河   内   百   済   寺   跡

河内百済寺跡(特別史蹟)

河内百済寺概要

2017/02/21追加:
○河内百濟寺跡の発掘調査
 第1回目は昭和7年(1932)大阪史談會によって行われる。堂塔の基壇や回廊の礎石が調査され、概ね東西両塔を備えた薬師寺式伽藍とされる。この成果から昭和16年(1941)史跡指定される。
    →成果は「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935)として報告される。
しかし、その後老木や潅木が繁茂する。その結果、整備の必要性が出てきて、そのため第2回目の発掘調査が計られる。
 第2回目の発掘調査は昭和40年(1965)に実施される。その結果、回廊が中門から金堂に取り付くことが確認され、新羅の感恩寺と同形式であることが判明する。発掘成果を踏まえ、史蹟は再整備されるも、経年により、整備された史蹟は少々劣化し、再び整備の必要性が発生する。そこで、第3回目の発掘調査が計画される。
 第3回目の発掘調査は平成17年(2005)から平成26年(2014)まで実施される。
この発掘調査の成果は「特別史跡百済寺跡」(平成27年3月刊)として刊行、配布される。
 価格・体裁:7,300円(A4 ハードカバー2分冊函入 本文編660ページ・写真図版編198ページ、重さ4kg、厚さ7.2cm)
平成28年(2016)より再整備工事が実施され、現在(2017年)も継続中である。<再整備工事は平成30年(2018年)までの予定>

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 河内百濟寺跡について近世の地誌では以下のように記される。
「河内志」並河、享保年中 では「百濟廃寺 在中宮村百濟王祠廟域内礎石尚存、延暦2年冬十月帝遊猟・・・」とある。
「河内名所圖繪」秋里舜福、享和元年 では「百濟王霊祠 中宮村にあり・・・百濟寺といふあり今廃して古礎存す」とある。
以上のように徳川中期には礎石の存在が指摘され、その重要性が認識されていた。
そして、この遺跡は幸いにも百濟王社の社域にあり松林雑木に蔽われていたことと、明治に入って百濟王社境外保安林に指定され、この種の史跡が動もすれば破壊の厄に委ね勝ちにあるに対して、十分な保護をうけて、大なる改変を受けず保存されたのである。
 (昭和7年の発掘前は保安林に指定せられたため松樹雑木繁茂し容易に足を踏み入れ難い状況にあった。)
 昭和7年の発掘調査が終わった現在、遺跡内に現存せる礎石は70個に達し、その中原位置のあるもの56個で、このうち調査以前にその存在の知られていたものは23個で、今回の発掘にて新たに発見されたものは32個の多きに及ぶ。その他他所に転されその存在の知られるもの7個あて、都合77個を算する。
 さらに主要建造物の遺址は何れも明瞭な土壇を残す。
また礎石は金堂跡を除いて(金堂跡の礎石のみは自然石を用いる。)花崗岩を用い、全て整美なものである。即ち、円柱座を作りさらに中央に枘を突出させたもので、大和唐招提寺や山城国分寺跡等の礎石と形式を同じくするものである。
 廃百濟寺伽藍趾配置図     伽藍趾礎石及栗石実測図1     伽藍趾礎石及栗石実測図2

○2005〜06年度発掘調査概要:

伽藍配置図:下図拡大図

寺地は南大門を 経て方160m、中門から廻廊が金堂に取付き、その中に東西両塔がある。
金堂北に講堂、食堂を配置。

東西両塔基壇は方12m、高さ1,2m切石積み基壇 (凝灰岩)。
東西塔の心々距離は42m。

 百済寺遺跡等高図
網掛部分は2005〜06年度の発掘部分である。(西塔と西廻廊部分)

2017/02/21追加:
「特別史跡百済寺跡再整備基本計画」枚方市、平成26年3月 より (「特別史跡百済寺跡再整備基本計画」)
 河内百済寺検出遺構全図     河内百済寺伽藍配置図
 河内百済寺再整備計画/鳥瞰図     河内百済寺再整備計画/正面図


河内百濟寺跡の堂塔

河内百濟寺南大門跡(南門跡)

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 土壇の址はかなり明瞭である。ここには原位置を保つ4個の礎石を残す。さらに3か所の栗石を発見する。
その結果などから、門は3間2面の楼門を考定することができる。
 南大門趾実測図     南大門趾東部の3礎石
2021/04/30撮影:
 百濟寺南門跡1     百濟寺南門跡2     百濟寺南門跡3
河内百濟寺中門趾

