備  前  熊  山  石  積  仏  塔

備前熊山石積仏塔(熊山戒壇)

備前熊山石積仏塔(史跡)

 本遺跡は「熊山戒壇」と称されていたが、近年の趨勢は、戒壇ではなく、和泉大野寺土塔大和頭塔と同じく仏塔であろうという見方に統一された感がある。
 しかし、いわゆる「熊山戒壇」が仏塔である可能性が非常に高いことには異論はないが、熊山にはいわゆる「熊山戒壇」に似た方形の石積遺構が30基以上あるといい、これらの 石積遺構が全て仏塔であると断定はできず、これらの群集は一体何を意味するのかが解明されたとは言い難いのが現状であろう。
即ち、いわゆる「熊山戒壇」は石積仏塔であるとしても、30基以上あるという一群の石積遺構は誰が、何時頃、何のために造立したのかが明確にならない限り、熊山の石積遺構(「熊山戒壇」)とは一体どのような遺構であるのかは謎のままであろう。

2016/09/30追加:
〇「岡山の遺跡めぐり」岡山文庫31、間壁忠彦・間壁葭子、昭和45年 より
 備前国最高峰熊山山頂には方形壇状に石積した遺構が大小いくつか知られている。山頂にある最も大きい遺構は国の史跡であり、岩盤に基壇を造り、その上に3段の方形石積を重ねている。中段の四方には龕を作る。頂上には竪穴を設け、この中から須恵器の巨大な筒形品と三彩の小壺が出土した。
 この遺構に近似した大きさのものが西方の南斜面にかかった南山崖にもあり、山頂尾根上に小さい石積遺構が点在する。こうした遺構の性格は必ずしも明らかではないが、奈良時代に始まる特異な山上の仏教遺跡である。
なお、山頂東側建物の北には正応5年(1292)在銘の岡山県最古の在銘宝篋印塔があり、南側斜面にかかるあたりから、平安-鎌倉の古瓦が出土する。
 (宝篋印塔は帝釈山霊仙寺戒光院の客殿跡にある。「僧顕空 正応五(1292)壬辰七月十日」と刻銘がある。)
2016/09/30追加:
〇「塔」日本の美術10、77、石田茂作編、昭和47年 より
土の塔:
 熊山に国の史跡「熊山戒壇」と称するところがある。
熊山戒壇は最下層(基壇のこと)は方50尺、第1層方25尺、第2層方17尺、第3層10尺四方で、2層目の四方に方形の龕を開く。
この遺跡は先年盗掘に遭い、中央地下1尺7寸5分のところに大基石があり、その下から瓦製宝珠円筒形容器が発見され、瓦容器中三彩小壺の存したことが報じられた。三彩小壺は今は失われ、その内容は明らかでないが、それが舎利ででもあったら、この遺跡が仏塔であったことが証せられたであろう。
 「熊山戒壇」石積遺構
2016/09/30追加:
〇「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より
 標高508mの熊山の山頂霊山寺の境内に「熊山戒壇」と呼ばれる数十基の遺跡群がある。
石英岩をもって造られた2〜3段の方形構築物で、中央の最大のものは一辺8m、高さ3mを測る。第2段の四面にそれぞれ龕がある。「戒壇」と云われるが戒壇ではないようである。
昭和13、4年頃の盗掘で中央の最大の戒壇から宝珠蓋を付した4段作りの箱型須恵器が出土し、その中に三彩小壺が入っていた。仏像も出土したというが不明である。これらの出土品から、遺跡は8世紀頃作られ、作ったのは中央政府と密接な関係のある人物と判断される。密接な関係のある人物とは和気清麻呂ではないかと指摘されるようになる。
 では、戒壇ではないとすると、どのような性格のものなのか。梅原末治氏は、上記の出土遺物が塔婆の舎利一具と類似していることと、四方の龕に四方仏を安置したと推測され、仏塔ではないかとの見方をする。あるいは、別の論者は法界塔婆ではないかという説を唱える。
 「熊山戒壇」実測図     出土箱型須恵器     出土三彩小壺:梅原末治氏撮影
2016/09/30追加:
〇「吉永町史」通史編1、平成2年 より
