近 江 金 剛 輪 寺

近江金剛輪寺三重塔

2008/09/22追加:
参考文献:「金剛輪寺三重塔の復元」成瀬弘明(「月刊文化財 (Vol.180)」、1978/09 所収)

近江金剛輪寺及び三重塔

松尾寺。 (この寺名が秦氏との関係があったであろう創建時の名称であろうとされる。)
寺蔵「三重塔待龍塔建立供養文」末尾には「寛元4年(1246)4月9日 弟子沙弥等敬白」とあると云う。
  (建立供養文・・・但し江戸期末のもので、原本の存在は不詳、昭和52年の火災で喪失と云う)
しかし様式上、寛元4年(1246)まで溯ることは無理で、室町期あるいは南北朝期の建立が妥当とされる。
永正17年(1520)大修理が行われたと思われる。
 ※相輪露盤(三重塔附指定)が残り、「奉鋳金金剛輪寺空輸檀那■宝橋■■蚊野別当并河内際山郷与三郎也旦難之郷 永正17年庚辰9月」の銘が知られる。
近世では、寛永9年(1632)、延享4年(1747)に修理、天保3年(1832)に修理計画、弘化2年、弘化4年、文久元年に屋根修理。

延享4年「請取申作料銀之事」には「塔之中重南之方軒付直し、二重共繕ひ云々・・・・延享4年 棟梁三郎兵衛」とあり、この時期には三重であったと知れる。
天保4年「松峯山金剛輪寺待竜塔10分之1図」(未見)が作成される。(天保の大修理の為に作成)
ここには次の記がある。「本寺三層塔者寛元四年創建之至今茲天保三年垂千六百歳相輪以至椽梁悉廃壊幾傾頽矣住持光格法印不忍坐見之発願欲修造之先期命大工成則令書綵此図云 天保四年癸巳春二月 ・・・」
この頃は相当に破損が進んでいたことが窺われるが、資金調達が叶わず、未修理のままであったとされる。
明治期までにはニ重目組物の上部半分以上を失う。

近江金剛輪寺修理前塔2:左図拡大図
 (「金剛輪寺三重塔の復元」 より)

近江金剛輪寺修理前塔婆(昭和43年 撮影)

いずれも、三重は倒壊消滅、二重は残欠のみ、一重は軸部・軒廻のみ残存した状態であった。

金剛輪寺三重塔当初材:黒塗の材が当初材

近江金剛輪寺復原三重塔

復原に当っての復原資料及び技法は中世の現存三重塔全般を参考にする、就中近江西明寺三重塔は地理的にも近く構造的にも近似しているので、手本としたと云う。

初重中央間5.742尺・11支、脇間4.698尺・9支、総間15.138尺・29支
二重中央間4.644尺・ 9支、脇間4.128尺・8支、総間12.900尺・25支
三重中央間3.960尺・ 8支、脇間3.465尺・7支、総間10.890尺・22支
 一辺4.60m。総高21.55m。
昭和53年復元工事完了。修理総工費1億6780万円。

2007/11/18撮影:
近江金剛輪寺三重塔11
  同         12:左図拡大図
  同         13
  同         14
  同         15
  同         16
  同         17
  同         18
  同         19
  同         20
  同         21
  同     塔本尊22
  同     塔本尊23

「金剛輪寺三重塔の復元」 より:
 竣工後金剛輪寺三重塔

近江金剛輪寺三重塔

2001/10/07撮影:
近江金剛輪寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同      塔本尊

 

近江金剛輪寺概要

寺伝では聖武天皇の勅願、行基の開山と云う。
嘉祥年中慈覚大師(円仁)の教化により天台宗に改宗と伝える。松峯山と号す。
中世には東西南北の4谷に坊舎100坊を数えたといわれる。(現在でも参道両脇に幾多の坊跡の石組を見ることが出来る。)
織田信長の百済寺焼討ちに際し当寺も焼き払われるが、辛うじて本堂・三重塔・ニ天門のみは類焼を免れ現在に伝わる。
江戸期朱印は30石、本堂護持に充てられる。
寛永の頃、寺坊20軒前後、住僧約60名、明和の頃(1764-)では明寿院他10数坊僧侶50人を数える。
松尾村内503石余りを支配耕作し、半農半僧の生活であったと云う。
寛文4年(1664)の一山絵図では本堂、三重塔、文殊堂、薬師堂、権現社、ニ天門、鐘楼、谷堂7宇、坊舎24軒とされる。
明治維新で再び荒廃する。現在は本坊明寿院1坊で護持する。

2008/09/22追加:
「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より
 ○金剛輪寺坊跡調査平面図:東西1.1km余、南北1.2km余に坊舎は展開され、およそ70の坊跡が確認される。
2008/10/04追加:
「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より
 ○金剛輪寺遺構図

・本堂(国宝):弘安11年(1288)建立。
  ・・・須彌壇金具銘にこの年号がある。「大歳一和尚阿闍梨覚賢(壬年八十七)<花押>弘安十一年(大歳戊子)正月八日」
桁行7間梁間7間入母屋造、屋根桧皮葺。和様で構成される中世の天台本堂の典型とされる堂々たる大堂である。
2007/11/18撮影:
 近江金剛輪寺本堂11      同          12     同          13     同          14
   同        15      同          16     同          17     同          18
   同        19      同          20

   2001/10/07撮影:近江金剛輪寺本堂1     近江金剛輪寺本堂2

・二天門(重文):推定室町前期、元は楼門で、江戸中期に上部が取り払われたとする。3×2間。
 近江金剛輪寺ニ天門
・本坊
 本坊明壽院護摩堂:正徳元年(1711)、3×2間、屋根宝形造。

なお三社権現本社(重文)は明治11年大行社本殿焼失により、大行社本殿として移築される。


2008/09/22作成:2008/10/04更新:ホームページ日本の塔婆