘厳寺町 .
149   △男鬼寺 坂田郡 彦根市男鬼町 .
150   △松尾寺 坂田郡丹生西ノ山 米原市上丹生 .
151 少菩提寺 甲賀郡桧物郷 湘南市菩提寺 円満山少菩提寺四至封彊之絵図
152  △北菩提寺 犬上郡押達庄 東近江市北菩提寺 .
153  △南菩提寺 犬上郡押達庄 東近江市南菩提寺 .
154  △長光寺 蒲生郡武佐 近江八幡市長光寺町 .
155  △成仏寺 愛知郡下之郷 甲良町下之郷カ .
156  △観音寺 甲賀郡朝国里 湘南市朝国 .
157 正福寺 甲賀郡花園里 湘南市正福寺 .
158 大石佐久良大利神 栗太郡大石郷 大津市大石中 .
159 男石岩一王寺 栗太郡大石郷 大津市大石中 .
160 大淀寺 栗太郡大石郷 大津市大石淀 .
161 明王寺 栗太郡大石郷富川谷 大津市大石富川 .
162 地蔵寺 栗太郡大石郷南去凡36町許 大津市大石富川 .
163 椋本天神 栗太郡大石龍門郷東山下 大津市大石龍門 .
164 曽東寺 栗太郡曽東 大津市大石曽東 .
165 大神寺 栗太郡下柚荘 大津市田上森町 .
166 荒戸紙(ママ) 田上谷 大津市上田上中野町 .
167 伊香龍寺 滋賀郡伊香龍郷 大津市伊香立 .
168 伊香龍八所神 滋賀郡伊香龍郷北岡 大津市伊香立下在地町 .
169 筑摩神 坂田郡筑磨浜 米原市朝妻筑摩 近江国坂田郡筑摩社并七箇所之図
170 歓喜光寺 坂田郡朝儒束宇賀野 米原市宇賀野 興福寺別院・・・冨永山歓喜光寺絵図
171  △世継寺 坂田郡世継 米原市世継 .
172  △護寧寺 坂田郡 米原市岩脇 .
173  △国華寺 坂田郡多良 米原市多良 .
174 法性寺 坂田郡朝妻 米原市朝妻筑摩 .
175 本願寺 坂田郡富永荘 米原市朝妻筑摩 .
176 現善寺 野洲郡遅保荘 近江八幡市十王町 .
177 道詮寺 野洲郡服部郷 守山市服部町 .
178 三上神 野洲郡野洲三上郷 野洲市三上 .
179 兵主神 野洲郡豊穣荘兵主郷 野洲市五条 .
180 瀬山津照神 坂田郡箕浦之東能登瀬 米原市能登 .
181 飯道寺 甲賀郡信楽之東池原郷 甲賀市水口町山大寺 金寄山飯道寺之図
182 仙禅寺 甲賀郡信楽朝宮 甲賀市信楽町上朝宮 .
183 保良寺 甲賀郡信楽郷勅旨 甲賀市信楽町勅旨 .
184 薬王寺 甲賀郡池原荘 甲賀市水口町三大寺 .
185 道徳寺 甲賀市池原荘 甲賀市水口町三大寺 .
186 善通教釈寺 蒲生郡長寸郷奥津保中之郷 日野町中之郷 .
187 蓮法光寺 蒲生郡長寸郷長寸社西法5町余 日野町北脇 .
188 現善王寺 蒲生郡長寸郷左久良 日野町佐久良 .
189 妙楽長興寺 蒲生郡長寸郷杉柚寺 日野町川原 .
190 長寸神 蒲生郡長寸郷山崎 日野町中之郷 .
191 長寸下神 蒲生郡長寸郷蓮法光寺側 日野町安倍居 .
192 室木神 蒲生郡長寸郷西側天神山頂 日野町北脇 .
193 大屋神 蒲生郡長寸郷杉柚 日野町杉 .
194 藤斬神 蒲生郡長寸郷田律畠 東近江市甲津畑町 .
195 楞厳寺 神崎郡垣見郷 東近江市垣見町 .
196 成仏教寺 神埼郡郷猪子里 東近江市猪子町 .
197 建部神 神崎郡建部荘木流 東近江市五個荘木流 .
198 五智観寺 神崎郡柿御国郷 東近江市五智町 .
199 大滝神 神崎郡萱尾滝側 東近江市萱尾町 .
200 帝釈寺 愛知郡長野荘高野瀬 豊郷町高野瀬 .
201 高野寺 愛知郡小倉荘 東近江市小倉町 .
202 真源寺 坂田郡国友郷 長浜市国友町 .
203 神照寺 坂田郡新荘 長浜市新庄寺町 .
204 長福寺 坂田郡池下郷 米原市池下 .
205 太平護国寺 坂田郡伊吹山 米原市太平寺 .
206 弥高護国寺 坂田郡伊吹山 米原市弥高 .
207 極楽群生寺 坂田郡長岡荘 米原市長岡 .
208 大吉寺 浅井郡草野郷 長浜市野瀬町 牒疏(写本)」の部分写真
209 大崎寺 浅井郡大崎郷 高島市マキノ町海津 .
210 最勝寺 浅井郡大崎郷東峰 高島市マキノ町海津 .
211 波久奴神 浅井郡田根郷 長浜市高畑町 .
212 法華寺(己高山五箇寺) 伊香郡 木之本町古橋 近江己高山:「牒疏」の引用あり
213 石道寺(己高山五箇寺) 伊香郡 木之本町石道
214 観音寺(己高山五箇寺) 伊香郡巳高山頂 木之本町古橋
215 高尾寺(己高山五箇寺) 伊香郡巳高山頂 木之本町古橋
216 安楽寺(己高山五箇寺) 伊香郡巳高山 木之本町古橋
217 河合寺 伊香郡富永荘河合 木之本町川合 伊香郡川合に河合寺があったと思われるも、現在は不詳。「興福寺別院己高山河合寺伽藍之繪圖」が知られる。
218 大箕山寺 伊香郡余呉東嶺 余呉町坂口 .
219 伊香神 伊香郡伊香庄大音 木之本町大音 .
220 椿井寺 伊香郡余呉荘椿井 余呉町椿坂 .
221 酒波寺 高島郡川上荘 高島市今津町酒波  .