 熊山には、奈良期に行場が開かれ、石積の仏塔が建立される。これは和気清麻呂が協力援助したことが推定される。
行場には後に天台宗が入ってきて、天台系密教寺院となる。さらに後、真言宗が乗り出し、競り合いとなる。この競り合いの中で、信仰は盛になり、石積仏塔・修行台座も追造される。
 ※追造された石積仏塔:南山崖3号石積遺構、熊山石積遺構(熊野権現境内1号)の真西約600mの南山崖のすぐ真下にある。規模・形式とも1号と同じであるが、崩れている。
平安後期には修験道色の強い天台密教寺院が建立される。これが帝釈山霊山寺である。霊山寺は中世に最盛期を迎える。
2016/09/30追加:
〇「岡山県の歴史散歩」全国歴史散歩シリーズ33、岡山県高等学校教育研究会、山川出版、昭和51年 より
熊山の石積:
 熊山の石積(史跡)の正体は鑑真が作った戒壇とする古い説から、造塔説、墳墓説など様々ある。
鑑真の開基と云われる霊山寺は、後に天台宗として栄えたが、明治の神仏分離令で北麓の奥吉原に移された。霊山寺伝来の仏具が県内数箇所に伝えられる。
 ≪※明治の神仏判然の処置で帝釈山霊山寺の鎮守熊山権現は熊山神社(現)として独立し、霊山寺は取り潰し奥吉原に下山ということになる。≫
2016/09/30追加:
〇「和気郡史」通史編 中巻2、和気郡史編纂委員会、平成12年 より
大滝山(福生寺)本末問題:
 大滝山福生寺は真言宗に改宗以来、高野山西南院末であったが、天正14年(1586)頃高野山多聞院末になる。西南院は高野山木喰応其に訴え出る。そこで応其は熊山霊山寺に書状を送り、福生寺の過誤を指摘し、西南院復帰を説得するように霊山寺に指示する。
結果は福生寺は詫び状を入れ、西南院末に復帰することで決着するが、このことは、この当時、熊山霊山寺は真言宗に改宗していて、しかも本末関係では霊山寺は福生寺の上位に位したことが分かる。おそらく、中世の末期修験寺院であった霊山寺は衰え、修験 の故に寺田もなく、困窮したとき、霊山寺は福生寺から寺田2町5段15代(しろ)を恵んでもらい、福生院の福院となる選択をする。(大賀島寺舜祐の天保12年「書上げ帳」)
大滝山の熊山援助:
 それでも、霊山寺は困窮を極め近世初頭にはほぼ衰亡する。
慶長年中、奥吉原村信徒理右衛門と福生寺西光坊が熊山山頂に一宇を建て、西光坊坊主が住僧となり、霊山寺を再興する。しかし3年後住僧が逝去し、寺は断絶する。
 その後、理右衛門と福生寺円光坊・宝池坊が金山寺円忠法印に何度も、宗旨を天台に戻す条件で、再興を懇願する。再三再四の懇願に、ついに、円忠は藩主池田忠雄に願って、材木などの資金援助を得て、本堂・熊山権現社・同拝殿を建立する。
 しかし、時の経過とともに、無住の時代が続き、堂宇は老朽化する。
寛文元年(1661)金山寺賢厚法印が大賀島寺亮海に再興を命じ、藩の援助を得て、再興する。しかし経済的裏付けが無ければ、再び荒廃するのは目に見えているので、貞享2年(1685)再び藩に願い、寺領20石を得ることに成功する。これで天台宗帝釈山霊山寺の存続が保証される。20石は備前坂根村の麦年貢が充てられる。
2016/09/30追加:
◎「熊山遺跡群調査・研究会」のサイト より 諸情報を抜粋、以下にまとめる。
 本サイト中の 会報「熊山の石ふみ」では次のような情報がある。
○会報「熊山の石ふみ」21号 平成28年7月1日号 では次のようにいう。
 「仏塔は寺院の施設:熊山山塊に散在する石積み遺構は45基の所在が判明しているが、建造物の形状と判断できるのが6基であり、その内の史跡熊山遺跡(熊山神社境内内1号石積遺構)と南山崖石積遺構の2基は方形・三段の層塔の佇まいをなしている。石積遺構群の象徴的な存在感と著名性にある熊山遺跡は、その歴史的評価が諸説の学史を踏まえながらも、今日的には「仏塔説」に定着をみている。」