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 南大門趾より約59尺を隔てて真北に中門趾がある。そこには概ね原位置を保つ3個の礎石が現存し、発掘調査によって栗石を9カ所に発掘する。以上によって中門は南大門よりやや小規模の3間2面の楼門と推定される。
 中門趾実測図     中門趾全景
2021/04/30撮影:
 百濟寺南門・中門跡     百濟寺中門跡
河内百濟寺廻廊趾

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 回廊は単廊の歩廊にして、中門の中央より左右に伸び、東西に走り、更に各北折して北走するが、北部の状況を明らかにすることは証趾なく、出来ず遺憾である。
 ※以降の調査で、「中門から発して東西両塔を囲み、金堂両端にとりつく」ことが確認される。
南回廊は中門趾の東に1個、西方に2個の礎石を残す。他に7個の栗石を発掘する。
東回廊趾は僅かに南北に並ぶ3個の礎石列を発見するのみである。
西回廊趾は内外の二礎石列厳然と存し、内側列12個外側列10個都合22個の礎石が発見され、栗石も23個所で発見される。
 東回廊礎石11     東回廊礎石12     西回廊礎石11     西回廊礎石12
2021/04/30撮影:
 百濟寺西回廊跡     百濟寺南回廊跡1     百濟寺南回廊跡2     百濟寺南回廊跡3

○2006/02/18撮影:
 昭和7年調査で西廻廊の礎石位置は確認されていたが、今般は発掘調査を実施する。
北の東柱列の1番目、5〜9番目の礎石及び5と6番目の相対する西側礎石の計8個の礎石を発掘。
礎石は西塔と同じ閃緑岩製で、径約50cmの柱座と径12×高3cmほどの出枘を造り出す精巧な礎石である。
桁行柱間は凡そ3.4〜4.5m、梁間約3.2mの規模で、基壇遺構はなく地山を整地したものと判明する。
 2005〜06年度検出遺構図
 百済寺西廻廊礎石1:手前が北から6、7、8番目東側礎石
 百済寺西廻廊礎石2    百済寺西廻廊礎石3     百済寺西廻廊礎石4    百済寺西廻廊礎石5    百済寺西廻廊礎石6

河内百濟寺東塔跡

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 東西両塔趾は中門趾の直北59尺の線上にある。両塔とも高き土壇を残し、現在尚約4尺の高さを保つ。
東塔趾
 現在その壇上に5個の礎石がある。心礎は失い、2個の四天柱礎と3個の側柱礎であり、概ねこれらは同じレベルの高度にあり、原位置を保つと思われる。
礎石は花崗岩で門礎と比べて大きく、表面に径2尺ないし2尺1寸寶2寸ないし2寸5分の円形造り出しがあり、更に1尺89寸の円柱座を設け、その中央に高さ2寸ないし3寸の枘を突出する。また側柱礎には幅8寸ないし1尺程度の地覆座を造り出す。
その配置から塔の平面規模が推定されるのであるが、平面は方3間、各脇間5尺6寸、中央間6尺7寸にして一辺17尺9寸である。
また顕著はことは、基壇周辺の地覆石がかなり完全に発掘されたことである。その結果基壇の大きさは各辺に多少のばらつきはあるが、大体39尺ないし40尺あったと推定される。
 東塔跡実測図     東塔跡全景     東塔跡側柱礎
 東塔跡基壇北側地覆石発見状態     東塔跡基壇北側中央階段部     東塔跡基壇東側地覆石1
 東塔跡基壇北側地覆石      東塔跡基壇南側地覆石中央部     東塔跡基壇東側地覆石2
 東塔跡基壇西側地覆石中央部     東塔跡西北隅に落下する葛石     東塔跡基壇東側地覆石外の礫石
○2003/10/29撮影:
 河内百済寺東塔跡     河内百済寺東塔跡礎石1      河内百済寺東塔跡礎石2
○2005〜06年度発掘調査概要:2006/02/18撮影:
心礎は既になく、四天柱礎2箇(東北、南西)、側柱礎3個を残す。いずれも柱座及び出枘を造り出す。
 百済寺東塔復元基壇1     百済寺東塔復元基壇2     百済寺東塔復元基壇3     百済寺東塔復元基壇4
 百済寺東塔礎石1         百済寺東塔礎石2         百済寺東塔礎石3         百済寺東塔礎石4
2021/04/30撮影:
 百濟寺復元東塔跡1     百濟寺復元東塔跡2     百濟寺復元東塔跡3     百濟寺復元東塔跡4
 百濟寺復元東塔跡5     百濟寺復元東塔跡6     百濟寺復元東塔跡7

