豊 後 万 寿 寺 (廃寺) 五 重 塔

豊後万寿寺五重塔

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豊後府内町絵図

豊後大分は中世府内と呼ばれ、鎌倉期より守護大友氏の根拠地であった。
中世の様子を描いた「戦国時代府内町絵図」が後世の複写ながら、複数伝わり、それによると府内は商業都市であると同時に宗教都市でもあったと 云う。この豊後府中には多くの寺院があったが、とりわけ「万寿寺」が巨刹であり、その大門門前には五重塔が建立されていた。

豊後府内町絵図(部分部)・・・左図拡大図

府内町絵図の南東部に萬壽寺と門前の五重塔が描かれる。

従来必ずしもその繁栄の信憑性は確かではなかったが、
近年では発掘などによりその実在が確認されつつある。

万寿寺

徳治元年(1306)大友貞親により建立、 蒋(まこも)山と号する。開山は直翁智侃(足利泰氏息、入宋し、帰朝後は博多承天寺住持)と云う。
総門、三門、仏殿、法堂、方丈、僧堂、鐘楼など禅宗様の堂宇のほか門前に五重塔が建立されていたとされる。
また門前塔頭瑞光寺にも三重塔が建立され、双塔の観をなしていたともされる。
塔頭として開山直翁塔所の常楽院、十門(直翁の弟子)の諸院などがあった。
室町期には十刹に列する。
戦国期にしばしば火災に遭い、天正14年(1586)には、島津氏侵攻により、山門及び釈迦如来を残すのみとなる。
寛永8年(1631)現在地(北方約500m)に移転、再興される。

鈴木慎一氏作CG
万寿寺五重塔(左図拡大図)