 「方形3段の層塔の佇まいをなす熊山石積遺構と南山崖石積遺構は、既に指摘しているように周囲に造成地形(ぢぎょう)を伴っているので、境内地即ち寺院の建築物との判断となる。両者の寺院跡の時期については、前者が発掘調査による出土物瓦当文では平安時代末期から室町時代中期となるが、かつての採掘時の出土遺物である須恵器製筒型容器と奈良三彩小壷の年代観から、構築が奈良時代末期から平安時代前葉に想定されている。後者は採取遺物により前者の構築期とほぼ同一時期と推定される。」
 南山崖石積遺構
○会報「熊山の石ふみ」20号 平成28年1月15日号
 「熊山遺跡群調査・研究会」出宮会長は、熊山遺跡群調査・研究会創立15周年記念シンポジウムの講演次のように述べる。
「西約60メートル下に築かれている『南山崖3号石積遺構』の実測調査を基に、国指定史跡との類似性について検討する。
南山崖遺跡は、規模的にはほぼ国指定遺跡と同程度だが、一方が山を利用した方形で、基壇を除くと2段層塔と一段低くなっている。しかし構造的には基壇を除けば塔身はすべて総積石で築かれ、四方に仏龕が設けられており、中央部に竪穴型の小室が存在するなど共通部分が多い。 また両遺構とも寺跡と推定できる土地を有していることから、結論として両者の石積み遺構は古代寺院に伴う仏塔であろう。」
○会報「熊山の石ふみ」19号 平成27年7月1日号 より
 昭和11年から12年に掛けて、この周辺一帯の遺跡が盗掘たちに襲われる。
熊山遺跡は昭和12年の盗掘で天井部分が壊され、竪穴として築造された部分から、頂部に火焔をかたどった陶製の筒型容器をはじめ、その中に入っていた三彩の小壺などが被害を受ける。
 その結果として異様な遺跡の形と埋蔵物の存在が広く知られ、さまざまな憶測を呼んできたのである。
 そして誰が、何時頃、何の目的で築造したのか解明されないまま昭和31年国の史跡に指定される。その後盗掘による崩壊の危険性があるとして昭和48年から49年に掛けて緊急調査と修復作業が行われ、以後学術調査もなく現在に至る。
 盗掘で壊された熊山石積:西面      陶製の筒型容器
 会報「熊山の石ふみ」以外では次のような情報がある。
○南の峰1号〜8号石積遺構:なかなか見つけにくいF6(南の峰6号)の位置とF7(美音院跡遺構)が再確認される。
 南の峰6号石積
 ≪※南の峰には1〜8号の8基の石積遺構があるのでであろうと推測できる。≫
○鍛冶社:(1号墳の西3〜400mほどの所にあるのであろう。)
山のふもとの福岡・長船に多い備前刀工が勧請したと考えられる神社である。熊山山塊に30以上ある石積遺構の一つでもあるが、形状は大きく改変されて いる。
 鍛治社石積
 ≪※鍛治社は一つの石積遺構の上に建つ。建物自体は小祠であり、この意味では石積遺構は小規模である。
もともと崩落した石積遺跡上に小祠を据えたのか、据えるために石積遺跡を毀したのかは不明ながら、石積遺構の上層は原形が分からないほど、改変されているようである。≫
○行人山遺跡:熊山の北の山、千躰地区、白陵高校南の山滝尾山頂にあり。
北東地表部に石の基壇のような敷石がある二段積の石積遺跡である。(底辺は2×2mほど)
この石積から東南約10mの所に石片6、7個が組み寄せられているが、石積遺構かどうかは不明。
 千躰行人山石積遺跡
○明人山遺跡:
JR熊山駅西の山の中腹にある。石積は原形を留めず、崩れている。
 千躰明人山石積遺跡
 熊山霊山寺に関しては次のような情報がある。
○会報「熊山の石ふみ」21号 平成28年7月1日号 では次のようにいう。
 「熊山霊仙寺:熊山山塊の山上寺院は、この山塊に現存する寺院の開基伝承を別にして、歴史資料から中世には本格的寺院の「熊山霊仙寺」の存在が判明しており、前記の発掘調査成果も反映している。