河内百濟寺西塔跡

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
西塔趾
 西塔趾は東塔の推定中心より西塔心礎まで141尺2寸の位置にある。
礎石は基壇上に心礎、四天柱礎2個、側柱礎7個都合10個残る。
心礎は径3尺5寸余、高さ3尺56寸の大きさで、略円形の形状で花崗岩である。表面には径2尺9寸2分、高さ3寸の円形造り出しをつけ、更に径2尺6寸4分の柱座を設け、その中央に径1尺に近い高さ2寸の枘を突出する。
礎石は多少動いているものもあり、平面規模にはばらつきがあるが、脇間は6寸5分ないし6寸8分(ママ・・何かの間違いか、意味不明)、中央間は7尺余である。現状を以てすれば、東西両塔の規模に僅少の相違があるが、勿論これは後世の礎石の異動により起こったもので、東西両塔の大きさに差異があったのではなく、一辺18尺程度の同一規模の塔が建っていたのであろう。
 西塔跡実測図     西塔跡全景     河内百済寺西塔心礎
 西塔跡基壇東側地覆石発見状態     西塔跡基壇東側地覆中央部     西塔跡基壇地覆南西隅
 西塔跡基壇南側地覆石     西塔跡基壇北側地覆中央部     西塔跡基壇西側地覆石
 

○2003/10/29撮影:
 河内百済寺西塔跡     河内百済寺西塔跡心礎・礎石     河内百済寺西塔跡心礎
 河内百済寺西塔跡礎石1     河内百済寺西塔跡礎石2     河内百済寺西塔跡礎石3

○2005〜06年度発掘調査概要:2006/02/18撮影:

百済寺西塔心礎・礎石

西塔礎石:
心礎と四天柱礎2箇(東北、南西)、側柱礎6個を残す。
心礎は径1mで、径88cmの柱座を造り、径30cm高さ6cmの出枘を造り出す。
心礎以外の礎石もいずれも柱座を造り出枘を造り出す精巧な造りである。
現地報告会資料では心礎は閃緑岩製、高さは105cm超、柱座径(最大)96cm、径27×6cmの出枘を持つとする。四天柱礎・脇柱礎の柱座径は約72 cm、出枘は径19×3cm程度とする。脇柱礎は2方向に地覆座を造り出す。
 百済寺西塔礎石1:左図拡大図:南東から撮影:中央が心礎
 百済寺西塔礎石2:東から撮影:中央が心礎
 百済寺西塔礎石3:心礎:西から撮影
 百済寺西塔礎石4:心礎:南東から撮影
 百済寺西塔礎石5:北東から撮影
 百済寺西塔礎石6:南西から撮影

  2005〜06年度西塔検出遺構図

西塔 :塔一辺は5.6m。中央間約2.2、両脇間約1.7m前後を測る。基壇一辺は約12m。
四面中央に階段を付設する。
最下段には延石(凝灰岩製)がほぼ6割程度残存する。延石は巾36×高15×長さ100cm程度の大きさを測る。
地覆石については殆ど残存せず僅かに1個完存し、その他地覆の残欠と思われる石が数個残存する。
羽目石・葛石と思われる石は不明であるが、以上から壇上積基壇であったと推定される。

百済寺西塔遺構1:東辺階段北部延石
百済寺西塔遺構2:東辺階段南部延石1
百済寺西塔遺構3:東辺階段南部延石2
百済寺西塔遺構4:東辺階段南部延石3
百済寺西塔遺構5:南辺東部延石・地覆石:左図拡大図
百済寺西塔遺構6:南辺階段東部延石
百済寺西塔遺構7:西辺階段南部延石
百済寺西塔遺構8:西辺北部分延石:北から南方向に撮影
百済寺西塔遺構10:西辺階段北部延石
百済寺西塔遺構9:北辺西部延石

