大 和 大 窪 廃 寺 心 礎 ・ 大 和 塔 垣 内 廃 寺

大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺

大和大窪寺と大和塔垣内廃寺と国源寺

2009/08/28追加:
「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
現在神武陵内に取り込まれている塔垣内周囲は寺内(大字大久保)にある国源寺の故地とされてきた。
 ※「多武峰略記」では国源寺は天延2年(974)畝傍山北東で草創されたとする。
 ※江戸期の伝承では国源寺は塔垣内付近にあり、いつの間にか寺内に移ると云う。
しかし寺内では心礎・瓦が発掘され、ここにはかっては古代寺院があったと推定される。
ここには現在心礎が残るが、この心礎はこの地で発掘され、ほぼ原位置にある。
要するに、この心礎を有した寺院が大窪寺であった可能性が高い。
 一方塔垣内は現在在りもしない神武陵と強弁する領域に取り込まれ一般には立入り出来ない場所ではあるが、塔垣内には諸文献によって土壇・礎石の存在が知られ(今も現存すると云う ・・後述)、瓦の出土と相まって此処にも古代寺院があったことは確実視される。
 (この塔垣内廃寺が国源寺であったのかどうかは良く分からない)
注:字塔垣内とは現在の神武陵(ミサンザイ)のすぐ東側であり、寺内(大窪・大字大久保)とはその東南にあり現在国源寺がある場所である。


大和大窪廃寺心礎

大窪寺については、「天武紀」に朱鳥元年「檜隈寺軽寺大窪寺各封戸百戸限三〇年」あるが、これが唯一の確実な記録とされる。
「法空伝」「太子伝見分記」では太子建立46ヶ寺の一つと云う。
興福寺鎮守「春日明神文書」にはこの寺の名前が見えるので鎌倉末期までは存続したといわれる。
現国源寺境内(大久保町)付近が大窪寺跡と伝える。
江戸後期には東西金堂の礎石が残っていたとされる(江戸末期「卯花日記」)。現在は僅かに心礎のみが残存する。
現在心礎の置かれている南付近から発見された大きな土坑を心礎抜取穴とすれば、心礎は大体原位置と推定される。
(発掘によって寺院遺構が未発見であり、また大きな土坑が心礎抜取穴であると云う確証はないと云う見解もある)
創建は出土瓦から飛鳥期とも云うし、奈良前期とも云う。伽藍配置は南から塔・金堂(現国源寺本堂)・講堂(本堂背後の字寺畑)が並ぶ四天王寺式との想定もあるが、現下では寺院遺構が未発見のため、伽藍配置は不明とするしかない。
なお、心礎の発掘は幸運にも大正元年であるため、橿原神宮等の造営に転用されずに残ったものとも思われる。
2002/04/29撮影:
 大窪廃寺心礎1     大窪廃寺心礎2     大窪廃寺心礎3     大窪廃寺心礎4
○「日本の木造塔跡」:
心礎は2.27×1.34mの茄子形をし、穴の径54cm、深さ6cmの円孔があり、その中央に径13cm、深さ3cmの蓋受孔と一辺8cm、深さ7cmの方形舎利孔を持つ。
2007/01/06追加:
○「日本建築史要」(付図) より:
 大和大窪廃寺心礎図
2007/02/07追加:
○「大和の古塔」
 :大和大窪寺心礎実測図
2008/01/08撮影:
 大和大窪廃寺心礎11    大和大窪廃寺心礎12    大和大窪廃寺心礎13    大和大窪廃寺心礎14
 大和大窪廃寺心礎15    大和大窪廃寺心礎16    大和大窪廃寺心礎17    大和大窪廃寺心礎18
 大和大窪廃寺心礎19
2010/03/02撮影:
 大和国源寺堂宇     大和大窪廃寺心礎21
2022/05/22撮影:
 大窪廃寺心礎22     大窪廃寺心礎23     大窪廃寺心礎24     大窪廃寺心礎25
 大窪廃寺堂宇      大窪廃寺堂宇西・雑祠     大窪廃寺堂宇西・石類
 大窪廃寺堂宇・国源寺     大和国源寺


