宇治白川金色院年表・関連資料 |
出典:宇治市教育委員会・発掘調査報告資料他 |
白川金色院年表 | ||
西暦 | 元号 | 略歴 |
1102 | 康和4 | 四条宮寛子が、白川別所金色院の落慶供養を実施(「白川別所金色院勧進状」地蔵院文書) |
1154 〜1161 |
仁平4 〜永暦2 |
意聖房順源・成熟房・文教房が白川別所にて経典を写経(増壱阿含経・優婆塞戒経・雑阿含経・舎利仏阿■雲論・正法念処経 奥書) |
1204 | 元久元 | 九条良経が、宣秋門院任子らとともに平等院へ参詣し、良経は白川別所を訪問(名月記) |
1277 | 建冶3 | 白川神社拝殿の補修が行われる(白川神社拝殿棟札) |
1460 | 長禄4 | 金色院が盗火によって焼失(「白川別所金色院勧進状」地蔵院文書) |
1463 | 寛正4 | 白川別所金色院再興の勧進が始まる(「白川別所金色院勧進状」地蔵院文書) |
1467 | 応仁元 | 近衛房嗣・政家父子が、報恩院有玄僧正以下を伴い、白川別所を訪問、所々の庭を見学(後法興院記) |
1494 | 明応3 | 宇治郷と白川別所の住民が争い、宇治郷民が白川の民家・寺坊に放火、双方に多数の死傷者を出す(後法興院記) |
1557 | 弘治3 | このころ、白川地蔵院が創建(久世郡寺院明細帳) |
1766 | 明和3 | すでに三坊(北之坊・福泉坊・蔵之坊)のみとなった各坊の有様がみえる(庄屋・年寄等訴状写) |
明治 | 廃仏毀釈で坊が全て廃絶 |
四条宮寛子:(1036-1127)、後令泉天皇の皇后。(四条の后)、太政大臣藤原頼通の女。(藤原道長の孫) |
◆「白川別所金色院勧進状」地蔵院文書・・・・・未見 この勧進状は、長禄4年盗火によって焼失した金色院を再興するため、寛正4年に作成されたと云う。 この文書が金色院の創建とその後の変遷を知る殆ど唯一の文書といわれる。 |
出典:宇治文庫6「宇治をめぐる人びと」藤原寛子の章より |
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出典:天明7年刊「遺拾・都名所図会」・・・大正7年原田幹校訂、昭和42年新人物往来社復刊「都名所図会」 ただし、当図で本堂(文殊堂?)・金色院が存在しているのは推測か?、表門・寺中・白山権現等は実在と思われる。 |
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2011/06/01追加: 「収蔵文書調査報告書 1巻(「白川金色院」と恵心院)」宇治市歴史資料館、1998 より ●「金色院」の古代・中世史料 ◇白川別所などの名称は古代史料に散見される。 ●白川金色院16坊 貞享元年(1684)宇治恵心院宛「借用書」: ○地誌類 正徳元年(1711)「山城名勝志」 2006年以前作成:2011/06/01更新:ホームページ、日本の塔婆
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