○2009/08/18追加:「河内古代寺院巡礼」近つ飛鳥博物館、2007 より
 河内百済寺西塔跡発掘
2021/04/30撮影:
 百濟寺西塔跡11     百濟寺西塔跡12     百濟寺西塔跡13     百濟寺西塔跡14     百濟寺西塔跡15
 百濟寺西塔跡16     百濟寺西塔跡17     百濟寺西塔跡18     百濟寺西塔跡19     百濟寺西塔跡20
 百濟寺西塔跡21     百濟寺西塔跡22
 百濟寺西塔心礎1     百濟寺西塔心礎2     百濟寺西塔心礎3

金堂跡

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
金堂趾
 中門直北124尺余、両塔中心線上より約65尺にして金堂趾南の塼列に達する。土壇は高さ約2尺5寸で、その上に5個の礎石を残す。そのほか、16個の栗石及び栗石らしきものを発掘する。礎石は他の堂塔とは違い、3尺程度の自然石を用いる。
 金堂跡実測図     金堂跡全景     金堂跡礎石
 金堂跡推定内陣礎石及塼列     同上の塼列中央部     金堂跡南側塼列     金堂跡北側塼列     金堂跡西北隅塼列
○2003/10/29撮影:
金堂は7間×5間で礎石5個を残すという。
 百済寺金堂跡
2021/04/30撮影:
 百濟寺金堂跡1     百濟寺金堂跡2     百濟寺金堂跡3

講堂跡

2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 講堂趾
 高さ1尺程度の土壇があり、ここに栗石らしきものが15個遺存する。金堂の北にある為、講堂趾と推定される。
 推定講堂趾実測図
○2005〜06年度発掘調査概要:2006/02/18
 講堂も7間×5間。
2021/04/30撮影:
 百濟寺講堂跡1     百濟寺講堂跡2

食堂跡

○2003/10/29撮影:
食堂跡には礎石2個を残す。
 河内百済寺食堂跡礎石
2021/04/30撮影:
 百濟寺食堂跡

北門跡
2021/04/30撮影:
百濟寺北門跡;中央築地が切れている所が北門跡である。

北西院跡
2021/04/30撮影:
 百濟寺北西院跡:掘立柱建物跡

移動せる礎石
2017/02/21追加:
○「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告、第4輯 百濟寺阯の調査」大阪府編、昭和10年(1935) より
 移動されたる礎石は遺跡の各所に散在し、都合13個を数え、また他所に持ち去られその所在の明らかなるもの7個ある。
まず、遺跡の北端宮池の南畔に2個ある。最近までここに弁財天が祀られていたので、その祠の台石として使用されたものである。塔の隅礎石と四天柱礎の各1であるが、隅礎石の中央枘が4寸以上に達する。
 また推定金堂跡の北方に2個、金堂跡の東方の老松の根の1個、神社社務所西北の雑木林中に2個、正面鳥居下に半ばを存するものが1個ある。これらは何れも南大門趾中門趾の礎石と思われる。
 さらに、東脇の2末社に5個の礎石が台石に転用される。これらは塔の隅礎石1個、金堂礎石2個、回廊趾礎石2個である。
 その他、外部に持ち出されたものとして、中宮の西方寺に6個(本堂椽側束石、客殿庭園の飛び石)、小学校に1個(御真影奉安庫前に置かれる)ある。いずれも回廊の礎石である。
 移動礎石/宮池南畔     移動礎石・末社台石
2021/04/30撮影:
講堂跡西に移動し放置された礎石3個がある。
 移動礎石11     移動礎石12     移動礎石13     移動礎石14


出土遺物

○2005〜06年度発掘調査概要:2006/02/18撮影:
2001年の百済王神社拝殿立替に伴う発掘調査で塼仏が出土と云う。
 2001年出土塼仏
 出土軒丸・軒平瓦:以前に出土した瓦 という。

河内百濟王神社

 百済滅亡後、日本に残留した百済王族善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜わる。
その曾孫である百済王敬福は陸奥守に叙せられ、天平勝宝元年(749)陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献ずる。
その功によって敬福は従三位宮内卿河内守に任じられ、百済王氏の館を摂津の難波から河内の当地に移す。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王社が造営される。
以上が公式の歴史である。
しかし、百濟寺と同様、百濟王社もいつしか廃絶したというのが真相であろう。
その後、当地は南都興福寺の支配下に入り、おそらく近世に百濟王社の故地として、興福寺鎮守春日明神の末社として、再興されたのであろう。
この間の事情は、「室町期以前に遡る神社遺構は未発見」であり、文献上の初見は延宝9年(1681)寺社改帳の「百済国王 牛頭天王相殿一社」であり、「現本殿は文政10年(1827)の大和春日社の「春日移し」と見られ」、「前の拝殿は天保9年(1836)再建」ということが物語る。
推測であるが、再興前にはこの地には流行神牛頭天王が祀られていたのであろうか、百濟王社の再興にあたって、牛頭天王を合祀したのであろう。当然明治の神仏分離の処置で牛頭天王はスサノウに改竄される。