2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現される。

2009/08/27追加:
「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
◆心礎の発見:大正元年に掘り出されたと云う。
 【大正元年10月22日発行大阪朝日新聞第9面】
『大伽藍石の発掘   奈良県高市郡白橿村大字大久保の村民は同村共有の字寺内の宅地より二千貫余の伽藍石を発掘し20日八木警察署に届出たり、楕円形にて横8尺5寸(2.55m)高さ3尺5寸(1.05m)径4寸5分(1.35m)中央に径2尺(60cm)の穴を穿ちあり推古時代のものならんというあり 今井電報』
 ※ほぼ同文の記事が10月22日奈良新聞にも掲載と云う。
新聞記事にはっきりと、現在国源寺境内前に置かれている「心礎」は大正元年「寺内」から出土したものとして扱われているので 、心礎が「寺内」から出土したことは事実であろう。
◆大正8年の1枚の心礎写真
 【大正8年5月28日大阪朝日新聞大和版】 に心礎の写る1枚の写真とその解説記事が掲載される。
『宮殿下のみそなわせられし問題の礎石
   町村制を楯に「運搬罷りならぬ」郡長と骨董屋の珍問答
 高市郡白橿村大字大久保の古刹国源寺は貞元の昔多武峰の泰善が神武天皇の霊勅を受けたりと称し畝傍山陵の辺にて毎年法華経を講ずるより国司藤原国光感じて方丈の堂を建てたるが濫腸にて中古再建の事ありしも其後荒廃し僅に残礎を山陵兆域内に見るのみなるが其名は伝えて山陵を距る東南三町ばかりのところに小さき寺となりて今尚現存しおれり此の小さき寺即ち後の国源寺付近に区の共有山林あり数段歩ばかりの裸林なりしを数年前開墾して畑地となしたるがその際丈け一丈余り高さ三四尺の一大礎石を掘りあて露出せしまま打ちすてありしを今春二百円足らずにて奈良の骨董屋に売却し運搬中図らずもある宮殿下の御肌に触れて問題となり今尚山陵の南端大久保川と称する小溝の橋の挾に転がしたるまま打ち捨てあるが聞く所に依れば本年三月中旬のこと、宮殿下には神武御陵、橿原神宮御参拝の御事ありしが其際現在の所にて多くの人夫が大石を運搬し路を塞ぎ遮りたるより不審に思召しけん随従の木田川知事に御下問ありたるが知事も金森郡長も共に礎石のことを知らざりし折から付近の町村長伺候しおりてようやく事の始終を知り得たるが此時史蹟保存の議や出でたりけん間もなく八木警察署より礎石運搬は罷りならずと道せられ運搬夫等は石を現場に捨て置きたるまま奈良に引揚げたる・・・(以下強欲な骨董屋と高市郡役所の官吏とのやり取りがかなり長く続くも省略)・・・・』
 ※宮殿下とは北白川大妃宮富子女王(北白川宮妃富子)で、3月13日橿原神宮と神武天皇陵を参拝。
 ※奈良の骨董屋とは杉本鉄次郎(杉鉄と通称?)で、政治運動で名を売るというも不詳。
 ※なお記事後段の骨董屋と官吏とのやり取りの中で「大正4年頃、この石は国鉄畝傍駅に橿原神宮の石標を立てる台石にする計画であったが郡長が止めた」と云う話が出てくる。<幸いにして、 この心礎は、事なきを得たと云うことである。>

・この記事に関係する1枚の写真 :

大正8年撮影塔心礎写真
下図拡大図

塔垣内付近図

【大正8年5月28日大阪朝日新聞大和版】にも写真は掲載と思われるも、
この掲載写真は「辻本正教氏」所蔵のものと云う。
大正8年・9年洞村を撮影とある。田植直後と思われる田圃が写るので5月末の撮影として大きな矛盾はないであろう。

写っている心礎は上記新聞記事および心礎の形状などから、現在国源寺にある「大窪廃寺」心礎に間違いはない。
背景は畝傍山、その前の村落はかの洞村、心礎脇を走る道は国鉄畝傍駅に続く旧道(今は廃道)、後の橋は旧桜川(大久保川)に架かるものである。

以上の状況から、この写真に写る心礎の位置は今ある寺内の国源寺境内ではない。
この写真に写る心礎の位置は
塔垣内付近図に示す位置である。
撮影方向は逆三角形で示した位置であろう。