 現在は総社市井野尻宝福寺の所有となっている梵鐘(県指定重要文化財)の、陰刻銘文「奉鐘鑄 備州熊山靈仙寺 大工左衛門尉 應仁弐天戊子十一月十五日 新田庄内寺見村 大檀那祐長」 は、応仁2年(1468)における霊仙寺の本格的な仏教活動を物語っている。
 また、瀬戸内市千手弘法寺の所蔵する華鬘(けま)(国指定重要文化財)の収納箱の「備前國熊山靈仙寺本堂華鬘 康應元年己巳十一月十五日」の墨書は、霊仙寺の康応元年(1389)の時期における伽藍を整えた運営の様相を記載伝承している。
 中世山上寺院の「熊山霊仙寺」が、熊山石積遺構を伴う平安時代初期の山上寺院にまで遡るのか否かについては、史料的に確証がないうえに発掘調査成果も否定的であるが、岡山県南部の古代山上寺院の多くが中世山上寺院へ継承している類例を考慮すれば、少なくとも霊仙寺は古代山上寺院を継承していたと考えるのが妥当である。」
○熊山権現:
霊仙寺鎮守として、熊山石造権現が祀られる。
この備前熊山権現の本地は地蔵菩薩であり、伯耆大山権現、備前大賀島権現と皆一体であると云われる。
時代は降り、江戸期には熊山権現は農業神と牛馬も祀られることとなる。
しかし、明治の神仏分離の処置で、熊山地蔵権現は祭神をオオクニヌシとし、熊野神社と改号、分離独立する。
熊山地蔵権現も山を降り、同じく山を降りた奥吉原の東光山薬王寺の上方に祀られる。
○霊山寺の遺仏
奥吉原の東光山薬王寺の仏像の中には、明治初期に熊山頂上霊山寺及び熊山権現社から移された千手観音、地蔵菩薩が祀られる。
○大賀島寺
「熊山中興の祖」大阿闍梨亮海和尚は、備前大雄山大賀島寺(天台宗・備前48ヶ寺中21)の住職で、熊山帝釈山霊山寺の住職を兼ねていた。大賀島寺は備前48ヶ寺の一つであり、中世末期には、宇喜多能家(直家の祖父)の菩提寺となり、江戸期には岡山藩主池田氏の祈祷寺となる。
天和3年(1683)6月20日付・亮海和尚の「書上げ書」に熊山の全容についての記録があるという。
即ち、当時、帝釈山霊山寺戒光院という一山が構成されていたこと。また、山内にある大智明権現は、本地地蔵菩薩像が江戸初期に大山寺より勧請され、地蔵大権現の本像も同じ木から作られた一木三体≠フ関係にある。いずれも、牛馬の神様として信仰されている。
2017/08/20追加:
○「霊山熊山」岡山文庫225、仙田実、日本文教出版、平成15年 より
 熊山遺跡は、固定的なものではなく、弥生時代には磐座として祀られ、古墳時代には石積古墳として磐座が作り替えられ、そして奈良期には渡来人集団の技術で石積仏塔に造替されたのではないだろうかとの仮説に立つ。
 ※本書では熊山遺跡は仏塔説に立つが、それは弥生の磐座から古墳時代の石積古墳に変遷し、そして8世紀に石積仏塔に造替されてという仮説に立つ。
◇熊山遺跡についての諸説:
 1)戒壇説:戒壇とは僧尼に戒律を授けるために石などで築いた檀のことで、大賀島寺住職亮海(熊山霊山寺兼帯)の天和3年(1683)の「書上書」は戒壇説に立つ。「帝釈山霊山寺戒光院は天平宝宇年中鑑真が創建し、寺領20石、帝釈天王堂跡、観音堂、鎮守地蔵権現、上之宮、下之宮並びに戒壇跡がある。云々」
近世の地誌の多くはこの戒壇説を踏襲し、近代の沼田頼輔や永山卯三郎も詳細な説を展開する。
しかし、戒壇は東大寺・大宰府の観世音寺・下野薬師寺の戒壇のみが公認であり、また山上にいくつも設置されるものではないから、戒壇説は誤りであるといわざるをえない。
 2)仏塔説:出土した奈良三彩小壺を舎利容器と見て仏塔説をとなえたのは梅原末治である。この説が出された後、特殊仏塔説が主流となる。出土品が8世紀のものと考えられることからもこの説は説得性を持つ。
 3)墳墓説:近江昌司がとなえる。構造が行基墓や天武持統合葬墓に似ていて、しかも内部に仏舎利を納めていることも熊山遺構と同じであるという。それ故熊山遺跡は熊山周辺の高僧を葬った墳墓ではないかという。
