★概 要
摩耶山中腹にあり、仏母摩耶山忉利天上寺と号する。
寺伝では大化2年(646)、孝徳天皇の勅願により、法道仙人が開創したという。
その後、弘法大師が唐から摩耶婦人像を持ち帰り、天上寺に奉安したとも伝える。現在は高野山真言宗。
昭和51年(1976)多宝塔をはじめ伽藍を全焼。賽銭泥棒の失火という。
現寺は、旧伽藍のあった北方の開創の地といわれる奥の院に再興される。
従って、旧寺地には、それぞれの堂宇の基壇などがほぼ完全に残る。
旧寺伽藍配置:仁王門(江戸後期・現存)から石段の参道が続き、途中に蓮華院(左)、王蔵院・大乗院(右)の塔中があり、伽藍中心の平坦地に至る。伽藍地は阪神市街地と瀬戸内・泉州沖までを望む絶景の位置にある。
石段を上がり切ると、左に鐘楼、摩耶夫人堂、護摩堂、右に阿弥陀堂、多宝塔、正面に本堂、さらに奥に三社権現が並ぶ伽藍配置であった。
★焼失前摩耶山多宝塔・伽藍
多宝塔:
天保2年(1831)建立。一辺4.15m。
初重一手先、二重繁垂木、中央間桟唐戸、脇間連子窓、ギボシ勾欄付き縁を廻らす。
上重は四手先、扇垂木、銅板張り饅頭、屋根は銅板葺き。
内部は四天柱を立て、来迎壁を造る。須弥壇上に本尊大日如来・四天王を安置。
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2004/3/3追加:
明治10年〜明治末期撮影:
忉利天上寺多宝塔:
左図拡大図
「明治の日本《横浜写真》の世界」から転載
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撮影時期不明:
忉利天上寺多宝塔:左図拡大図
2006/09/30追加:
上に掲載の彩色写真とほぼ同一の写真と思われる。
NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より:1890年代?か
摩耶山多宝塔:
なお、この写真の彩色は、左図より数段自然な彩色であろう。 |
日下部金兵衛撮影写真か
摩耶山本堂多宝塔
なお上記と同一と思われる写真が、日下部金兵衛作品(キャプション:「Mayasan (Mon Temple), at Kobe
(188-?-189-?)」)として、
「Japan. / Kimbei Kusakabe.」
(New York Public Library)に掲載されている。
2013/10/14:
上記のキャプション:「Mayasan (Mon Temple)」は「Mayasan (Moon Temple)」が正しいものであろう。
神戸摩耶山は「Moon Temple」の名で親しまれたといい、それは「外国人の新聞記者が天上寺を「Moon
Temple」と名付けて記事にしたことに由来するからである。
2007/09/10追加:
「日本之名勝」瀬川光行編、東京:史伝編纂所、明治33年 より
摩耶山天上寺多宝塔
摩耶山天上寺本堂
※発行年から明治中後期の写真と思われる。
2003/7/9追加:「むかしの神戸」平成9年 より転載
2010/09/19追加:「Y」氏ご提供
大正7年〜昭和7年の発行の絵葉書(「Y」氏見解):
摂津摩耶山多宝塔11:下図拡大図
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2010/09/19追加:「Y」氏ご提供
大正9年の消印がある絵葉書(「Y」氏見解):
摂津摩耶山多宝塔12:下図拡大図
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2010/09/23追加
昭和戦前と推定:摂津摩耶山多宝塔13
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「摩耶山年拝記念絵葉書」:左図拡大図
左図は上掲の「多宝塔12」とほぼ同一の構図であり、
また同様の参拝記念の丸印が押される。
この写真には向かって右側面に寄進者名などを掲げる骨組が見えるが、恐らく上掲の「多宝塔12」とほぼ同一の時期のものとも推定される。
2012/06/06追加:「Y」氏ご提供:
絵葉書
摩耶名勝・頂上の塔
「Y」氏解説では大正7年〜昭和7年発行の絵葉書とする。 |
2010/09/23追加:
昭和30年頃:摂津摩耶山多宝塔14:
下図拡大図
「摩耶山 MT.MAYA 総天然色八枚組」
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2010/09/23追加:
昭和31年写真:摂津摩耶山多宝塔15:
下図拡大図
「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」
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2010/09/23追加:
昭和30年台後半:摂津摩耶山多宝塔16:
下図拡大図
「国立公園 まや山」
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「日本の塔総観 近畿地方篇増補改訂版」より転載
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昭和41年画像:忉利天上寺多宝塔:下図拡大図
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昭和41年画像:多宝塔内部:下図拡大図
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昭和45年画像:忉利天上寺多宝塔:下図拡大図
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2007/09/21追加:
「兵庫の塔」寺師義正、光村推古書院、1994.3 より転載
昭和48年10月20撮影:天保2年建立多宝塔:左図拡大図
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★天上寺絵図
多宝塔の履歴が不明のため、詳細は判然とはしない。
「兵庫名所図巻」寛文12年(1672)以降:2010/09/23追加
◇兵庫名所図巻摩耶山:佛母摩耶山忉利天上寺として多宝塔描かれる。
※江戸前期には多宝塔があったものと推測される。
「摂播記」寛政元年(1789):2010/09/23追加
◇摂播記・摩耶山:夫人堂・鐘楼西に三重塔が描かれる。近年まで多宝塔のあった位置には何も描かれない。
※近年まであった多宝塔は天保2年(1831)建立と云うから、寛政年中(その前の天明年中)には多宝塔は退転していたのであろうか。
下の寛政年中の「摂津名所絵図」にも多宝塔は描かれないから、多宝塔は当時無かった可能性が高い。
なお、三重塔が描かれているのは、当時は無かったが以前にあったであろう塔婆を三重塔として描いたのであろうか。
ちなみに、「摂播記」は室津(室津賀茂明神)でも多宝塔を三重塔に描いているが、それを見れば、そのような「癖」があるのであろうか。
「摂津名所圖會」寛政8−10年(1796-1798):2010/09/23追加
◇摂津名所圖會摩耶山:部分図:夫人堂・白山社及びそれ以外の4,5宇の堂宇は描かれるが本堂は本堂跡として描かれ、
近年まで多宝塔のあった位置には多宝塔の痕跡は認められない。
この図から判断すれば、江戸後期には多宝塔は退転していたものと思われる。
「摂州仏母摩耶山忉利天上寺遠見之図」明治期:2010/09/23追加
◇忉利天上寺遠見之図:下図拡大図
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◎神戸市交通名所鳥瞰図会:
左図拡大図
(1930年・吉田初三郎)の部分図(摩耶山)
不鮮明ではあるが、おおよその伽藍は表現される
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2016/06/29追加:
「摂州仏母摩耶山忉利天上寺遠見之図」(上に掲載)の部分図
忉利天上寺遠見之図2:多宝塔など部分図
「神戸覧古」明治後期 より
摩耶山
★旧伽藍地現状
旧伽藍地は礎石など相当散逸していると思われるも、ほぼ焼失前の姿が追認できる状態で残存する。
★現忉利天上寺
現天上寺は旧伽藍地から離れ、北方の山上を抜け、さらに山上より北方の開創の地といわれる奥の院に再興される。
昭和60年に金堂が再建。平成元年再刻摩耶夫人像が開眼。
しかし、何故絶景の旧伽藍地を捨てたのか疑問に思われる。
2006年以前作成:2016/06/29更新:ホームページ、日本の塔婆
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