結局、この心礎は大正元年字「寺内」で掘り出され、大正4年畝傍駅設置の橿原神宮石碑の台石候補とされるもそれを逃れ、大正8年骨董屋に売却され「寺内」から搬出され、その途中で あったが、「史蹟保存の観点?」から中止を強制される。
この放置場所から判断して、心礎は寺内から「旧道」を使い国鉄畝傍駅に搬入しようと意図したものと思われる。
その後の経緯は不明ながら、この搬出途中で中止・放置された心礎は元の寺内に戻され、現在の位置に置かれ現在に至ると思われる。
 なお、昭和3年生国魂神社に1枚の絵馬が奉納されると云う。この絵馬には上記大正8年の写真を基に移転前洞村全景と心礎が詳細に描かれる。橋に親柱には大宮橋および桜川と記されると云う。
 以上のような心礎の変遷であれば、この写真は搬出途中でたまたま塔垣内廃寺近くに放置されたものが写されただけで、塔垣内廃寺とは何の関係もないのは明らかであろう。
2009/08/27追加:「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より
 心柱礎石:大窪寺塔心礎実測図:「中の孔は実は方形をなして居ることを注意」とする。
  (孔は方形と云うも、実測図の孔が円に描かれるのは、良く分からない。)


大和塔垣内廃寺

神武天皇陵考」伊藤敬太郎(「文化財と近代日本」鈴木良/高木博志/編、山川出版社、2002 所収) より
近世神武陵の探索が政治的課題として浮上し、候補地の一つであり神武陵とされた神武田の記録が多く残る。
・「神武天皇御陵考」(北浦定政・江戸後期か):「字塔垣内字南塔垣内此処に堂塔の柱石五あり」
・「山陵志」(谷森善臣、幕末か):「御陵の東の方の田畑の字を塔の垣内といい、その中間に塔の土壇と見えて小高き荒地、またその北傍に塔の礎石の五六許残たり」
 ※塔垣内には土壇・礎石の存在が早くから知られていた。
・明治13年「御陵図」:明治13年「御陵図」:塔跡とあり、 そこに7個の礎石が図示される。玉垣に囲まれる。礎石は現位置を保つかどうかは不明、礎石配列は規則性を保持するように見える。
・大正13年「神武天皇畝傍山北東陵図」:神武天皇畝傍山北東陵図:11個の礎石が表される。これは、配列と礎石種類からみて、陵の拡張で付近の礎石が集められ適当に置かれたものと推測される。なお廻りの礎石 実測図は下図(神武陵内礎石実測図) のそれを貼付したもの。
・「歴代御陵めぐ里」(倉田安吉編、大修堂、昭和15年):「(神武天皇陵)勤番所の東側、手水鉢北辺に・・・国源寺の僅かな礎石を残存している。」とあると云う。
・「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作: 神武陵内礎石   神武陵内礎石実測図
この礎石は昭和15年まで自由に見ることが出来たと云う。しかし昭和15年(皇紀2600年などと云う荒唐無稽な事業)の大拡張工事によって現在は見ることが出来ない。( 礎石とか遺構とかは国民共有の文化財であり、宮内庁なのかどうかは知らないが、要するに国の機関の私有物ではない。)
そもそも、現神武天皇陵とは幕末に神武田と呼ばれた田圃の中の小土壇を整備して造成したものであり、江戸期にはこの神武田と丸山(畝傍山の北東山腹)と塚山(現綏靖陵・神武田の北方)が有力地とされ、その決定の強引さは良く知られているところであろう。勿論神武陵が存在するということと神武天皇が実在するということは全く別のことであることは云うまでもない。
・著者:伊藤敬太郎は飛鳥池遺跡出土の木簡(天武朝頃の寺名を列挙したもの)や標記の神武陵内礎石などから神武田東隣の字南塔垣内は「山本寺」と呼ばれた白鳳寺院跡であること、この寺院は渡来系氏族特有の瓦の出土があり、陵寺ではなくて渡来系氏族の氏寺であること、 日本書紀にある大窪寺は現国源寺のある地(字寺内)に創建され、伝承にある神武田からの移転ではないことを明らかにした。なお、出土瓦から創建は7世紀後半であり、鎌倉・室町初頭まで寺院は存続 したと推定されると結論づける。
 ・以上のように、現神武陵域には古代白鳳寺院があった可能性は極めて高い。その伽藍配置は南塔垣内に塔基壇があり、その東に西今度・東今度の地名があり、今度は金堂の転訛とも思われ、そうであるならば、法隆寺式伽藍配置 が想定できる可能性がある。以上のような本格的な伽藍であれば、この廃寺は藤原京の中でかなりの面積を占地し、だとするとのこの廃寺の西すぐに隣接した神武田に「神武陵」は存在しないと考えるのが妥当であろう。 (神武陵は神武田とは別の場所にあったのであろう。)