2017/02/21追加:
○平成19年(2007年)3月10日現地説明会配布資料、枚方市教育委員会 より
 百済王(くだらのこにきし)氏:
 660年に朝鮮半島の百済は新羅・唐連合軍によって滅亡する。当時百済と友好的な関係にあった倭国には、百済国王である義慈王の王子、豊津王・善光王が派遣されていた。そこで陥落した都の泗比(サビ一現在の忠清南道扶餘郡扶餘邑)から遺臣が倭国に滞留していた王子を担いで再興を企てる。兄の豊津王はこれに応じて帰国し、倭国も救援軍を差し向けたが、663年に白村江で潰滅し、再興の夢は潰えたのである。
一方、倭国に留まっていた弟の善光王は祖国を失うも、百済王族として待遇され百済王(くだらのこにきし)の称号と難波に土地を賜り永住を保証される。これが百済王氏誕生の経緯である。以後、百済王氏は高級宮人として渡来氏族を束ねて朝廷に仕えることになるが、この頃に難波に入植し、滅亡した百済からの亡命王族や亡命宮人と共に難波京の中に故国の制度・習慣に倣って「リトル泗比」ともいうべきコリアン社会を形成し、その精神的紐帯として摂津百済寺・百済尼寺(摂津)を造営したものと考えられる。そして他の百済系氏族から宗家と仰がれ、平安時代に至るまで名実共に渡来系氏族筆頭の地位を保ちつづけたのである。
 百済王氏の交野進出と百済寺造営は、百済王善光の曾孫、敬福によるといわれる。
敬福は天平10年(738)に陸奥介に補任され、同15年に陸奥守に昇進する。天平18年4月にいったん上総守に任ぜられ、再び同年9月には陸奥守に着任する。そして天平21年(749)に任地で砂金を発見し、黄金900両を聖武天皇に献上し、時恰も東大寺廬舎那仏造立の最中にあり、荘厳用の黄金の不足による事業停頓に難渋していたことから朝野を挙げて慶祝される。
敬福は、この功により一躍、宮内卿に昇進(天平勝寳2年(750))し、河内守就任を契機に難波の地から当地交野郡へ本拠を移し、氏寺として百済寺を造営して一族繁栄をより強固なものとしたのである。

2021/09/24追加
 この地(交野)に交野に進出した百濟王氏は、この地に氏寺(百濟寺)・氏神(百濟王社)を造営したのであろう。
しかし、古代豪族の百濟王氏も時代の変遷とともに没落し、その氏寺・氏神は退転する。
 その後の古代・中世から近世にかけては、百濟王社がどのような変遷を辿ったのかは不明である。
ただ、近世においては、冒頭に掲げた資料が散見され、百濟国王及び牛頭天王(相殿)が祭祀され、この地の崇敬をうけていたのであろう。
(牛頭天王はおそらく当時の流行神として山城祇園社から勧請されて可能性が高いものと推測される。)
百濟王神社サイト より
鳥居の拓本:軸装
鳥居拓本(軸装):百濟國王牛頭天王 寶前 とある。年紀は正徳3年(1713)。現在、現在の鳥居から文字を読み取ることは困難という。
2021/04/30撮影:
本殿:高欄の凝宝珠銘に「文政十丁亥年 百濟國王牛頭天王 河州交野郡中宮村」とある。純正な春日造りであることなどによって、文政5年(1822)の春日大社の造替に際し、その一棟が下賜されたものとされる。
百濟王神社本殿1
百濟王神社本殿2
百濟王神社扁額:但し、近代のものように見える。
旧拝殿:造立時期は明確な資料がなく不明であるが、最も古い修繕記録から天保7年(1836)には存したことは知れる。形式手法から見れば、江戸後期ではなく江戸中期の建築とされる。
百濟王神社旧拝殿1
百濟王神社旧拝殿2
百濟王神社旧扁額:年代は不詳


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