しかしこの時期熊山周辺にはこの墓に相応しい高僧は見当たらない。報恩大師ということも考えられるが、熊山との接点はなく、第一報恩大師が備前48ヶ寺を建てたというのは史実ではなく、さらに備前の人というのは単なる伝説にしかすぎないことが最近の研究で分かってきた。備前48ヶ寺の建立は平安後期のことであり、大師自身は大和の人で、大和に没し、備前に来たこともないというのが定説となる。
 4)経塚説:陶製筒型容器を経筒と見る訳であるが、経塚は末法時代に入って設けられだたもので、8世紀の時代観の成立するこの遺構の年代観とは合致しない。
 5)修行台座説:熊山には熊山遺跡の他に多くの石組遺構がある。石組遺構は45基にのぼり、その内不確かな12基を除き、33基は確かなものであるという。このなかで熊山遺構とその同格級の2基は別としても、多くは行者(山伏)の修行台座であった可能性は高いであろう。
しかし、このことが熊山遺構が修行台座であったということにはならない。
 なお、地元では熊山遺跡の戒壇説と鑑真築造説、鑑真の熊山の樒発見愛用説は近世から信じられてきた。しかし、近年「戒壇説」はほぼ退けられるというのが実情である。
ところが、唐招提寺の寺史「招提千載伝記」中の「末寺記録」に「備前国熊ノ山霊山院」と記載があることが判明する。これは「熊山」「霊山院(寺)」の初出に匹敵する問題でもあり、改めて、鑑真との関係などについて、早急な考証が待たれるところである。
◇近世末期(天保期)の熊山
 境内地:熊山地蔵権現社附近、旅所、観音堂屋敷、霊山寺屋敷、古堂跡、山林、藪など
 田畑:3反6畝5歩
 収入:所属檀家なし、収納雑穀・祈祷料・賽銭など10両
 熊山地蔵大権現宮:本殿/1間半四面、拝殿/1間半×6間、地蔵菩薩坐像、現熊山神社
 霊山寺戒光院:本堂/西向き1間四面、観音堂/3間半×4間、宝暦5年(1755)取壊したまま、本尊十一面観音立像、
   鐘楼、客殿/5×8間、庫裡/5×10間、表門、長屋、納屋
 末社:大山智明権現宮/現大山神社、山王宮/現日吉神社、上之宮、下之宮、鍛冶宮
 戒壇:4間4面、高さ約1間、2重檀石畳
◇熊山の神仏分離
 備前では寛文年中、池田光政が神仏分離を強行していたので、明治の神仏分離の処置では、大きな神仏分離の処置は発生しなかった。しかし熊山霊山寺は権現社として明治維新を迎えたので、備前では少ない例外として神仏分離の混乱が発生する。
 明治元年神仏判然令が発せられ、霊山寺社僧が寺の什宝を売却、もう一人の社僧新置信敬と対立する。奥吉原の人々は怒り、新置を擁して、熊山地蔵権現宮本尊地蔵菩薩と什宝を奥吉原の東光山薬王寺に下す挙に出る。まもなく薬王寺に接して御堂を建て、霊山寺戒光院と名付け本尊を延命地蔵大権現と改め、新置を新住職とする。地元ではこれを明治7年のことと伝承する。しかし、地元の寺を護るこの行為は、官憲の知るところとなり、無届の点を責められ、下山を強行した人々は罰せられるという。
 なお、薬王寺は通常宝生院と称せられ、熊山の葬儀を執る寺院で、霊山寺兼帯の末寺であったが、霊山寺がしばしば無住になるので、金山寺に依頼し、享保年中に金山寺末寺となったという。
また下山強行の時、観音堂本尊十一面観音も一緒に下され、宝生院本堂脇檀に安置される。
 結果、本尊が下山した熊山地蔵権現社は、熊山神社と改号するも、本殿は祭神が空白の状態となる。
しかし、これでは、格好がつかないので、明治9年祭神を「熊山神」あるいは「熊山彦神」としたという。しかし、この祭神に何等かの意味がある訳ではなく、神名に山の名を当てただけのものであった。現在はオオクニヌシが祭神という。
ともあれ、熊山神社の成立で、熊山の神仏分離は完成する。
 熊山神社の社殿は明治33年の暴風雨で倒壊、明治35年再建。一方空家となった戒光院の堂宇はその後の長い年月の間に腐朽し、廃棄されるという。
 


2016/09/30作成:2017/08/20更新:ホームページ日本の塔婆