 江戸期地割復元図:神武田および南塔垣内には基本的には条理制の区割の中で、近世に於いても畑地を残す。集落或は寺院などの存在で水田化が進まなかったなどの理由が考えられる。
 なお国源寺は神武陵の陵寺との伝承があり、中世、塔垣内廃寺の跡地に建立された可能性が高いとも云われる。
そしてこの国源寺は何時の頃か不明ではあるが、塔垣内廃寺の跡地から付近(寺内)の大窪廃寺跡に移転したものと思われる。
 ※国源寺は、もとは神武田にあったが、明治初年御陵修築に際し現在の場所に移転との記事が散見される。
しかし、伝承のように神武田から現在地に移転した可能性は高いが、明治初年の移転ではない。
なぜならば、江戸期の神武田の様子を示す諸資料は多くあるが、これらには神武田に国源寺の存在を記したものはなく、移転したとするとかなり以前のこと といわざるを得ない。
2009/08/27追加:
「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より(大窪寺の項 より)
 大窪寺付近図:岡本桃里作、幕末、神武田・塔垣内・南塔垣内・西金堂・東金堂などの地割や大久保村・国源寺の位置や南塔垣内の土壇・神武田の墳丘?などの様子を知ることができる。 文久3年(1863)修築前の図。
 国源寺塔阯(南塔垣内塔土壇):中央の大穴は心礎抜取穴?、周囲に礎石(石)・礎石抜取穴と思われる小穴がある。
 「神武皇陵考」(北浦定政):「・・・堂塔の名地名に残りたれば国源寺中にありし神武天皇御廟堂の跡なる事明也」と云う。
 「山陵考」:「御陵の東方の田畑の字を塔の垣内といひその中間に塔の土壇と見えて小高き荒地、又その北傍に塔の礎石五六許残たり」
2009/08/27追加:
「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
◆塔垣内廃寺の様子
 上掲載、「大和上代寺院志」保井芳太郎の論文に「大窪寺付近図」「国源寺塔阯(南塔垣内塔土壇)」があり、土壇と礎石の残存が描かれる。
 聖蹟図誌・神武陵:「聖蹟図誌」平塚瓢斎 、土坑と思われる池とそれを取り巻く4個の礎石と思われる石が描かれる。
  ※以上のように、文久3年の陵墓改築前までは、塔垣内には土壇と数個の礎石の残存があった。
   この土壇・礎石は、塔跡であり塔礎石である可能性が高いと思われる。
 神武綏靖両天皇御陵図:文久修陵後の塔跡、塔跡は陵内に取り込まれたが、ほぼ幕末の状態は維持されたと思われる。
  土壇と思われる遺構は保存され、そこには礎石と思われる4個の石がある。
 神武天皇・・御陵御祝詞:奈良県立奈良図書館蔵、明治10年
  ※神武陵とされる領域には塔跡との明示がある。
  「昭和52年度陵墓関係調査概要」(「書陵部研究紀要 30号」1979 107頁所収) では
   :「斉館車寄広場に北接して白鳳時代建立の大窪廃寺塔址礎石が現存」とあると云う。
  しかし、眉間寺跡(聖武陵)と同じくここは神武陵と捏造しているので立ち入りが出来ず、確認ができない。
  戦後60数年経過しても、日本と云う国は依然として戦前の天皇教と云う国家神道からフリーではない状況にあるということが
  端的に現れている一例なのであろう。
◆塔垣内廃寺と山本寺
以上、寺内(現国源寺)と塔垣内には礎石の残存や瓦の出土を見、7世紀に溯る古代寺院があったことは確実であろう。
1998年頃飛鳥池遺跡から、古代寺院を列挙した木簡が出土したが、その中で山本(寺)と云う確認されていない寺名がある。
この山本寺を地名から推定すると、古代まで溯れる地名「山本」は大和では現橿原市山本町しかない。しかしこの山本町には古代寺院址は確認されていないが、 山本町に隣接して塔垣内廃寺があり、この廃寺は山本寺である可能性が考えられる。
なお、詳細な論考については
 「飛鳥池出土の寺名木簡について」伊藤敬太等、竹内亮(「南都仏教 79号」南都佛教研究会 2000 所収)を参照。
 ※記載寺院名:軽寺、波若寺(般若寺)、瀆尻寺(池尻寺)、日置寺、春日部、矢口、石上寺、立部、山本、平君(平群)、龍門、吉野