右所録。興福寺末派寺社。為官務最勝院所被領知。末代不可違失之旨。即被官符畢。誠希代格職。謹以奉行之。永可検定者也。
    嘉吉元年次辛酉四月十六日再被拾定置之
                                在判

注)図中の▲印は大菩提寺25別院、△印は上位に記載している寺院の別院を示す。(例えば、170歓喜光寺は3ヶ寺の別院を有す)

2010/03/10追加:
○興福寺官務家最勝院
 「官務牒疏」では「官務 竝最勝院家配下領知分」とあり、また
例えば「(河内叡福寺)建久4年古図」では「・・南都興福寺官務家最勝院室所在旧紀之古図・・」とあり、興福寺官務家とは最勝院とされる。
しかし、興福寺の門跡院家その他坊舎は全て明治維新の神仏分離で還俗・廃寺となり、官務家が最勝院であることが史実であるかどうかは全く不明。
ところで、「官務牒疏」は椿井政隆の手になり偽書であるから、興福寺最勝院は存在しないのだろうか。偽書が真正であると主張するためには、興福寺はもちろん最勝院も実在しなければならない。
 敢えて、最勝院を興福寺に求むれば、<春日興福寺境内図(西の部分図):宝暦10年(1760)以降の作図>の右下(南端)に右から龍徳院、徳蔵院、功徳院、蔵光院、最勝院、常光院と並ぶが、最勝院はここにしかなく、近世はここにあったのであろう。
興福寺伽藍図(寛政年中(1789-1801)編修)」も右下にある。
興福寺寺中1:左手土塀は旧最勝院、右手手前から松林院、西林院、宝寿院、宝光院跡が続く。
興福寺寺中2:旧最勝院、その隣(奥)は常光院、突き当たりを左方面に天満宮が現存。
 ※興福寺最勝院がまだ存続している近世後期に「官務牒疏」を創作するとは、椿井と最勝院との間に何らかの繫がりがあり、何らかの双方の「了解」があったのであろうか。


2010/02/18作成:2022/07/22更新:ホームページ日本の塔婆