2010/10/29追加:「宮内庁書陵部陵墓地形図集成」宮内庁書陵部陵墓課、学生社、1999 より
 大正13年測量神武陵:部分図、「神武天皇畝傍山東北陵之図」
 昭和63年測量神武陵1:部分図、上方中央付近に塔跡、右下に国源寺が示される、大久保公民館前庭に心礎がある。
 昭和63年測量神武陵2:部分図、上記の大正13年測量図と同じ塔跡・礎石配列が示されるが、昭和63年段階に於いても、大正13年時点と全く同一の礎石が残されていたのであろうか、それとも実際の現地確認は別にして、単純に大正13年の図を転用しただけなのであろうかなどは不明。神武陵は戦前・戦後も聖域が有り続けたであろうから、塔跡・礎石は現在もそのまま残る可能性が大きいであろう。

2010/03/06追加:2010/03/02の現況:
大和塔垣内廃寺現況

大和塔垣内廃寺空撮:神武陵(ミサンザイ):左図拡大図

神武陵と称する大真面目な虚構の拝所 の東に「宮内庁畝傍陵墓監区」の事務所がある。
さらに事務所東に南北の一棟の建物(以下南北棟と云う)がある。
事務所とその南北棟との間は20〜30mほどの「空間」があるが、その空間には簡単な可動式の木柵が置かれる。
奇妙なことに、その木柵の南は自由に立ち入りは可能であるが、北側は立入は許可できないと云う。(事務所の見解、その理由は明確にはしない。)
さらに、南北棟の北およそ50mほどのところに生垣に囲まれた木立の区画(生垣区画)がある。
この生垣区画が塔垣内廃寺の塔跡であり、礎石が置かれていると推定される区画である。
(空撮写真では黄色○の付近が塔跡の想定地である。なお○の中央部分に何らかの建物か工作物かの施設があると思われるが、それは不詳。)
 ※空撮写真左上の掘割区画がミサンザイと称した遺構で現在は神武陵と虚称する。
 ※右下には現国源寺の堂宇と大窪廃寺心礎がある。
   2010/03/02撮影:上に掲載
    大和国源寺堂宇     大和大窪廃寺心礎21

以下は事務所及び南北棟からたまたま出てきた職員と思われる人物から聞き取りしたものである。
・礎石があるのは生垣区画の林の中である。
・生垣区画には礎石は今も現存する。但し今はかなり腐葉土などに覆われていて、確認は難しいかも分からない。しかし礎石が残るのは確かである。
 ※複数人が口を揃えて即答するので、今も残存するのは確かであろうと思われる。
・木柵の北の生垣区画への立入は認めていない。
・昭和15年まで礎石を自由に見ることができたと云うが、それは、当時は参道が今の形ではなく、東からの参道であったからであろうか。
 大和塔垣内廃寺1:木柵から、生垣区画を撮影、左が神武陵の石柵、右は南北棟建物、中央の生垣区画の木立中が塔垣内廃寺塔跡。
 大和塔垣内廃寺2:生垣区画の木立中に塔垣内廃寺塔跡(礎石)がある。
 ※中身のないものを飾り立て、中身が立派に存在すると見せかけるのを「インチキ」と云うならば、この神武陵や橿原神宮とは国家レベルのインチキであろう。

 大和橿原神宮社殿:神武陵の南にある。
運び込まれたとされる大官大寺の礎石などの遺物を探すにも、本殿の区画には立ち入りできないので、転用礎石などの実態は全く分からない。
社殿は壮大さを演出するも、ここには醜悪と云う以外に云い様のない社殿が並ぶ。
 国家神道は戦前教派神道の一つである大本教の社殿をダイナマイトで徹底破壊した。その理由は国家神道(天皇教)が、大本教の教義を異端として断罪した ことによるものである。
この橿原神宮などと云う代物の醜悪さは、以上のような国家神道の一つ象徴として、いまだに存在していることに起因するのであろう。


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